歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

我孫子に山下清の痕跡は無かった!

2008年05月21日 | 街の風景
昨日の続きです。

納豆チャーハンの店の前を通過して駅前に行ってみました。やっぱり、我孫子は白樺派のようです。

立派な石の台座に“白樺派三人衆”の写真が訪れる観光客をお出迎えしております。

【このチビちゃんバックしているのです自転車に追突する処でした】

大正6年(1917年)5月12日、武者小路実篤の誕生記念に実篤邸で撮られたようです。


左から、武者小路実篤、柳宗悦、志賀直哉。

実篤の誕生日にも関わらず、実篤の家で撮られたにも関わらず、真ん中に一番年下の柳宗悦が立っています。こんなところが白樺派なのでしょう。

使用人達と一緒に撮っているのも珍しいです。こんなところも白樺派なのでしょう。

それにしても、昔の人は老けて見えます。この時、実篤32歳、直哉30歳、宗悦28歳です。

前回から白樺派とは離れる筈が、駅前に来て復活してしまいました。これで、間違いなく、白樺派とはお別れです。

そうです! “山下清画伯”の痕跡と形跡を追いかけ我孫子駅に来たのです。先ずは“弥生軒”を探します。

そんな、こんなで、駅前をウロキョロしていると、ゴロゴロと台車を押す音が聞こえてきたのです。


間違いなく、駅構内の“立ち食いそば店”に食材を運んでいるのです。我孫子駅構内の“立ち食い”は“弥生軒”が一手販売なのです。

出てきたと思われる方に行って見ました。探しました、


あっち、こっち、それらしき店、それらしき建物、それらしき倉庫、いろいろ探しました。

ソバ汁の匂い、揚げ物の匂い等が漂って来るのではと、嗅ぎ廻ってもみました、しかし、まったく、それらしきモノは発見できませんでした。



駅の構内とは別に、食堂のような店が有り、店の前には山下清に触れた案内看板でも有ると期待していたのでが残念です。

ホームの弥生軒です。以前、ここで“唐揚げ(鶏)そば”を食べた事があります。唐揚げは「2個入り」と「1個入り」があり、勿論、2個入りを注文しました。


“どうせ、立ち食い蕎麦の唐揚げ何て、ちっちゃいのが乗っかってんだろ”と、侮っていたのです。

ところが、出てきてビックリ。“衝撃的”大きさなのです。丼に大人の“握り拳”が2個乗っかっていたのです。

あまりのボリュームに2個目は衣を剥ぎ中味だけを頂きました。10年ぐらい前のことです、確か380円?ぐらいだったと記憶しています。

後で判ったのですが、この唐揚げ蕎麦、立ち食いファンに“ゲンコツ蕎麦”として、それなりに“名の有る蕎麦”だったのです。

それで、山下清画伯の痕跡ですが、何処にも無く、駅前の観光案内でもまったく採り上げていないのです。

清画伯は、全国を放浪して作品を残しているのですが、我孫子は放浪先ではなく、生活の場であったようで、“我孫子関係”の“作品がまったく無い”ようなのです。

この辺が“我孫子から冷たく”されている、“遠因”になっているような気がします。

それと、人気の割には“芸術作品”としては、業界筋の評価が低い事も、それなりに影響しているかも知れません。

山下画伯は、弥生軒で昭和17年頃から5年間ほど働いていたようです。5年も居たなら、手賀沼の風景でも一枚くらい描いたって・・・・・・と思うのです。

画伯にとって、我孫子の風景は創作意欲を刺激しなかったようです。手賀沼も単なる“水たまり”に映ったのでしょう。

それと、今回知ったのですが、本名は“大橋清治”と云う方だったのです。いままでずっと山下清は本名だと思っていました。

1922年に東京都台東区日本堤に生まれ、1971年に49歳で亡くなっています。

我孫子に山下清の痕跡、形跡は残っていませんでした。


それでは、また明日。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする