実際にお会いすると…
前田先生は可愛かった。玉男師匠は色気があった。
小倉千加子先生は勇ましかった。海原純子先生は華やかだった。
養老孟司先生はちょい不良だった。人を惹きつけるその魅力は様々だが、
ユーモアは共通。面白さが記憶につながっていく。
嫌われたくないために一体感を求めて…みんな一緒でないと不安…
自分のいる場の空気をよまねばならない忙しさ…時代の気分…
小倉千加子先生の講演メモより一部抜粋。
「ネコ」と発音してみたら、一人一人の声は指紋と同じように区別できる。
「ネコ」と紙に書いてみても、長さ角度筆圧、全く同じ文字は存在しない。
同じというのは極めて乱暴な働き。
私にしか価値がわからない。自分独特のものだったら隠す必要はない。
例えば、顔。みんな平気で出してるでしょ。本当の個性は誰も気にしないもの。
養老孟司先生の講演記憶より一部抜粋。
ナチュラルキラー細胞(NK細胞:細菌やウィルスをやっつけたり、ガン細胞を殺す働きがある)は、気持ちが落ち込むと減る。
このストレスで減ってしまったNK細胞を増やすには?
いいな♪気持ちいいな♪をたった3~5分イメージするだけでいい!
海原純子先生の講演記録より一部抜粋。
それぞれ先生の専攻研究対象は違えども、今夜の気分で抜粋すれば、テーマが見えてくる。
希薄な自己、唯一無二の私、大切な私、新しい一日を迎える為のリセット。
生きている人のパワーを浴びる。欲しいところにそのエネルギーはしみこんでいく。
人と関わり楽しく学ぶ中で、人生を楽にする引き出しが増えていく。
公演に講演、とにかく惹かれたものには予備知識なし無知状態で飛び込む。
結果、当然、わからないことも多い。
そんな時も大丈夫、全身浴「細胞がきいている」ことにしている。
ひとつ好きが見つかると、その1つがきっかけとなって、ひろがっていく。
演劇が好きになり、温故知新と人形浄瑠璃「文楽」に出会う。
うちには正直、義太夫節の語り、よ~わかりまへん。
話の筋もようわからんままに、それでもずっ~と見とりましたらな、
なんや、人形が人形でなくなる、そんな瞬間がありますねん。
そん時はもう人形のうしろにおる人なんて気になりまへん。
私の目にうつるんは人形だけや。その人形の美しいことゆ~たら…。
この人形の顔、実際近く見たら、そらもう羨ましいほどの小顔ですわ。
色が白いゆ~たかて、あの人形みたいに白いおなごはこの世にはおりまへんやろな~
白人?そんなん足元にもおよびまへんわ。
このおなご、普段はなかなかツンとすまして無表情ですねんけど、
小さく上向いたり下向いたりするだけで、くもったり、はれたりしよりますねん。
始終、微かに揺れてるその小さな白いお顔が儚げでまた色っぽい。
うちが真似たら、どないしたんや、ひきつけか!になるのがおちやろな…
そんなあほなことばっかり考えて見ててもあかん、
よ~わからんから少しはわかるようななりたい、そう思て、
なにわ文楽塾PARTⅡゆ~のに参加。そこで出会ったんが、人間国宝、吉田玉男師匠!
平成12年やから、今から6年前のことやけど、
前田センセ(この一個前の第123話参照)にお会いしたんとちょうど同じ場所、
大阪府立文化情報センターやったから、モーツァルトききながら、
なんや懐かしなぁて思い出してしもて…。
玉男さんは、1919年生まれやから、私が会たんは81歳の玉男さんやけど、
色気のある方やった~。
何か1つのことに取り組んで、長く生きてきた人のパワーはすごい。
玉男さんのことを好きになって、あの後、わからなくても文楽から気持ちが離れなかった。
そして見にいったのが、曾根崎心中。クライマックスは天神森の段。
平野屋徳兵衛・吉田玉男、遊女お初・吉田蓑助、遣い手によって人形に命が吹き込まれる。
心中のシーン、実に美しかった…文楽、虚実皮膜の面白さ。
文楽の女形は普段足元を見せることがない。
足遣いの両手の仕草で、その着物の奥にさも足があるように見せるだけなのだが、
初めて足を見たのは同じ曽根崎心中、天満屋の段。
お初は縁側に腰掛け、縁の下へ隠れた徳兵衛にそっと足を差し出す。
その足で、死ぬ覚悟があるのかどうかを問う。徳兵衛はお初の足を握りしめ答える。
足で!!
言葉なき心中の意思確認。これまた美しいシーン。
ひとつ好きが見つかると、その1つがきっかけとなって、ひろがっていく。
徳兵衛の恋がさめぬよう、私は定期的にフットケアに通っている。
※文楽…大阪の代表的な伝統文化で大夫、三味線、人形から成る舞台芸術。
大夫は、全ての登場人物の台詞、及び物語の情景描写までを行う。
三味線もまた、大夫と気持ちを同じくし、心を弾く。
文楽人形の最大の特徴は、一体の人形を三人で操るところにある。
主遣いが左手で人形全体を支え、右手で右手を操作。
左遣いが右手で左手を遣い、足遣いが両手で人形の両足を操る。
大夫と三味線による義太夫節の語りにあわせて人形が動く和製ミュージカル。
三人遣いによる人形劇は世界で類をみない。つまり、唯一。
私の場合、観劇の醍醐味は生きている人(役者)のエネルギーを直接、全身で浴びにいくこと。
同じ理由で、講演も好き。
モーツァルト生誕250年、受講して参りましたのは、
大阪芸術大学公開セミナー2006「音の楽しさ楽の愛しさ」
前田昭雄先生(大阪芸術大学音楽学科教授・ウィーン大学名誉教授)
講座「モーツァルトの現在。楽しむ、愛でる、そして『わかる』!」
お話はモーツァルトの現在「今」と現在「現に存在している」をかけて。
先生のお母様が当時4歳の先生を寝かしつける為にかけていた「おねんねの曲」がモーツァルトのメヌエット。
当時はLP、すぐに収録曲は終わってしまう。自動で繰り返し流すことができない。
うとうとする先生の記憶に、曲が途切れないよう合間、合間に添えられるお母様の手…
この曲をきく私は71歳ではない、4歳の私だ。現在。音楽の何とすばらしいことか!
先生がきらきら目を輝かせながら、モーツァルトを楽しみ、愛でる。その思いが伝わる!
感覚的ウィット、メトリックのふくらませ方、自然な範囲で色をつけ、敏活な宇宙をつくりあげたモーツァルト、透明性、不思議、モーツァルトについて語られる音色に引き込まれていく。
何より、どの角度から話しても、先生の「モーツァルトが大好き」が伝わってくる。
純度の高い好きはなんと強いのだろう…講義中、いつの間にやら私もモーツァルト好き。
先生の言葉に導かれ、モーツァルトの曲をききながら、心に景色を描く。
先生のイメージはウィーンで共に暮らす黒猫のこと。楽しそうに語る先生につられ、会場も和らぐ。
ふと、タンゴという名のその黒猫は、奥様が亡くなられた後に飼い始めた猫だとさらりという。
はっとする会場に先生は、「モーツァルトの音楽があったから、その悲しみを乗り越えられたのだ」と微笑み返す。
「お金になる仕事だからではない。モーツァルトと出会いなくして、私の人生の充足はありえない」
モーツァルトを語る先生の笑顔が実に可愛い!
モーツァルトが好き、ご年配の方が発する強いエネルギーに圧倒される。
言葉が悪くて申し訳ないのだが、人間が好きと語るこの老人力に感動した。
モーツァルトの精神は「みんなこんなものさ」。人間好き。人間の弱みを楽しみながら生きよう。
先生が最後に私たちにエールを送る。うまくより、楽しく。愛そう!
※ 書きかれなかった講座メモ
我々は文化の流れの中にある楽しさを先に進めていかなければならない。
モーツァルトがいいという思いが、次の世代の感受性につながっていく。それが文化だ。
いいと思えば、つなげていかなければならない。
みなさん、子供が10歳になる前にモーツァルトのメヌエットをきかせること!
