今晩は、私、4996番目でした。
本日、ついに劇団カプチーノ5000人突破する!と信じて書き始めます。
私が小学生の頃、ファミコンが発売されたのだが、なぜか両親に「買って」と言わなかった。
8つ下の弟は、ラジコンだのチョロQだの、「みんな持っている」と言うだけで、
事もなく流行を手にしていた。
女親は男の子に弱いということ、男のつきあいはお金がかかるということ、を知った。
弟の一声があがり、我が家にファミコンがやってきた時、私は中学生になっていた。
時代の波に乗り遅れ、やっと私はスーパーマリオブラザーズ、した。
いや~下手だったね~これが。
原因は気持ち先行型、指先へ指令は不通、マリオは飛ばず私のお尻が浮いている。
ボタン不連打一押入魂型、思いの丈を託した気合いの親指に体力消耗。
一面すら乗り越えることができない。イライラ募る。私にはあわない。
現実を前に自己防衛本能が働いたのか、ファミコンへの興味は消え失せた。
弟はどんどん突き進み、取り決めた使用限度時間をも超え、よく母に怒鳴られていた。
母はゲームし続ける弟を見てはいつも「ファミコンなんか買うんじゃなかった」と言っていた。
私はその日、期末テストの勉強で遅くまで起きていた。
喉が渇いたので何か飲みに行こうと階段を降りようとした瞬間、下から聞き覚えのある
あのマリオの音楽!(トンガリキッズのB-dash参照?)
タタッタ、タタッタ♪ スタート?タッタッタッ、タッタタタタ…タタッタタタタ…終了。
再びタタッタ、タタッタ♪ スタート、タッタッタッ、タッタタタタ…すぐさまタタッタタタタあっけなく終了。
またまたタタッタ、タタッタ♪
「も~下手やな~」母の笑い。「なんやお前もやないか」父の笑い。
え-!こんな夜中にお父さんとお母さんがファミコンしてる…
ファミコンなんか買うんじゃなかったって言ってなかったっけ?
私はしばらく階段に座り、父と母の笑い声をきいて、自分の部屋に戻った。
私には家族旅行の思い出などはない。
父は気のきく企画をたてる質ではないし(第95話参照)母はいつも誰かの看病をしていた。
母自身が入院したこともあるし、弟もよく入院する。
父方の祖父は14年寝たきりの生活だったが、その前は母方の祖父を在宅看護していた。
自宅での介護は決して平らなものではない。幾度も病院に駆け込んで、
固唾を飲んで励ましてはまた一緒に家に帰れたことをほっとするのくり返しだった。
家から離れるのは無理だった。どこかに出かけたり家族旅行などの思い出はあまりないが、
私にはコインをひとつも集めることのできない父と母のマリオの思い出がある。
父と母の愛情を疑ったことはない私は安心して眠ることができる幸せな子供だった。
看病で家に縛られていたのではない。
祖父と祖母も父と母も、みんなで一緒にご飯を食べることが一番の幸せだと考えているのだ。
それは今、父と母を見て育った私にも流れている。
蛇足。
時代の波、やはりたしなむ程度にゲームができるようになりたいと思い、
最近になってプレステ、してみた。
びっくりした。
映像と音楽がま~すごい…リアリィ?
ストーリーまで! これ映画じゃないよね? うろたえた。
私の手が震える。体、感…(古っ、こういうとこ隠しても隠しきれないのよね~)
だけど…私の選んだ勇者は、ちゃんとまっすぐ歩けなかった…これが現実。
マリオはまっすぐ進んでくれたよ…たとえそのまま落ちていってしまったとしても。
足音がリアルなだけに右往左往している私の勇者は悲しかった。
いや、ストーリーの枠を超え可笑しくなっていた。
寝かせたからといってゲームの腕があがるはずもなく、また当分やる気が失せている。
※書き終わってみたら、5002でした。信じてよかった。やった~。
5000番目のあなた! どなたかは存じ上げませんが、おめでとうございます。
いいことがありますように…私にそんな力はございませんがせめて祈っています。
5000番をここまで支えて下さったあなた! ありがとうございます。
私? もう寝ます。おやすみなさい。あぁ…でも嬉しくて興奮して眠れない。
職場の男性の愛妻家ぶりを見たり、友達のだんな様の話をきくと、
ここ数十年の間にこの国に一体何がおこったのだろうと不思議に思う。
日本の男たちが、家事を手伝い、子育てに参加するという!
