このお盆休み、久しぶりにDVD鑑賞でもしてみるかという気持ちになり、
「今度は愛妻家」と「愛を読むひと」を借りて観たが、2本とも号泣だった。
鑑賞後、みんなはどんな感想を持ったのだろうと「愛を読むひと」で検索してみると、
マイケル(少年)は15歳でハンナ(女性)は21歳も年上だったんだ・・・の詳細な事実から、
ネタバレに関するQ&Aまで膨大な情報量があった。
ひっかかりを覚えたのが、映画観賞者の個人的な疑問とベストアンサーさんの答え。
質問に対してある1つの回答が得られ、質問者の心の中の曇りが晴れる仕組み?なのだが、
ベストアンサーさんの回答が「私個人的な意見ですが、~と思います」というのが、面白い。
あの時、マイケルはどんな気持ちだったんですか?もしも役者が問われたらどんな気持ちになるだろうか。
感情を台詞にのせ、行動にこめて「表現」したにもかかわらず、言葉で説明せねばならないとしたら?
与えられた役柄の履歴(もちろん台本には載っていない)を考え、
体にぎっしり気持ちを詰め込んでつくりこんできている役者さんに対し、
それはさぞかし失礼な質問ではないだろうか。
すべてに理由が必要だろうか。
すべてをわかる必要があるのだろうか。
いますぐわかる必要があるだろうか。
自分の中に生まれた「どうして」や「なぜ」を他者に解決してもらって、それはわかったことになるのだろうか。
わかっているつもり、なだけで実のところわかっていないのではないか。
大学生のコピペ論文。小学生のコピペ読書感想文。理由がなければ行動できない社会人。指示待ち人間。
思考はさらに拡がって、我が子の考える力を伸ばすには・・・?
人間は考える葦、だから、いつの間にか「考えるひと」
たまには、主人のこと。
結婚前は待ち合わせで多々遅刻し、途中デート中にもかかわらず、携帯を取り出しては情報検索。(失礼)
結婚後は、日用品の銘柄指定から家電・家具の購入やレイアウトに至るまで決裁権を主人が握り、(辟易)
出産後は夜泣きにつきあうことなく別室就寝、プールにいけば日焼けしたくないと日陰に一目散。(唖然)
こんなはずじゃなかった・・・私の結婚生活。
告白もなく始まり、プロポーズの言葉もなく結婚。
つきあいの長いカップルならまだしも、つきあい始めで、どうしてこのようなことが可能だったのか?
互いにいい年齢だ。親を安心させたかったのか? それも一理。でも、それだけではないだろう。
私「ねぇ、なんでなんだろうね?」
主人「Y(私)が積極的だったからなぁ」って、
私は思われての結婚だと思っていたの。それじゃあ、とんだ誤解婚じゃん。
主人に聞いたのが間違いだった。 いい、自分で考える。
買い物途中、主人はふらっといなくなり、雑誌の立ち見や家電の品見。
おむつや着替え入りのリュックを背負い、さらに、息子を抱く私の横目に子供を抱くパパの姿。
休日の公園は、パパと子供のペアばかり。世の中のパパの育児参加率を目の当たりにする。
休日はパパがご飯を作ってくれるんだって。隣の芝生の青さが目にしみ、
息子と一緒にお風呂に入るのを嫌がる我が家のパパにがっくりくる。
あれもしてほしい、これもしてほしい私。
パパとの生活に不満がないといえば、うそになる。でも、
ふいに気づく。不満だらけだけど(笑)、さびしくないなと。
付き合い始めから、私たちには情熱的な男女にある「切なさ」は皆無だった(笑)
けれど、共にあるおだやかな家族熱。
「好」とか「愛」とか世に言うそんな言葉が交わされることはない。
告白もなく始まったのは、ぴったり似合う言葉がなかったからだろう。
言葉なく、どうして始まりえたのか?
