タイトルは正しいのかよくわからないんだけど、きっと戦没者特別弔慰金とか・・・だと思う。
年に一度 お国から戦没者の遺族に弔慰金が渡されるのです。うちは おじいちゃんのお兄さんが先の戦争で亡くなったので当時生計を同じにしていた家族がもらうことになっている。
お兄さんの両親、つまり私からすれば先代のおじいちゃんたちなのだけど もうその二人も亡くなっていまは弟であるおじいちゃんが受け取っている。年に一度四万円。十枚つづりだかの
シートを持って郵便局で受け取る。今年の分はその10年目で 来年からの分が特別弔慰金として一万円アップして五万円になるそうで おじいちゃんの代わりに郵便局に受け取りに行って
そういうことだと初めて知らされた。受け取るには きちんと申請しないともらえないらしく局員さんから「もう手続きを済ませている人もいますよ」と言われ、来年のことまで想像は
つかないけど こりゃ手続きしなきゃ・・・ともらったパンフを持って先週役場に行きました。ちょうどハチ駆除の補助金申請の手続きもしなくちゃならないので、ついでに、と。
受付でまずハチ駆除補助金のための書類を出して、「弔慰金の申請を・・」とパンフを差し出したら 受付に出た私くらいの見た目も年齢もの女性が「それはあっちで」と指さすでもなく
顔を向けたのだ。若い受付の女性や男性は昔よりずっと 感じがよくなったと思っていたので「ま!対応が不親切ね」と思いつつも「局でこんなパンフを貰ってきたのですが」と見せたら
それをサッと手にして「あぁ あちらです」と私があとでブログに使おうと思っていたパンフを持ち去って自分の持ち場に行ってしまった。なによ、さっきだって ハチ駆除補助金申請の
数枚の書類をクリアファイルに入れて見せたら、それもそのまま待ち去って「受け取りました。提出しておきます」って・・・ファイル・・・返してくれへんの・・・?
私はこういう場所で事を荒立てるのもやだし・・・と思いつつ、きっちりこうして書いているのだから小さな仕返し(笑)だわ・・・。
申請書というのは どれもこれも書類が多い。弔慰金の窓口に行って「えぇ~、こんな細かい文字の書類に目を通して記入すんのかよぅ」と唸ってしまった。
窓口の職員さんは男性だったけど 私が父親の代理で申請に来たことを告げると丁寧に教えてくれました。まずは 亡くなったお兄さんが対象者か調べはじめるけど、町内だけでも
かなりな数の戦没者のようで大学ノートの罫線より狭いなかに 何ページにもわたって書かれている。パソコンで探し出すほうが早いのになぁと思いながらも、隣のテーブルのおばあさんも
申請に来たようで でも記入も窓口の職員さんに書いてもらっているようだ。やっとみつけた お兄さんの名前と当時の家族構成。それを戦後生まれの私に確認するのだが、「てっ!
お兄さんの名前は知っていても漢字が旧字・・・生年月日?さぁ知らないなぁ・・・所属は?亡くなった日?・・・・」私は 先代のおじいちゃんからも父親からも この戦死したおじさんの
ことは詳しく聞いたことがないということを この時初めて思い知ったのだ。なぜか?なぜかおじいちゃんたちは 話さなかったみたい。おばあちゃんも詳しくは知らないんだって。
いろんな用紙に 先代のおじいちゃん夫婦の生年月日やら死亡年月日、本籍地やら 説明を受けつつ「お墓の墓石に書いてたような気がするし。仏壇の過去帳には命日が書かれているから
調べようはあるな」とまぁ気安く考え、受け取るための印鑑を押したり、おじいちゃんが役場に来られないので委任状、その委任状自体書けないから私が代理で書くという委任状を渡され
た。お兄さんって 志願したのか船でフィリピンに向かっていた途中の海上で爆撃にあって亡くなった・・みたいな話は聞いていたんだけど。
家に持ち帰って 記入してまた来ますってことで立ちあがったら受付には おじいちゃんくらいの年代の人が数人来ていて、ほとんどがこの弔慰金申請の手続きらしく、やれ戸籍抄本を
