山を歩いても、寺を訪ねても、花や木の名前がわからない。
花を「はな」としか呼べず、木は、この木何の木、気になる気になる…ままとなる。
小説では主人公の目前にひろがる野に咲く草花が細かく描写されているのだが、
うまくその風景を想像することができない。
小説を読むのに、片手に野山の草花図鑑まで用意しなければならないのか…
朝起きて、水の温度で季節を感じるも、すぐに適温の湯に変わる。
ドアをあけると、陽の光や風の温度で季節を感じるも、目的地に着けばすぐ適温に守られる。
汗をかかない。
夏場、冷房対策の為、長袖着用。
冬場、服を買いに行けば、ノースリーブものが多い。
夏場でさえ、いまだかつてキャミソールだけで街を歩く勇気のない私…
長袖、訪ねて三千里である。
省エネ計画を立てるも、エアコンなしでは暑くも寒くも怒りっぽくなっていけない。
季節を感じるまで我慢できない。
旬の野菜?春の七草?答えられない。
私は毎日どんな景色を見てきたのだろう…。
通勤電車やデパート、箱の中の人や売り場の様子に季節を感じ、
夜になるとイルミネーションである。
移動中待機中、どんどん風景は小さくなり、最近では、携帯の画面サイズになっている。
電車の中、ふと顔をあげると、みんな携帯片手に下向きに座っていた。
手の中で携帯が震え、私も再び下を向く。
アルバム(CD)を買っても、同じ曲ばかり繰り返し、繰り返しきいてしまう。
自分のお気に入りばかりを集めたマイベストMDなんぞ編集したりすると、
集めたものの中で、また好きなものの順番ができてしまう。
中島らもの言葉で、
男性は好きな人が横並びなのに対し、女性は縦に並んでいく。みたいな言葉があるらしい。
なるほど、前の思いを越えなければ、次になかなかいけないもので…納得。
ふと、思う。
好きなものだけに囲まれた生活をしてみたら?
きっと「好き」になれてしまって鈍くなり、いつの間にか好きに順番ができてしまう気がする。
順番ができるだけならまだいい。
いずれ、下の方の好きが当たり前になってしまうのではないだろうか。
好きなものだけに囲まれても、やはり人間、不満はでてくるように思う。
じゃあ、不平不満、不安まである現状では?
好きを見つけやすいのかもしれない。
改善しようと懸命になるかもしれない。
谷川俊太郎は言っている。
本当の自分なんて、最後までわからないですよ。
「わかろう」とする生き方よりも、「味わう」という生き方が僕は楽しいと思う。と。
人生を味わうというのなら…
甘さを出すために、ひとつまみの塩を入れるように、
しょっぱい思いも、渋味も苦味も、いや味も?幸せをひきたてるのに必要なのかな?と、思えるのである。
理系の大学生、カエルの解剖実験のあと。
手に残るカエルの匂いに悩む友人宛に…。
料理人って、魚をたくさん殺しちゃうかもしれないけど、
お客が「美味しい」っていう幸せの為に包丁にぎってる。
その人が殺すことにブルーになって厨房に立っていたら…
お客は、喉つまるね。
料理人が何の為に行ったかが成果に反映すると思う。
あなたにも ~の為がある。その為に研究する。
知り合いに看護婦がいるけど、死に慣れないといけない職業らしい。
慣れるというのは無感動ってことではなくて、うまく言えないけど、
気持ちの中に余裕のある空間を別につくることなのかなと思う。
ナースは死を悲しむのではなく毅然とすることで、亡くなった方の家族の気持ちを思いやれるんだろうね。
自分が泣き崩れてしまったら家族も他の患者も死への恐怖でいっぱいになっちゃうもんねきっと。
だから慣れることで進化しなくちゃいけないのかな。
その実験であなたが何を感じるかが問題なんだと思う。
書家・相田みつをの作品に 自分の番 いのちのバトン という詩がある。
父と母で二人
父と母の両親で四人
そのまた両親で八人
こうしてかぞえてゆくと
十代前で千二十四人
二十代前では―――?