私は未婚ゆえ、夫像はというと父親しか知らない。
家の中の父は、座ったっきり、横になったまま、立たずに「お茶」の亭主関白。
父の家族サービス? そんな言葉は我が家に存在しない。
飲むわ、打つわ、外で個で楽しむ。
母の誕生日、こっそりプレゼントを買って驚かす…なんてドラマでしか見たことがない。
料理中、母が誤って包丁で指を深く切った。
父はつったったまま、母の不注意を怒鳴っていただけ…気の利いた言葉ひとつ言えない。
優しい言葉のひとつくらいかけてくれてもいいじゃない! 母と喧嘩が始まる。
同じ女性の立場として母の味方に立つものの、私は父親似、父の気持ちもわかる。
つったったまま→あまりにも驚きすぎてどうしていいのかわからず動けない。
母を心配し、想うあまり→怒ってしまう…不器用な男だ。
飲むわ、打つわ、ただひとつ、買うはなかった。
母の帰りの遅い日、父はさらに遅い。母のいない家に帰りたくないのだろう。
精一杯働き、不器用に母を想っている…わかりやすい男だ。
威張っていた父が仕事を辞めることになった。
真面目一徹、正義感の強さが災いした。父は正直すぎる。
新しい職場でも、相変わらず許せないことがあるのだろう…胃を痛めている。
不器用な生き方しかできない。父らしいではないか…
父が自分でお茶を入れるようになった。つっぱる背中が以前より丸い。
娘からすると恥ずかしいのだが、父は恥ずかしげもなく私や弟のことを外で自慢する。
「そう自慢するが、最近の子は親の知らないところで何をしているのかわからない」と言われ、
酒の席、流せばいいのに本気で反論、喧嘩して帰ってくる。かなり飲んでいる。
酔っぱらっているので、何度も繰り返し言う。
私や弟のことが自慢だと、信じていると延々…まったくもぉ…お父さん、ありがとう。
笑えない時は、まず唇だけで笑顔を作る。そのうちに心も後からついてくるらしい。
私の場合、なかなか心がついてきてくれなかったので、
悩んでしまう時、口をポカンとあけてみると人は思考から解き放たれるらしい、を採用。
人前ではばかられるこのポーズ、トイレにて実践。
ポカ~ン…確かに考えることができない。が、客観的に虚しかった。個室はやめよう。
外に出た。目的はただひとつ、私にとりついた憂鬱を何とかしたかった。
水泳(3/24付第38話遠泳法参照)、乗馬(3/23付第37話たなごころ参照)、ゴスペル、気功、ヨガ、
エアロビクス、ハワイアンフラダンス、フラメンコ、アルゼンチンタンゴなどなど。
順位不同、これだ!を探して手当たりしだい。
今日は、フラメンコについて。
先生のかけ声(気分高まるスペイン語)と手拍手にあわせ、ステップを踏む。
ヒールで床を踏みならす音が心に響く。
日常、地団駄踏むなんてそうそうできるものではない。泣きながら踏んでいた子供の頃を懐かしみ、
感情を大地にぶつける。その気持ちよさに足に力がこもっていく。
続いて上半身、指先を小指から一本一本折り曲げ、美しい曲線を描くころには
すっかり「その気」、情熱の女。
(その気になるのは自由なので、鏡に映る私のステップは明らかにたどたどしかった…)
興奮と共に体験教室は終わり、先生から説明を受ける。
「フラメンコ専用のシューズは10万円、フレアスカートはだいたい1万円~になります」
体は一気にクールダウン、その気は待機。
公演資金を捻出する為、なるべくお金をかけない気分転換を図っている。
最近はウォーキング。歩きながら、次回作の題名を考える。
いつの間にか歩くことに夢中になって、題名がいまだ浮かんでこないのだが、
無心に歩き、汗をかくのは単純に気持ちいい。
うまくいかなかった日は、歩く。頭と体の疲労を平行にしてから、ストンと眠る。
内にこもって考えれば考えるほど頭でっかちになる。
頭が重くなりすぎると、立ち上がることすらままならない。
心に効くことを求めて、形(体)から入る。動詞を大切にし始めてから、調子がいい。
ほころび茶話んを書きながら、動けば動いた分だけネタが生まれるもんだとつくづく思う。
暗中模索の自己投資、振り返ると無駄にならなかった。経験したことが、生きてくる。
限りある自己投資金…あの時、躊躇してしまったが、機会あらばまたぜひ地団駄踏みたいな~。
※自分が歩き始めてからウォーキング人口の多さに気づく。
歩き始めたら、一人でない。季節も、体にもいい!
うじうじしちゃう日は、歩いてみよう。 さあ、あなたもご一緒に!!
演劇以前
勤めながらの長期の習い事はなかなか難しいこともあるかと思います。
なので、私は1~3回完結ものを色々試しました。
「光の散歩」(一回完結)もそのひとつ。
光の散歩 -初夏のめぐみを楽しむ- 講師は岩村原太さん(舞台照明・美術家)。
空の色を見たことがありますか?
街の中、森の中、そして季節によって知っていたはずの空の色は少しずつ違います。略
なにより、私たちの気分によって、まったく違ってしまうものなのです。
空の色や木もれ日を、手の上にのせてみましょう。(チラシより抜粋)
五月は空の色がまっすぐ届くという。
季節や土地によって空の色が違うのは水蒸気の量が問題で、多いと届きにくくなる。
初夏はラベンダー色、秋はブルー、三月になると黄色になる。(講座の記録ノートより抜粋)
今はわからないかもしれないが、光を見るトレーニングを行えばわかるようになるそうだ。
トレーニングはある一定時間に照明を消し、自然の光を手のひらで見続ければいいらしい。
先生に見える色が私には見ることができず残念だったが、
今でも「木もれ日は丸い」と知ることができたのはよかった。なぜか優しい気持ちになれる。
物が見える→光がある。
光がある→カゲができる。
私はこのフレーズを何度も記録している。
この講座のメモを時々手にとってみる。
光があるから物が見えること。光の入ってくる数だけカゲができること。
光の存在を思い出すだけで、今、闇への恐怖がやわらぐ。
この言葉の向こうに、その時々の色々な自分の気持ちが見えてしまう。
光の色は「白」紙を使って見る…
少し「シワ」を作っておくと、「表情」がくみとりやすい…
今宵は言葉にひっかかってしょうがない。
※第二回公演上演許可がおりた興奮のまま台本に向かうと思いきや、ほころんでしまいました…。
今夜、掲示板も更新できました。
友人のメールをきっかけに、
88、89、90といつも書こうとしてうまくいかなかったところに触れてみました。
お見苦しい文章にならぬよう心がけてはいるものの、幾度となく気持ちの泥沼にはまりこんでしまいました。
なかなかうまく自分の中にあるかなしみをとりだして、客観的に見るのは難しいですね。
こんな時は…逃げてみよう。
こんなこといいな、できたらいいな♪ サプライズ婦人。
あんな夢、こんな夢いっぱいあるけど~♪ 奥様バージョン。
だんな様、ここのところ元気がないような気がする。こんな時は?
オレンジをいっぱい、箱単位で購入(傷ありでもOK)。
部屋を閉め切って、100%生搾り。オレンジジュースをつくる。
とにかく搾る、搾る。ゼリーもつくれそう。作っとく?
ただいま~って、帰ってきたら、いっせいに部屋の扉をあける。
家、いっぱいにひろがるオレンジの香り!
で、だんな様、元気になること間違いなし!!
どうしたの?!すごい。いい香りだね。
オレンジジュース作ったんだ~。
な~んてできたらいいな~と自分用にオレンジを搾る。
搾った後、手に残るオレンジの香りが嬉しい。
まあ、待てど暮らせど、こんな機会はやってこないので、やってみることにしました。
第一回公演台本には、「オレンジを搾る」と入れました。
とーまちゃん、どうしてユダヤの話にオレンジなの?
ん? えっと、ユダヤ人迫害のお話できっと観てる人が辛い気持ちになると思うから…
最後、元気になって帰ってもらおうと思ってね。
とーまちゃんが、やりたいんでしょ~?
ん!
ですが、私のこの夢、演出上受け入れられませんでした。
オレンジの香りはお客様の想像力があるからと励まされました。
私は私の夢をみなさんに「説得する力」がなかったんですね。
でも、どうしても諦めきれず、だって、私、その為に働いて貯めたお金、かけたんだもん。
そう、どうしても諦めきれず、舞台の上で搾れないオレンジを、実は裏で搾りまくっていたんです。
はい、往生際の悪い女です。
そして、公演をご覧になられた方で想像力ではなく、嗅覚を使って感じていただけた方、
あなたはすごく鼻のきく方です!…これは褒め言葉にならないか…いえ、でも
嬉しいです。
最後、白いワンピースを着て登場するのですが、
クリーニングを出した後に見たその衣装にはオレンジの染みが残っていました。
頑固者の消えない思いか…
この染みが次回公演へのきっかけです。
私、ついに第二回公演を決意しました。
来たる10/9日曜、10祝日、場所はウィングフィールドで公演うちます!
今、決まっているのはそれだけです。追って、ご報告していきます。
お時間ございましたら、わたくしとご一緒に現実逃避していただけませんか?
※私が憧れているのは、
昼、汗をかく仕事の後に、夜、親睦を深める会があるような日の朝、
だんな様に余分にひとつシャツと靴下を持たせることができるような…そんな奥様。
そんな奥様がやっぱり素敵だと思います。
私に、できるかな、できるかな♪
たまの休日も子供の面倒で疲れ、あっという間に過ぎ、したいことをする余裕がない。
友人からのお悩みメールに、あれ?私からするとそういうの、幸せっていうんだけどな~
でも、友人からすると私の独身生活の自由さを羨ましいと思うかもしれないな~とも思う。
ないものねだりに隣の芝生、なにわともあれ、何を幸せと考えるか?
価値観によるところが大きいようだ。
で、私の価値観から見ると? 今の私は幸せでなくなってしまう…。
いかんいかん、幸せは感じるもの、頭(価値観)に縛られず、とにかく体(五感)に訴えてみる。
幸せを欲張らず、ここはひとつ具体的に変換しながら積み重ねていくことにした。
幸せ=おいしい!気持ちいい!楽しい!面白い!など。
幸せ探しと構えると、遠く感じ、不安に押しつぶされそうになるが、
おいしいを探しにいくと、ぐっと身近になる。(3/8付第23話より一部抜粋)
というわけで、できる範囲内で、自分で幸せ作りを心がけている。
つもり。
いつも右肩上がりなんて無理。へこんだり、同じところをぐるぐるしたり。
これからもずっとこんな感じで山あり谷あり迷いあり、いくんだろうな~。
同じ友人に向かっていったことがある。
いいね、いつもラブラブで!
…やっぱり100%の幸せなんてありえないよ。色々あるよ。
でも、何とかしなきゃって、そのかけているところが次の一歩の原動力にしながら、
これからもずっとこんな感じで一歩一歩、ゆくんだろうな~と。
そうこうしているうちに、我が子の可愛さに年齢なんかないねって正々堂々自認親バカメールがやってきた。
お!幸せに気づいたか~元気になったな!
私もあやかろうと当たり前になっていることを探す。
見つかればいいけど、見つからない日もある。
そんな時は、少し先に幸せを設定する。と、期待する。と、この先の私にわくわくする。
現に私は第二回公演を今秋にうつ!と決めたとたん、生活の輪郭がはっきりして驚いた。
幸せになる方法は色々あるけれど…自分の為より、人の為の方が頑張れるのはなぜだろう。
五感に訴える幸せは、即効性があるけど、持続性に欠ける。
でも、誰かの為を思うと幸せがあったかく灯る。
特定の誰かというわけではなく誰かに向かって発信している。
たった一人でも誰かに届けば…光栄です。
嘆く日本人、あなたのまわりにもいないだろうか?
