昨日の続きです。
自転車を下に置き、階段を登り丘の上に出ました。視界は良好、遠くに手賀沼が見えます。
公園の裏手は住宅地。
先ずは公園を一周して全体の様子を探ります。それと、先ほどより気になっているのが、東屋で読書に耽る女性の姿。
“うら若い女性”なのか、“それなりの中年女性”なのか、服装、後ろ姿からは判別が困難なのです。
“うら若”か? “それなり”か? ここはどうしても確認しなければ落ち着かないのです。
それとなく、何となく、こちらの「邪な気配」を漂わせないように、“別に、あなたに関心はありません。私の興味はこの景色です”との素振りで、ゆっくりと東屋の先を一回り。
それで、何ですが、結果は“うら若”と“それなり”の中間で、街ですれ違っても、視線の動くことのない「極々ふつう」の方でした。
無駄に時間を費やしてしまいました。この丘に登ってきた目的は“杉村楚人冠”なのです。
陽当たり、風当たりの良い場所なので、案内板の表面に“苔や土埃”はあまり有りません。
“明治の顔”をしています。
スゴイ功績を残した方だったのです。コラム「天声人語」の命名者でもあるそうです。新聞界の父なのです。
これまでまったく知りませんでした。勉強になりました。
それで、この「変な名前」なんですが、そのことに関しての説明は有りません。功績も大事ですが、変な名前を名乗った理由も大事だと思うのです。
やはり、名は体を表すです。杉村広太郎から“杉村楚人冠”を名乗るに到る経緯が知りたくなります。
「ウィキペディア」で調べてみました。
「楚」は、春秋戦国時代の中国の国名で、漢族から「蛮夷」の国と見なされ、秦に滅ぼされたそうです。
「楚」は辺境の野蛮人とみなされていたようです。その野蛮人を滅ぼした武将が、
「人言、『楚人沐猴而冠耳』。果然」と云ったそうなのです。
意味としては、“楚の王は冠を被ったサルと人は言っているが、まったくその通りだ”と云うことなのです。
「楚人冠」とは、“冠を被ったサル”だったのです。では、杉村は何故?自分をサルと称したのでしょうか? 第二の謎です。
ホントに自分が“サル程度”と思う人間は、自分をサル等とは名乗りません。自他供に優秀だと思っている人の、“極一部”がこんなことをするのです。
有る意味、嫌みな感じがします。屈折し、捻れた、自信の表明と受け取れます。
それで、サルを名乗った理由ですが、
【杉村広太郎は、朝日の記者になる前の、在日アメリカ公使館勤務時代、白人とは別の帽子掛けを使用させられるという差別的待遇を受けたことに憤り、以来「楚人冠」と名乗った】・・・ウィキペディアより。
あの当時、多くの知識人の欧米に対する思いは、憧れ、羨望、尊敬、嫉妬、妬み、嫉み、憎悪、敵意、反感・・・・・・等々、ゴチャゴチャと屈折し捻れていた気がします。
それで、この絵は笑えました。じっとしていると寒さが応えます。後ろで雪車を押している男の方は、身体がポッカポッカの筈です。
少し離れた処にもう一つ、案内板がありました。
我孫子を始めて全国に紹介したのも楚人冠だったのです。
『筑波見ゆ 冬晴れの おおいなる空に』の句碑です。
「冬の晴れた日、大きな空に筑波山が見えました」眼にした景色を、ただそのまま綴ったように読めます。
が、しかし、この言葉の奥にある、深~い意味、その時の詠み人の心理状態、時代背景等を想像し、情景の広がりを想い描き、深く、深く、味わうと、それなりの感動を呼び起こす名句なのでしょう。
残念ながら、素養の無い私には“単なる小学生の写生”にしか思えませんでした。
失礼しましたァ~ m(_ _)m
大変に立派な陶器製の句碑です。陶器製とはなかなか珍しいです。
広大な屋敷の配置図です。屋敷を“白馬城”とよび、自邸?母屋?を“枯淡庵”と呼んでいたそうです。
屋敷を白馬城とよぶ意識に、枯れた心境とはほど遠い感覚を抱くのですが、枯淡は単なる願望の現れでしょうか。
若き日に思い描いた青雲の志と、生涯で上り詰めた地位との落差に、それなりの寂しさと、儚さ、空しさ・・・・・・、そんな想いが混ざりあった、白馬城と枯淡庵。
優秀で、それなりに名を残した人の心境は、無能で、世の中を汚しただけの者には、理解を超えた想いがあるのでしょう。
私も、丘の上に立ち、遠くの空を見つめ、じっと眼凝らし、筑波山を探したのですが、裏の家に立つテレビのアンテナしか見えませんでした。
カンカン帽にメガネをかけ、口髭を生やし、自転車に跨り、我孫子を走り廻っていたようです。
わたしも、この日は、野球帽にメガネをかけ、口髭を生やし、自転車に跨り、我孫子を走り廻っているところです。
外観的には、ほんの少しだけ楚人冠に近いのです。
まだ、まだ、我孫子を走り廻ります。
それでは、また明日。