※ 講座の最後の質疑応答
質問者の中に、先生から受けたエネルギーの興奮から、自身の父の思い出を語り始めたご婦人がいた。その話はやや長く、要領を得ず、同じことが繰り返し述べられていた。
先生は、その話の間中、ご婦人をのみ見、会場の誰よりも彼女の話を真摯にきいていた。
質問をきく時の先生は可愛い笑顔というより、真剣で鋭い研究者の目だった。
彼女の話を受けて、どんな話も最後にはモーツァルトに結びつけて、会場の思いに応える。
先生が、「学問が好きであること」、「生徒の言葉に集中し、受け、答えること」
そんな先生に教わった生徒は、きっと勉強が好きになると思えた。
先生は素敵な教授だった…。
楽器もひけない音楽学を専攻する知識もない私が単なる興味本位で、
ウィーンで活躍される教授の講義を無料で受けることができる機会に感謝。
次回、先生に会えるのは7/4の火曜日。
シューマン没後150年に絡めてモーツァルトを語る。楽しみ♪
慌てて走って、走ってこけて、膝に擦り傷、かまわず
駅まで走って、到着した電車にそのまま飛び乗る…。
傷口を洗う時間などない、そんな余白のない予定でした。
擦り傷など放っておいても治るだろうとその後も続く先約を優先、
「それ、跡が残るかもよ」と言われ、慌てて病院通い。
いつ、こけましたか?
8日前です。跡が残ったら怖いなと。
すぐ消毒しましたか?
外出先で、すぐ消毒できる環境になかったので…傷跡は残りますか?
傷の治療は1週間以内が勝負です。既に1週間経過していますからね~
傷跡を残したくなかったら、どうしてもっと早くに病院に来ないの?
一生残る…?
こうなって初めて、消毒する、病院に行く、そんな余裕もなく、
私は一体何を優先していたのだろう…
傷口をかばいながら過ごし、ようやく包帯がとれたものの、
1年は日焼けしないよう注意を受けました。
1年も…先生と話す私の口の中には口内炎がひとつ。
痛いのでかばいながらご飯を食べていたら、唇噛んで、口内炎がふたつ。
できた口内炎は日ごとに大きくなっていきます。
体にあらわれ始めたサイン、息切れしている私を認めました。
第2回公演を終え、継続することの難しさを思います。
公演広報拠点は自分の居場所から、範囲は身近にいる方々が主になります。
友人や知人にお時間とお金をいただく形になりますので、告知には毎回勇気を要します。
私にとって公演は365日分の唯一、ですが人にとって唯一最優先事ではありません。
そうと知りつつ、自身にいいきかせつつも…
身近であればあるほど、底に信頼が潜んでしまうのでしょう。
その返答に一喜一憂、大きく気持ちが揺れます。
観にきて下さった方へ感謝の思いは発せても、
お金が伴うことの申し訳なさが私の心に残ります。
そんな自身の濁りを消すために、何かお返しできないものかと考えてしまいます。
何か…それは、一緒に共有した舞台作品だ!と言えない弱さ。
また、舞台はひとりでできませんから、たくさんの方のお力をいただきます。
その恩を返せるのはやはり舞台です。発信後は、受信者として舞台空間を作ります。
この観劇のお誘い、重なることがあります。観客としてそこに在るため必要な体、
一方を立てれば、もう一方に私は存在しえないのです。断る。謝る。落ち込む。
重なる予定は観劇ばかりではありません。体(心)はひとつ。
向かいたい方向に首がまわらなくなりました。
好きを見失いかけています。疲れたのです。
今回の擦り傷の治療で驚いたことがあります。
今は、かさぶたを作らず、新しい皮膚の再生を待つのです。
その方が治りが早いのだそうです。
私の中のうじうじした気持ち。見せずに隠して頑張るものだとずっと思っていました。
まだ、きちんと答えが見つかっていない段階で思いのまま綴るのはどうかと思いましたが、思い切って、かさぶた、とってみました。
好きで始めたことに対して言ってはいけない言葉を、正直に、「しんどいです」
醜い傷口を見せました…(ごめんなさい)
でも、もう一度、まっすぐな気持ちが生まれるのを信じて、
動けない今、一度手放して待つ勇気を持ってみようと、
そんな試みのある弱音です。
※続けることは難しいと思います。が、続けている方はいます。その強さを尊敬してやみません。