なんと百万人を越すんです
過去無量の
いのちのバトンを受けついで
いま ここに
自分の番を生きている
それが
あなたのいのちです
それが わたしの
いのちです
この詩をみた時、私の命の重さとそんなつながりの中に在る私は一人じゃないって思った。
命は一つでは生まれないのね。
俳優の豊川悦司は自分の子を抱いた時、自分はこの子の為に生まれてきたんだって思ったらしい。
つながってるんだね命って…重いはずだね。
でも、命って重いだけじゃないの。
画家・星野富弘の詩。
いのちが 一番大切だと
思っていたころ
生きるのが 苦しかった
いのちより大切なものが
あると知った日
生きているのが
嬉しかった
この詩を見た時、楽になった。
死への恐怖から解放されるような 命の重みから解放されるような
気持ちが軽くなる嬉しさを感じた。
私にとって命って…はっきりとした答えはでないけど、この二つの詩に強烈に命を感じる。
私が言葉に出会って命を考えたように
あなたはカエルの消えない匂いから命を考えたんだね。
カエルの死との対面に研究以外のものを、生きているあなたは感じることができたんだね。
私なんてカエルの肉の唐揚げ食べたことあるくらいだったから…
私たちは地球生態系の中で生きている。
この循環の中で私は生きる力を得、
あなたは学び、発見する。すると、救えるかもしれない。見つかるかもしれない。
生は何かにつながっていく。
いのち 大切にしないとね。
初代携帯に残るこのロングメール、あの頃、とにかく私はあなたを励ましたかったんだな…と思う。
初めての海外旅行は大学の卒業旅行、自分用(お土産)に世界地図を購入した。
「君たちが昔から目にしてきた世界地図は日本を中心に世界が記されているが、
所変われば、地図も変わる。各国おのおの、自国を中心に世界は描かれている」
一般教養の先生の言葉が、ずっと心に残っていたからかもしれない。
聴いた瞬間は、え?あの見慣れた世界地図は日本だけのものなのか~と驚いたが、
よくよく考えてみると、そりゃそうか…。
自分の目で確かめるべく旅先で買った地図をひらけてみると、誠、日本が中心からずれて、在った。
中心は香港…ん~微妙だが…。
私が立つ位置は世界の中心である。ただ、中心は一つではない。
ひとりひとりが、個人主義。
ひとりひとりの人権が叫ばれる中、では、人としての義務とは何だろう?
自国が中心ではない見慣れない地図を見つめながら、考える。
もしも、人が話した言葉に色がついているとしたら?
もう少し具体的な説明を加えると、
あなたと私の口から発せられた二酸化炭素には色がついていて、話した後ふわふわ浮き、
そのまま部屋に残っていくとしたら?という、あくまでも学術上ではない私の想像。
例えば、イメージ、黄色(相手)と赤(私)だとする。
私ばかりしゃべりすぎると、二人の空気が赤みの強いオレンジになってしまう、感じ。
違う色が2色以上あれば、まったく異なる色を作ることができるし、
同じ色なら、さらに深い色になることができる。
二人、その時々に色の混ざり方も変わって、しましま模様や水玉模様になったりする日もある。
二人以上でも、大丈夫。
どんどん強い色を重ねて相手の色を消そうとせずに、
ぴたっと仲良く横にくっつけて並べていけばどんな点描画ができあがるのか…きっと素敵な絵になるはず。
先攻者が話している。私は後攻。今は聞き役。
きいて、きいて、散々きいた後、私が話すと「あれ?反応うすっ、また始まった-!」
そんな時も想像……ちょっと色、変えますね。
今度は相手が赤色、私が白。
「うわぁ…今、この部屋、真っ赤になってる~」
おっとっと、慌てて、反面教師の話に耳を傾ける。
話すことは呼吸することだと思う。
自分ばかりおいしい空気をすうのではなく、相手がちゃんと呼吸できているか?
気がつくと自分ばかり話すぎてしまう私、憧れの聞き上手(いい女)になる為、
ふと我に返った時、他の色を塗りつぶしていないか?一色に偏っていないか?
問うてみる。
あなたは誰かと何色になりますか?
あっ!
あぁ…また割れた。。。冬場は乾燥の為、爪がよく割れる。
他の指と比べると、中指だけ深爪をしたみたい短くなっている。
痛みはないので、何事もなかったように仕事に戻る。
あれ?
電卓がうまくうてない。
いつもようにたたくことができず、ぎこちない。
そういえば人差し指が割れた時は缶ジュースのふたをあけることができなかった。
何度も何度も「すかくらった」
知らないうちに、その感覚に慣れている。
たったの2ミリ…
なくなった存在に、ふと気づく。
梅田第4ビルの地下街を歩いていた時のこと。
5メートルほど先を行く老夫婦の後ろ姿に、驚愕!
何?どっちが?え?どうなってるの?…すごい。
老夫婦は手をつなぎ、どんなに凝視しても、どちらがどちらに寄りかかっているのかわからないくらい
ほどよくお互いを支え合って歩いていた…まさにその後ろ姿は「 人 」という字!
こ、これはっ…金八先生~!!