それは、きっと主人が私という人間を深く信じているから。
主人がどういう理由で私と結婚したのかわからないけれど、私はさびしさを感じないから、だ。
残業も、出張も多い主人。
そばにいるからではない。そばにいなくともさびしくないから、だ。
※主人の誕生日プレゼント希望の品は、タグホイヤーのカレラ。
そんなの買えるわけないじゃん。一日遅れたけど、この話をおめでとうの代わりに捧げます。
プレゼントは額じゃないわ、気持ちよ。
もちろん、甘いことばかりではない。(前話参照)
言語能力が発達して、例えば、「抱っこ」
「えーっ、ママ両手にこんなに荷物持っているよ。歩いて」
「ヤダ。お家に帰ってから、歩く」(なんでやねん)
「早くお家に帰ってウルトラマン見ようよ。ウルトラマン見たいでしょ?じゃあ、頑張って家まで歩いて」
「もう、ほんとママは我儘やなぁ」(なんでやねん)
なかなか自分に都合のいいように切り返してくる。
「K、セブンになるから、ママ、怪獣になって」
えーっ、ママ今までの人生でそんなキャラないのに・・・
「ママ怪獣(←ききづてならない台詞)になって、て」
しぶしぶ、ママ、エメリウム光線に敗れる・・・さてと、ご飯作ろ♪
「ママ怪獣になって」
えーっ、私、やられたやん。エンドレスなご要望にそんな体力ないよぉ・・・
「K、でんぐり返りできるねん」
えーっ、いつの間に?!・・・ほんとだぁ。
「じゃあ、今度、ママやって」
え? ちょっと待って・・・といってもきかない。
息子が首だけで回るのが心配だし、それではよきお手本をと
「顔と頭をくっつけて、足を伸ばさず、そのまま足は曲げたまま、勢いをつけて立つ」何年ぶりかの本気回転。
「もう一回」
イメージ、仲本工事で、えいっ。
「もう一回」
えーっ、お願い勘弁して・・・3回回ってフラフラになる年老いたママを許してもらう。
そう、決して甘いことばかりではない。
男の子育児は、体力勝負、なのか。
昨夜、主人から0.5換算は法律として明文化されていないことを教えてもらった。
明文化、明言化されなくとも、存在はするようで・・・暗黙のルールの改定を願う。
さて、近況3。
まだ息子が0歳の頃のこと、
児童館に行った折、息子より少し年上の男の子のお母さんたちと話す機会があった。
「男の子は、可愛いよ~。甘いこと、ゆってくれるようになるから。ねぇ」「そうそう」
とどうやらどこの家庭にもあるらしいこのいつかわかる甘いこと。
ついに、来たよ我が家にも。
食事中に突然息子が「ママ、花柄の服着て、可愛いなぁ」にっこり。
またある時は「ママ、世界中で一番可愛いなぁ」
久しく言われることのなかった「可愛い」にとろける私・・・
誰に教えてもらったん そんなリップサービス発言にママ、有頂天♪
「どんなことを言ってくれるんですか?」あの時、きいた質問に、
「言えない。いずれわかる」とだけ答えてくれたお母さん。
確かにこんな台詞、自分からはとても言えない。
この広い世の中でそんなことを言ってくれるのは息子ただ1人・・・
友人の言葉を思い出す。
「友達の子でな。その子はお母さんが世界中で一番綺麗と思ってやるねん」
いつまでそう思ってくれるのかわからないけれど、
おかんはこの誤解、一生心に焼きつけて生きていきます。息子に心から「ありがとう」ハグ。
それにしても、ずいぶん言語能力が発達した。
最初は繰り返しから。「好き」と言うと、「好き」と返ってくる。
その後、変換。「ママ、Kのこと、大好き」と言うと、「K、ママのこと、大好き」
続いて、理由づけ。「花柄の服を着て、可愛いね」
さらには、範囲設定「世界中で・・・」
2人の会話はとことんあほらしいが、言語能力的には日々成長を感じる。
修飾までできるようになって・・・感心、感涙。
あぁ、いつまで言ってくれるのだろうか・・・
あぁ、この子もいつか好きな人ができて・・・
ママ、喜びの中にも蜜月の短さがチラリ。あぁ、刹那。
いずれ他の女性(ひと)のもの。今のうちにたっぷり味わっておこう♪
殺人で罪に問われる場合、何人殺したか?換算が行われるらしい。
この数式にあてはめると、大人1人と子供1人を殺した場合1.5人、子供2人殺しても1人・・・て、
何なの?
子供って何歳以下?
未成年だからって・・・一体、何?
この法律はいつ生まれ、いつから変わっていないの? 見直しはないの?
