「え?(私のことか?)ハッ(私だ)」
瞬時に気づいて、声のする方向を見たら、出たぁーっ。
あ!(わ、主人そっくり・・・)
なんか手足が紫色っぽいぞとこれまた瞬時に思ったが、
産まれたという興奮の中で周りの異変に気づくことなく、
主人にずっと「(主人の名)にそっくり」と笑っていた。
初めてのことだし、息子が連れていかれたのもきっと綺麗にしてもらっているんだわ
くらいにしか思っていなかった。
あれ・・・
「カンガルー抱っこ、いつになったらできるんでしょう?」
助産師さんや先生がどう私に伝えてくれたのか思い出せない。
母親を心配させないでおこうという配慮しか思い出せない。
ゆっくりと体を起こし、助産師さんに支えられながらLDR室を出ると、
廊下の椅子に腰掛けている主人が見えた。
憔悴しきっている・・・あの主人の姿が忘れられない。
主人の希望を却下し、私は立ち会い出産を望んだ。
出産を夫婦2人で共に乗り越えることは夫婦の絆を深めるものと、
産みの苦しみに立ち会えば父性が生まれ、
その後の育児協力につながるものと、信じていたからだ。
実際、立ち会い出産をしてよかったのかどうか・・・
分娩中、幾度か担当の助産師さんが部屋を出て行き、夫婦2人だけ取り残された。
かと思えば、他の助産師さんが入れ替わり立ち代りは入ってきては、
何やら小声で会話し、また出て行く。
初産であれど、曇り顔の助産師さんにただならぬ空気を感じ、不安になるではないか。
もし主人がいなければ私ひとり・・・側に誰かがいる状況。私は、よかったと思う。
主人はどうだったのだろうか?
もともと嫌がっていたのに、加えて難産である。
女性は産むことだけに没頭できるからいい。
男性はしらふでその光景のすべてを目の当たりにする。
途中、赤ちゃんの心拍数を計る機械が切られたことなど当時の私は知らない。
一部始終を知る主人は、最悪の事態を予測しうる時の中でなすすべもなく側にいた。
立ち会う男性の辛さを思い計る余裕などなかった。
可愛い我が子を前にできることならもう1人、若ければ後2人は欲しいところであるが、
主人は1人でいいという。
それは、きっと出産は産む側も、生まれる側も、
命懸けの営みであることを目の当たりにしたからであろう。
「子供はそんなに簡単にできるものではないよ。K君は奇跡の子だよ」
立ち会ったからこその深い思いであるが、
立ち会ったからこその深い傷といえなくもない。
新生児仮死。
その影響は主人だけではない。息子にもある。
いまだ夜泣くように起きる。
「生まれる時の恐怖感からではないか」と学者ではない夫婦の会話。
時間がかかっても少しずつ克服できるといいなと。
そして、私にもある。
グズる息子に、イヤイヤ期の息子に、この血の気の多い私が感情的にならないなんて・・・
グッとたえることができる。
これは少し角のとれた30代の育児というだけではなく、
「難産による無意識下の罪悪感からではないか」と推察。
やっと念願叶って母となったママのような穏やかな育児は、
出だしピリッとした出発だったからではないだろうか。
話を書き終えてから題名を考えることが多いのだが、題名を「トラウマ」にはしたくない。
エメラルドは内部に多くの傷を持つのが特徴だという。
宝石は傷の少ないものが上質とされているが、その傷こそが天然の証であり、
エメラルドの魅力だという。
傷つかずに生きることなど不可能であろうから、
無数の傷がおりなす輝きの美しさを信じて「エメラルド」に決めた。