感動した。
この美しさを残したい。
あの当時、カメラなど持ち歩いていなかった私はその光景を目に焼き付け、角を曲がった。
カメラ付携帯などまだ存在しなかった、私、18の時の出来事。
歳をとることも悪くないな…と微笑んで、初めて老いることを肯定した記憶がある。
それから数年後、トラン・アン・ユン監督(映画)の言葉を知る。
「男女の間でも、西洋はぶつかり合う、東洋は、長い間にお互いをしみ込ませるようにしてゆく」
私があの時、圧倒されたのは、「人」という一文字に二人の経てきた時の長さを感じたからであろう。
今までどんなことがあったのか…知るよしもないが、
様々な出来事を乗り越え、共に過ごした時の重みを、二つの背中は静かに物語っていた。
もしも犬を飼ったらどんな名前にするか?弟と二人、議論したことがあった。
「ショコラが可愛いのではないか?」弟のその意見に私たちは達成感をかみしめた。
数年後、皇太子様と雅子様のご結婚のニュースと共に、雅子様の飼っている犬の名が
ショコラであることを知る。「もうショコラにしたら、真似したと思われるやろうな…」
「そうやな…先越されたらな…もう(ショコラ)つけられへんな…」
飼う予定の全くない架空犬の話であったが、先日、電車のつり革広告で女性週刊誌の
「雅子様の愛犬ショコラ老衰」の文字が目に飛び込み、あれから…もう?そんな経つのか…
時の流れを感じずにはいられなかった。
ショコラ違いの思い出に浸りながらも、やはりこの時期、ショコラといえばバレンタインチョコレート。
生活向上委員会、この波を利用しない手は、ない。
生活向上委員会発足のきっかけは残念ながらショコラではない…ある日、何もかも疲れきった帰り道、
ふいに鞄の中からその日職場でいただいた横浜土産・招福門のマンゴープリンを何の気なしに手に取り、
何となくそのオレンジ色を見つめていると、急に何を思ったのか…突然、駅のベンチで食べ始めてしまった。
一口目の驚き、美味しいという幸せ。
スイーツに問題を解決できるほどの効力はないかもしれない。
だが、出口なしと思われた憂鬱から解放された至福の時を持てたことは確かだ。私向きかもしれない。
この出来事を境に、生きていく為、どのみち必要な事なんだから、どうせするなら…
私のできる範囲でいい、少しでも上を向いて、ちっちゃな幸せ感じていこう…そこで始まったのが、
生活向上委員会企画、第一弾・お菓子、第二弾・入浴、第三弾・お茶と拡がりをみせている。
疲れたかなと思った時は、少しくらい贅沢に、甘いお菓子を自分用に購入。
普段、ケーキを一つお持ち帰り…となると、店員さんにちょっとむっとされたり、包装が簡易になったりすることもある。
でも、バレンタインデーは違う。
一人用の大きさのものが、センスよくラッピングがされ、気兼ねなく買える。
しかもこの時期でしかない商品やいつもと違う装いに生まれ変わったチョコレートが!
すべて、いわなくてもプレゼント用!!
しかもチョコの賞味期限は長い。保存がきく。
バレンタインデー、日にしておくのはもったいない。私にとっては月行事。
いざ、デパ地下へ!
女性達の熱気に押されつつ、人波かきわけ汗をかき、おひとりさま分の幸せ買いに今日もゆく。
はじめまして。
劇団カプチーノのとーまと申します。
本日、劇団カプチーノの展開事業となります電信カプチーノ、ブログに新規参入、致します。
初めての投稿、かなり緊張…文章もカチコチになってしまいますが…。
日々の中、ふと思ったことを、思った折りに、思うままに、綴っていけたらいいなと思っています。
随想録です。かな?
気持ちのホコリをはらって陽をあててみたら?→ホコろ陽→ほころびる?→ほころびる、とは?→
固く閉じていたものが少し開く。かたい表情が和らぐ。笑顔になる。感情秘密などが抑えきれなくて外に現れる→
「ほころびる」いいじゃない?→ほころび+カプチーノらしく茶話とか?→ほころび茶話→音的にすわりが悪い→
ほころび茶話ん→音的に足した「ん」が視覚的に目立ちすぎる→ちっちゃい「ん」にすると少しは可愛くなったような…以上が経緯。
随想録は「Cafe カプチーノのほころび茶話ん」と命名しました。
「かふぇかぷちーののほころびぢゃわん」と読みます。
ちなみにeの上には「´」がつき、最後の「ん」は他の文字より小さなフォント。にしたい。
のですが、パソコンに不慣れな私、うまく表記できません。
みなさんの想像で「ん」を小さくしていただければいいなと望むばかりです…すみません。
この日を迎えるまで、劇団HPの掲示板をかりて本番さながらの予行演習を11回も行ってしまいましたので、
次回、いきなり第12話、「Cafe カプチーノのほころび茶話ん 12 」となります。第1話~11話にご興味ございましたら、
劇団カプチーノHP、http://www.h2.dion.ne.jp/~capchi-7をご高覧いただけましたら、幸いです。
HPもままならないままに未知なるブログ、使いながら学んで参ります行きあたりばったり方式、
予測されますブログ上での私の不作法ご無礼、何とぞお許しいただければ…と願います。
ふつつかものではございますが、よろしくお願い申し上げます。 電信カプチーノ とーま由花