もらってくださいや、あちらの窓口ですとか言われている。皆、持ち物がないから印鑑くらいしか持ってなさそう。私と同じように、ほんの数分で済むという感じだったのかもしれない。
まぁ、でも私より濃い親等だったらわかるんだろうな・・私なんか会ったこともないオジサンだもん・・。家に帰っておばあちゃんに 先代のおじいちゃん夫婦の生年月日について聞くと
戸籍謄本みたらわかるやろ・・と まぁおばあちゃんだって他家から嫁いできた身、舅・姑の生年月日なんて覚えてないっしょ・・・。
日曜日、お墓に何かしらの記述が無いかと見に行くとおにいさんの墓石には≪昭和19年5月10日 比島西方海面に於いて戦死≫と書かれていた。24歳だったそうだ。うちのバカ息子
二人より若いときに亡くなっていたんだ。おばあちゃんの話では 「兄さんは爆撃があった時に 一緒に乗っていた人が早く海に飛び込まないと沈む・・と言ったけど 観音さんかなにかを
彫っていて逃げ遅れた・・んだと、一緒の人が新宮出身で そんな話をしにきたみたいや」と。お兄さんは 絵が上手だったそうで 観音さん彫っていたというのもありえるかな、と思う。
結婚もせず 遺骨も戻らず、お兄さんの一生ってなんだったんだろうなぁ・・・本当にお国のためにって思って志願したんだろうか・・・
戦争はしてはいけない、でも 一方的に攻め込まれた時 その場所に国民がいたら救助しなくちゃ国ではない。話し合いで戦争を回避できるか?それも無理だろう。相手側の言い分を
のまないと回避はできない。そもそも 戦争に巻き込まれるきっかけってなに? 核兵器で脅され続けて 日本という国でいられるんだろうか?よくわからない・・・
お兄さんたちの命と引き換えた、今までの日本と≪これからの日本≫がだんだん形を変えていっているような気がする。でも 日本は日本でいてくれないと おばあちゃんになって
中国語なんかしゃべれへんし・・・なんか いろいろ思って、申し訳ないなぁと考えたので仏壇に「今回おじいちゃんの代理でお兄さんの弔慰金の手続きをさせてもらいました。
おじいちゃんももう少し頑張ってほしいから、応援頼みます」と手を合わせ お菓子を供えたのでありました。
年に一度 お国から戦没者の遺族に弔慰金が渡されるのです。うちは おじいちゃんのお兄さんが先の戦争で亡くなったので当時生計を同じにしていた家族がもらうことになっている。
お兄さんの両親、つまり私からすれば先代のおじいちゃんたちなのだけど もうその二人も亡くなっていまは弟であるおじいちゃんが受け取っている。年に一度四万円。十枚つづりだかの
シートを持って郵便局で受け取る。今年の分はその10年目で 来年からの分が特別弔慰金として一万円アップして五万円になるそうで おじいちゃんの代わりに郵便局に受け取りに行って
そういうことだと初めて知らされた。受け取るには きちんと申請しないともらえないらしく局員さんから「もう手続きを済ませている人もいますよ」と言われ、来年のことまで想像は
つかないけど こりゃ手続きしなきゃ・・・ともらったパンフを持って先週役場に行きました。ちょうどハチ駆除の補助金申請の手続きもしなくちゃならないので、ついでに、と。
受付でまずハチ駆除補助金のための書類を出して、「弔慰金の申請を・・」とパンフを差し出したら 受付に出た私くらいの見た目も年齢もの女性が「それはあっちで」と指さすでもなく
顔を向けたのだ。若い受付の女性や男性は昔よりずっと 感じがよくなったと思っていたので「ま!対応が不親切ね」と思いつつも「局でこんなパンフを貰ってきたのですが」と見せたら
それをサッと手にして「あぁ あちらです」と私があとでブログに使おうと思っていたパンフを持ち去って自分の持ち場に行ってしまった。なによ、さっきだって ハチ駆除補助金申請の
数枚の書類をクリアファイルに入れて見せたら、それもそのまま待ち去って「受け取りました。提出しておきます」って・・・ファイル・・・返してくれへんの・・・?