教習場で乗車定員というのを習った。
12歳以下の子供の場合は3人で大人2人に換算すると習った時は、
子供って小さくて軽いもんね~と受け流せたけれど、子供0.5人扱いって、何?
車に乗車する場合、子供1人は大人何人と考える。
2割る3・・・とすると、殺人0.5以上の数値がでる。だが、この数値は身長体重からみた
あくまで乗車対象としての存在だ。命ではない。
福岡で起きた飲酒運転によるひき逃げ。幼児3人が亡くなったこの事件を、私の立場でさえ、
いまだふと思い出す。
親のかなしみはいかばかりなものかと思うと、想像を絶するものだと辛い。
0.5とは、何をもってなのか?
ここでは命を換算したくないので、子供を大人何人と数値化はしないが・・・
子供のこれからを思うと、なぜ大人より0.5、軽んぜられたのか? 解せない。
※後日談
刑法ではない。
子供を一人殺害し、死刑判決を受けた人もいるそうな。
それにしても、インターネットとは恐ろしい。
過去の発言事件がいまなお様々に語られ続ける。
真実にたどり着くまでの膨大な情報量。
そこに行きつくまでの虚構や虚像の数々。
たどり着いたと思われたものの不確かさに、呆然となる。
大阪西区の2幼児死体遺棄事件。
マンションの一室から「ママー」「ママー」と泣く声がする。
台所には、包丁などの調理器具や食器類が一切なく、冷蔵庫の中も空だった。
幼児2人は全裸で部屋の床に、寄り添うように倒れていた。
幼児は暑さのあまり、自分で服を脱いだ可能性もある。
浴室は長い間、使っていないとみられる。今年4月中旬以降、水道もほとんど使われていない。
食べ物と涼を求めて・・・空っぽの冷蔵庫の扉に子供たちが触ったような跡が残っていた。
どうして・・・
どんなに・・・と思うと、事件の経緯を追わずにはいられなかった。
空腹感や暑さ、暗闇の中でこの子たちは・・・あまりのダメージにしばし呆然となる。
何のために生まれてきたのか・・・
自分の中の答えにあきたらず、主人に問う。
「この事件をきっかけに今後、救える幼い命が確実に増えただろう」
この世に生を受けたことが、意味あることと思いたい。
それでもやはり、どうすれば・・・を考えずにはいられない。
せめて、これからどうすれば・・・にしかならないとしても。
1+1が2ではなく、1なのはやはりそれだけの訳があるのではないか。
(ここではあえて、5つ子ちゃんだったら1+1=5になるではないかという意見はなしにして)
1を生むのに、まずは2ありきで、
色々な事情があって、どちらか一方が欠けたとしても、協力者として祖父母をプラス、
なにも肉親だけではない。地域や社会としても数限りない人(保護者)の存在により、ようやく1が成り立つ。
どうして1だけで乗り越えようとしたのか・・・。
昔は大家族の中の子育て。子育てには、多くの目と手と育児の伝承があった。
何も昔はよかったという話ではない。
近くにある目と手が、手がなくとも祖母から母への伝承が叶わないのであれば、
つまり、悲しくも家庭教育に任せることのできない状況であるならば、
義務教育に組み込むしかないのではないか?