自転車を下に置き、階段を登り丘の上に出ました。視界は良好、遠くに手賀沼が見えます。
公園の裏手は住宅地。
先ずは公園を一周して全体の様子を探ります。それと、先ほどより気になっているのが、東屋で読書に耽る女性の姿。
“うら若い女性”なのか、“それなりの中年女性”なのか、服装、後ろ姿からは判別が困難なのです。
“うら若”か? “それなり”か? ここはどうしても確認しなければ落ち着かないのです。
それとなく、何となく、こちらの「邪な気配」を漂わせないように、“別に、あなたに関心はありません。私の興味はこの景色です”との素振りで、ゆっくりと東屋の先を一回り。
それで、何ですが、結果は“うら若”と“それなり”の中間で、街ですれ違っても、視線の動くことのない「極々ふつう」の方でした。
無駄に時間を費やしてしまいました。この丘に登ってきた目的は“杉村楚人冠”なのです。
陽当たり、風当たりの良い場所なので、案内板の表面に“苔や土埃”はあまり有りません。
“明治の顔”をしています。
スゴイ功績を残した方だったのです。コラム「天声人語」の命名者でもあるそうです。新聞界の父なのです。
これまでまったく知りませんでした。勉強になりました。
それで、この「変な名前」なんですが、そのことに関しての説明は有りません。功績も大事ですが、変な名前を名乗った理由も大事だと思うのです。
やはり、名は体を表すです。杉村広太郎から“杉村楚人冠”を名乗るに到る経緯が知りたくなります。
「ウィキペディア」で調べてみました。
「楚」は、春秋戦国時代の中国の国名で、漢族から「蛮夷」の国と見なされ、秦に滅ぼされたそうです。
「楚」は辺境の野蛮人とみなされていたようです。その野蛮人を滅ぼした武将が、
「人言、『楚人沐猴而冠耳』。果然」と云ったそうなのです。
意味としては、“楚の王は冠を被ったサルと人は言っているが、まったくその通りだ”と云うことなのです。
「楚人冠」とは、“冠を被ったサル”だったのです。では、杉村は何故?自分をサルと称したのでしょうか? 第二の謎です。
ホントに自分が“サル程度”と思う人間は、自分をサル等とは名乗りません。自他供に優秀だと思っている人の、“極一部”がこんなことをするのです。
有る意味、嫌みな感じがします。屈折し、捻れた、自信の表明と受け取れます。
それで、サルを名乗った理由ですが、
【杉村広太郎は、朝日の記者になる前の、在日アメリカ公使館勤務時代、白人とは別の帽子掛けを使用させられるという差別的待遇を受けたことに憤り、以来「楚人冠」と名乗った】・・・ウィキペディアより。
あの当時、多くの知識人の欧米に対する思いは、憧れ、羨望、尊敬、嫉妬、妬み、嫉み、憎悪、敵意、反感・・・・・・等々、ゴチャゴチャと屈折し捻れていた気がします。
それで、この絵は笑えました。じっとしていると寒さが応えます。後ろで雪車を押している男の方は、身体がポッカポッカの筈です。
少し離れた処にもう一つ、案内板がありました。
我孫子を始めて全国に紹介したのも楚人冠だったのです。
『筑波見ゆ 冬晴れの おおいなる空に』の句碑です。
「冬の晴れた日、大きな空に筑波山が見えました」眼にした景色を、ただそのまま綴ったように読めます。
が、しかし、この言葉の奥にある、深~い意味、その時の詠み人の心理状態、時代背景等を想像し、情景の広がりを想い描き、深く、深く、味わうと、それなりの感動を呼び起こす名句なのでしょう。
残念ながら、素養の無い私には“単なる小学生の写生”にしか思えませんでした。
失礼しましたァ~ m(_ _)m
大変に立派な陶器製の句碑です。陶器製とはなかなか珍しいです。
広大な屋敷の配置図です。屋敷を“白馬城”とよび、自邸?母屋?を“枯淡庵”と呼んでいたそうです。
屋敷を白馬城とよぶ意識に、枯れた心境とはほど遠い感覚を抱くのですが、枯淡は単なる願望の現れでしょうか。
若き日に思い描いた青雲の志と、生涯で上り詰めた地位との落差に、それなりの寂しさと、儚さ、空しさ・・・・・・、そんな想いが混ざりあった、白馬城と枯淡庵。
優秀で、それなりに名を残した人の心境は、無能で、世の中を汚しただけの者には、理解を超えた想いがあるのでしょう。
私も、丘の上に立ち、遠くの空を見つめ、じっと眼凝らし、筑波山を探したのですが、裏の家に立つテレビのアンテナしか見えませんでした。
カンカン帽にメガネをかけ、口髭を生やし、自転車に跨り、我孫子を走り廻っていたようです。
わたしも、この日は、野球帽にメガネをかけ、口髭を生やし、自転車に跨り、我孫子を走り廻っているところです。
外観的には、ほんの少しだけ楚人冠に近いのです。
まだ、まだ、我孫子を走り廻ります。
それでは、また明日。