私はこういう場所で事を荒立てるのもやだし・・・と思いつつ、きっちりこうして書いているのだから小さな仕返し(笑)だわ・・・。
申請書というのは どれもこれも書類が多い。弔慰金の窓口に行って「えぇ~、こんな細かい文字の書類に目を通して記入すんのかよぅ」と唸ってしまった。
窓口の職員さんは男性だったけど 私が父親の代理で申請に来たことを告げると丁寧に教えてくれました。まずは 亡くなったお兄さんが対象者か調べはじめるけど、町内だけでも
かなりな数の戦没者のようで大学ノートの罫線より狭いなかに 何ページにもわたって書かれている。パソコンで探し出すほうが早いのになぁと思いながらも、隣のテーブルのおばあさんも
申請に来たようで でも記入も窓口の職員さんに書いてもらっているようだ。やっとみつけた お兄さんの名前と当時の家族構成。それを戦後生まれの私に確認するのだが、「てっ!
お兄さんの名前は知っていても漢字が旧字・・・生年月日?さぁ知らないなぁ・・・所属は?亡くなった日?・・・・」私は 先代のおじいちゃんからも父親からも この戦死したおじさんの
ことは詳しく聞いたことがないということを この時初めて思い知ったのだ。なぜか?なぜかおじいちゃんたちは 話さなかったみたい。おばあちゃんも詳しくは知らないんだって。
いろんな用紙に 先代のおじいちゃん夫婦の生年月日やら死亡年月日、本籍地やら 説明を受けつつ「お墓の墓石に書いてたような気がするし。仏壇の過去帳には命日が書かれているから
調べようはあるな」とまぁ気安く考え、受け取るための印鑑を押したり、おじいちゃんが役場に来られないので委任状、その委任状自体書けないから私が代理で書くという委任状を渡され
た。お兄さんって 志願したのか船でフィリピンに向かっていた途中の海上で爆撃にあって亡くなった・・みたいな話は聞いていたんだけど。
家に持ち帰って 記入してまた来ますってことで立ちあがったら受付には おじいちゃんくらいの年代の人が数人来ていて、ほとんどがこの弔慰金申請の手続きらしく、やれ戸籍抄本を
もらってくださいや、あちらの窓口ですとか言われている。皆、持ち物がないから印鑑くらいしか持ってなさそう。私と同じように、ほんの数分で済むという感じだったのかもしれない。
まぁ、でも私より濃い親等だったらわかるんだろうな・・私なんか会ったこともないオジサンだもん・・。家に帰っておばあちゃんに 先代のおじいちゃん夫婦の生年月日について聞くと
戸籍謄本みたらわかるやろ・・と まぁおばあちゃんだって他家から嫁いできた身、舅・姑の生年月日なんて覚えてないっしょ・・・。
日曜日、お墓に何かしらの記述が無いかと見に行くとおにいさんの墓石には≪昭和19年5月10日 比島西方海面に於いて戦死≫と書かれていた。24歳だったそうだ。うちのバカ息子
二人より若いときに亡くなっていたんだ。おばあちゃんの話では 「兄さんは爆撃があった時に 一緒に乗っていた人が早く海に飛び込まないと沈む・・と言ったけど 観音さんかなにかを
彫っていて逃げ遅れた・・んだと、一緒の人が新宮出身で そんな話をしにきたみたいや」と。お兄さんは 絵が上手だったそうで 観音さん彫っていたというのもありえるかな、と思う。
結婚もせず 遺骨も戻らず、お兄さんの一生ってなんだったんだろうなぁ・・・本当にお国のためにって思って志願したんだろうか・・・
戦争はしてはいけない、でも 一方的に攻め込まれた時 その場所に国民がいたら救助しなくちゃ国ではない。話し合いで戦争を回避できるか?それも無理だろう。相手側の言い分を
のまないと回避はできない。そもそも 戦争に巻き込まれるきっかけってなに? 核兵器で脅され続けて 日本という国でいられるんだろうか?よくわからない・・・
お兄さんたちの命と引き換えた、今までの日本と≪これからの日本≫がだんだん形を変えていっているような気がする。でも 日本は日本でいてくれないと おばあちゃんになって
中国語なんかしゃべれへんし・・・なんか いろいろ思って、申し訳ないなぁと考えたので仏壇に「今回おじいちゃんの代理でお兄さんの弔慰金の手続きをさせてもらいました。
おじいちゃんももう少し頑張ってほしいから、応援頼みます」と手を合わせ お菓子を供えたのでありました。