前にも書いたが、授業として「人間」を学ぶ場を。
よかれと思ってしたことをあっけなく拒否されたり、
時間をかけて作ったものをあっけなく無にされたり、
人が理性や我慢を覚えるまでには、いったん対極にあるわがままをとことん押し通さねばならないのかと思うほどのことをやってのける(笑)
それが、人間の成長にとって必要不可欠なものであること、単なる通過点であること、
そして、社会には一時保育施設や赤ちゃんポストなど救済施設があること。
記憶の片隅にでも残ればいい。
教育として学び、行き詰まった時、ふと思い出してくれればいい・・・程度の授業。
子供たちを閉じこめるのではなく、外に解放する選択肢があることを知っていたら・・・。
「自分の時間が欲しかった」「育児するのが嫌になった」という母の供述。
3歳と2歳近くの1歳児。自己主張の芽生えと第一反抗期が重なっているうえ、
自分で生計を立てなくてはならないプレッシャー。大変な毎日だったと思う。が、
これが育児放棄の一線を越える理由にはならないのは、
同じ境遇、同じ子の年齢差で放棄していない人の存在が明らかにしてくれるだろう。
未熟な第一反抗期。子供らにとって、問題は我を通すことではない。(専門家ではない私見)
それでも受け入れられる存在であるか、愛されているのかを確かめる愚行。(だと私は勝手に思っている)
母は疲れ果てるほど、求められているのだと。
「お菓子しか与えていかった」としても、「ママー」「ママー」と叫び、助けを求めていた。
子供にとっては、母は唯一無二の存在。
2人のお子様から無条件に愛されていたのに・・・。
ふと気がつくと、第300話の切り番号。
何を書こうかあれこれ考え、二つに絞ったまではよかったが、今度は気負いすぎてうまく書けない。
ここはひとまず、やりすごして第301話から自然体で書くという感覚を思いだそうと思う。
そう宣言しても、久しぶりの更新・・・緊張して書けないものである。
しばらく画面を見ていたが、こんな時は近況。
車の運転で久しぶりに「上達していく感覚」を体験できたことが嬉しい。
運転中、車内の一人カラオケも楽しい。
今のところ、私の車は予想に反してまだ無傷。
その無傷が災いしてか、左の車幅感覚がつかめない。
一度ガリッと傷つけば、強烈に車幅を脳裏にやきつけることができるのだろうか・・・
とも思うが、実験する気にはなれないのでその時がくるまで待つことにする。
先日、狭い一車線の道に挑戦。
すれ違いが怖いので、先に行ってもらおうと譲りながら進んでいたら、前方にタクシーが停まる。
私に行けと? 恐る恐る少しずつ前進、ようやくタクシーとのすれ違い。
「すみません」と頭を下げながら、すれ違おうとしたその瞬間、罵声が飛んできた。
タクシーの運転手さんは怒りをあらわに怒鳴っている。
が、私はすれ違いに細心の注意を払っているので、なんと怒鳴られているのかわからない。
ごめんね、この暑い最中、文句を言うためわざわざ窓をあけて待っていてくれたんだろうけれど、
何を言っているのか聞こえないの。
ほっとしたのもつかの間。後方車のベタづき。
この日、私は友人訪問を目的にしてたのだが、後続車からのプレッシャーに突き動かされ、
友人宅のマンションを横目に通り過ぎてしまう。
友人が階下で我々親子のくるであろう方向を見ている。
ごめんね、私たちはそっちじゃなくてこっち(後ろ)なの・・・
少しだけ広いところに出たので右に寄り、後ろの車に道を譲ると、怒りのアクセル音をたてて去っていく。
ごめんね、わざとやってるわけじゃないのと見送る。
さてと、問題ははるかかなたに見える目的地。この距離をバック走行か・・・
バックで走り、壁にぶつかる手前で斜めに停まる不審車に友人が私と気づいてくれた。
(友人は私の車種を知らなかったにもかかわらず。ありがとう)
「この先をもう少し行くと、折り返せますから」
ごめんね、炎天下の中、赤ちゃんを抱えてここまで歩いてきてくれて・・・
とりあえず、バック走行に限界を感じた停車だったので折り返し、ようやく辿り着いた友人宅。
来客用駐車場は一番端。こ、これは、初・左からの駐車タイプですね!
園でも、家の駐車場でも、いつも右から駐車の私。右手にはブロック壁、失敗は許されませんね。
緊張が走る。しかも、友人が待ってくれている。こ、これは、目の前駐車のプレッシャーですね。
R、D、RDRDを繰り返しながら、ようやくPのサイドブレーキ・・・あぁ、軽でよかった。
こういうケーススタディを繰り返しながら、上達していくのね。
車での通勤ともなれば、毎日高速通勤となる。休日、3度目の通勤経路確認。
どこで降りるの?の緊張感と、降りる時に車線変更できなければ?の不安に一番左端走行を維持。
軽でトラック後ろの高速走行・・・恐怖による筋肉痛が。
高速を降りると、距離制限あり、車線変更ありの最大の難関が待ち受ける。
短い距離の中で、左に2回車線変更を行わなければ、そのまま前方の坂道路に流され、
Uターン不可能となる。大阪、朝の通勤ラッシュ時に、果たして私の軽は入れてもらえるだろうか?
遠ざかる職場、突き進む遅刻への道。
地元の保育園には行けても、通勤までは厳しいレベル。
今、「伸び悩んで」いる。