我先に、嘆く。
嘆くための準備は怠らない。要領よく整える。何となく芝居がかっているとしても
受け手は、同情する、褒める、認める、労うなどする。
嘆いた方は自己主張できた分晴れやかに、同調した者は浴びた分だけ重くのしかかる。
ふと顔をあげると、あれ?…音頭をとっている人が一番汗をかいていないことがある。
私が見てきた限り、頑張っている人ほど、口数は少なかった。
知ると何も言えなくなるのだろうし、言わなくてもわかるようだ。
お昼ご飯を一人でとっていると、相席になった。
ほほえみかけたのがきっかけとなり私たちは言葉を交わし始めた。
50代くらいかな?その紳士は広告業界の方。
「この国は今、元気がない。どうもね、30代後半~40代に元気がない。
バブルの頃の私たちを見てたからだろうね~くさってしまって…いかんね…
私たちも私たちで苦労した時代があったんだがね…彼らが元気を出してくれるのを期待してるんだが…」
私は頷いた。時代を嘆いていても始まらない。
雇用リズムの転調が生んだ君臨を思いながら、もう一度、頷いた。
上から下を見ると得しているように見えるのかもしれない。得を隠して、なぜ嘆く?
下から上を見ても得しているように見えるものだ。知らずして、なぜ羨む?
「いい広告をつくる為にはね、人と人との関係を知ることですよ」
「時代をよむとか勝手に思っていました。
私、演劇をしているんですけれど、舞台も人と人との関係をみせるものと習いました」
時代ではなく、結局、最後はその人自身なのだ。食卓講義を拝聴できた幸運に、心より感謝。
人にはいくつもの立場がある。
同じ職場の人間として、同じ課として、同期として、それぞれに。
同じ場所に立つ人の辛さはアピールせずともちゃんと横並びに伝わっているものだ。
人と関係したらした分だけ相手を感じることができる。
さびしさを経験して、徳したことがある。
たとえ問題解決にならなくてもいい「大丈夫?」その一言が相手に与えるあたたかさを知っている。
たとえ投げたその言葉が拒絶されたとしても、その拒絶が本心ではないことを知っている。
あまりにもさみしかったからうまく受け取れなかっただけ。
そうしたら次にきっとそんな自分を責め始めるだろうから、私は何も言わずただ隣に座っていたい。
知ったからわかる。私が欲しかったことを誰かにしてあげたい。
嘆くより、ずっといい。
同じ場所に立って一緒に見る景色は一人でみるより、ずっといいと思うから。 つづく
※30代後半~40代全員が元気がないという話ではありません。
ひとつの世代論としてお受け取り下さい。
私と同じ立場にあっても、私ではない人はさみしいと思わないかもしれない。
感じ方は人それぞれに違うのだから。
あなたがさみしいと感じたら、それがあなたにとっての真実。私は信じる。
私も辛いことを辛いとずっと言えなかった。
親に心配はかけたくないから、精一杯のから元気。何かあった?ときかれたら、残業疲れを装う。
親の目をごまかしきれていないかもしれないが、今も打ち明けてはいない。
友人との楽しいひとときを自分の抱える問題で暗くしたくなかったから、
このほころび茶話んを読んで、会えない時の私の状況を初めて知った友人は多い。
もし、あなたの子供があなたにかなしみを訴えてきたら、
それは子供にとってかなり勇気のいることで、もう悲鳴に近い心の叫び。
軽んじてはいけない。真実の重みを受け止めてあげてほしいと願う。
また子供として渦中にいる者としては、
傷ついているのは私だけ!誰もわかってくれない!と1を10だと思い込み、
いつの間にか自分自身も誰かを傷つけていることを気づかなければならない。
生きていく中でできれば誰も傷つけたくはないと思っていても、それでも傷つけてしまうものなのだから。
あたるのはよくない。と自分に言いきかせる私。いいきかせても繰り返してしまうもので、
悟れぬ私が諭す恥ずかしさをどうかお許しいただきたい。
当事者にとっては何事もなく忘れてしまうことも、受けた側はそんな簡単に消える傷跡ではない。
私もふとした瞬間蘇るあの頃の思いに喉に涙の味を熱く感じる。今でもリアルに。
安全な場所にいる為に先を争って先入観をうえつけていく人もいるだろう。
噂を作り上げる人もいるだろう。
あなたを真似てあなたのアイデンティティを奪う人もいるだろう。
比較してしまうことを確信した優しさを見せつける人もいるだろう。
先攻の不利、先を譲った後、道徳的な香りをちらつかせ真実を裏返す人もいるだろう。
(決して願っていうのではないが)悪質な嫌がらせは教室の外、社会にもやはり存在する。
なぜなら、境界線をひくことで団結力が高まるのだから。
仲良きことは美しきことかなと密接に結びついているから…やっかいだ。
じゃあ、どうすればいいの?
強くなっていかなければならないと思う。感じ方を変える。
じゃあ、どうすればいいの?
優しくなければならないと思う。器を大きくする。
どっちも?じゃあ、どうすればいいの…幸せになればいいの! という結論に達した私。
相手の不幸を願うのではなく、自身の幸せをパワーにする。
自分の中に抵抗力がうまれ、痛くも痒くもなくなれば、相手の心に無関心をうむ。
第一に幸せに、本気で、取り組んでいる間にまわりが気にならなくなるし。
そんな簡単に片づけないでよっていわれるかな…簡単じゃないよ。
その為には、自分が、探さなければならないし、自分が、感じなければならないんだから。 つづく。
人の笑い声ばかりをききすぎたような気もするし、
怒られすぎたような気もする。
大人になって怒られすぎるのはよくない。
叱られるのは子供の頃にしかるべきところでしかるべき方法で行われる方がいいのだろう。
大学時代の4年間、アルバイトの接客業で「申し訳ございません」と謝り過ぎた為か、
私は就職活動で事務職を希望した。
私は入社10年目になるが、新人の頃から変わらず今も課の末っ子。
今まで規則正しくうっていたリズムが、突如、休止した。
そういう時代、にあたってしまったらしい…。
私の職場にはいい女が多い。尊敬できる先輩方の背中を見つめ、学ぶべきこと多く…
できることなら一緒に笑いながら仕事をしたかったのだが…。
何年経っても状況は変わらない。
さみしさの中で期待の持てない未来は暗く、果てしなさに滅入る。
思えば…
入社したての頃、「何かお手伝いできることはありませんか?」
役に立ちたい一心からであったが、領域を侵しすぎたのか注意を受ける。
頃合いがわからず、臆病になった。
最初は「私も一緒に…」と申し出ていたが、聞くたびに「いいから…」という返答に、
横並びの背中を羨ましく眺める。いつの間にか邪魔にならぬよう自分からひいてしまう。
背中を見つめ笑い声をききながら食べるおやつは味気なく喉につまる。
何をしたら?何もできず、何がいけない?自分を責め始めた。
お昼の休憩室で、大勢の中の孤独にたまらなくなってつっぷして泣いたが、
そのくらいで会話が途切れることはなかった。
そのうち体調の異変を感じ始め、すがる思いで相談したが、涙の訴えむなしくご指摘を受けて終わる。
今は以前のように泣かなくなった。泣けなくなっただけなのか…。
求めているのに求めていないかのように平らな気持ちでいることだけを心がけた。
あきらめというより、心を守る為だった。
人間関係も相互作用だと思う。
どちらか一方だけが頑張りすぎてもだめ。双方、歩み寄らなければいけないのだろう。
だから
私と同じようにさみしさを味わっているあなたへ
どうか自分を責め続けないで下さい。
壊れてしまうまで、頑張らないで下さい。
あなたは世界中すべての方から嫌われているわけではない。
それは今あなたの目に映る範囲でしかないということ。
たった一つの世界を見ただけで、その決断を下さないでください。
昨日、友人からメールが届いた。
何か上司の嫌がらせに近い行為で日々疲れています…会社を辞めるつもりです。
頭痛がするという。
私は彼女が頑張り屋さんでとても優しい素敵な女性だと知っている。
物事を丁寧に見、懸命に取り組む。優秀な人材なのに…残念でならない。
彼女のような娘が何人、転職をよぎなくされているのだろう…悔しさすら覚える。つづく。