昨日の続きです。
いよいよ?平井橋を渡ります。橋のこちら側は墨田区、あちら側は江戸川区になります。
橋の真ん中が区境となっています。でも、橋の管理は墨田区のようです。
銅製の“橋銘板”が取り付けられているコンクリートブロック。銘板、左下隅の雨だれの跡が、風に吹かれて左から右に斜めに流れ落ちています。
風は、川に沿って上流から下流に吹く確率が高いようです。銘板の右下隅から緑青の流れた跡が見られます。
緑青の流れは垂直に落ちています。銘板の四隅を流れてきた水滴が、右下隅で合流し、流体力学的都合?により、流れは垂直に落下した模様です。
それにしても、長い年月、風雨に晒され、コンクリートブロックのコンクリート成分が溶けだし、小石が露出してきています。
この劣化具合に、世の移ろいを、人の世の儚さを、わびさびの世界を、感じてしまったりして・・・・・・、腹が減ったせい?かも知れません。
小石の露出具合といい。
鉄板のリベット結合と云い。
全体の佇まいと云い。
どう見ても、昭和初期の橋だと、思ったのでした。が、しかし、後で調べたところ、何と、1980年(昭和55年)竣工となっていました。
何と、28年の歳月しか経過していないのです。1980年と云えば、ついこの間のことです。80年代製としては、かなり時代遅れのデザインだと思います。
写真をズームアップして確認したら、鉄板はリベット結合ではなく、ボルトで結合でした。この当時であれば、溶接だと思うのですが、かなり中途半端な橋です。
まぁ、当日は、なかなケッコウな、昭和初期のリベット橋と思いつつ、辺りの景観を眺めつつ、渡りました。
ここからは、江戸川区となり、妙光寺はもうすぐそこです。
軒先に、袋が積まれています。何か中に商品でも入っているのかと思ったなのですが、
よく見ると、川が氾濫した時に使用する“土嚢”のようでした。この辺りも、戦中、そして戦後の高度成長時期まで、地下水の汲み上げによる、地盤沈下が激しかったようです。
あの当時、この辺りも“0メートル地帯”と騒がれたようです。通りすがりの者にとっては“0メートル地帯”は懐かしい響きです、郷愁です。
橋を渡って、二つ目の信号を右に入って直ぐに、妙光寺がある筈です。
信号の角に妙光寺の駐車場がありました。
妙光寺の山門が見えてきました。
この日の使命である、妙光寺に到着です。
これから、本堂に参拝し、境内の観察です。
それでは、また明日。
いよいよ?平井橋を渡ります。橋のこちら側は墨田区、あちら側は江戸川区になります。
橋の真ん中が区境となっています。でも、橋の管理は墨田区のようです。
銅製の“橋銘板”が取り付けられているコンクリートブロック。銘板、左下隅の雨だれの跡が、風に吹かれて左から右に斜めに流れ落ちています。
風は、川に沿って上流から下流に吹く確率が高いようです。銘板の右下隅から緑青の流れた跡が見られます。
緑青の流れは垂直に落ちています。銘板の四隅を流れてきた水滴が、右下隅で合流し、流体力学的都合?により、流れは垂直に落下した模様です。
それにしても、長い年月、風雨に晒され、コンクリートブロックのコンクリート成分が溶けだし、小石が露出してきています。
この劣化具合に、世の移ろいを、人の世の儚さを、わびさびの世界を、感じてしまったりして・・・・・・、腹が減ったせい?かも知れません。
小石の露出具合といい。
鉄板のリベット結合と云い。
全体の佇まいと云い。
どう見ても、昭和初期の橋だと、思ったのでした。が、しかし、後で調べたところ、何と、1980年(昭和55年)竣工となっていました。
何と、28年の歳月しか経過していないのです。1980年と云えば、ついこの間のことです。80年代製としては、かなり時代遅れのデザインだと思います。
写真をズームアップして確認したら、鉄板はリベット結合ではなく、ボルトで結合でした。この当時であれば、溶接だと思うのですが、かなり中途半端な橋です。
まぁ、当日は、なかなケッコウな、昭和初期のリベット橋と思いつつ、辺りの景観を眺めつつ、渡りました。
ここからは、江戸川区となり、妙光寺はもうすぐそこです。
軒先に、袋が積まれています。何か中に商品でも入っているのかと思ったなのですが、
よく見ると、川が氾濫した時に使用する“土嚢”のようでした。この辺りも、戦中、そして戦後の高度成長時期まで、地下水の汲み上げによる、地盤沈下が激しかったようです。
あの当時、この辺りも“0メートル地帯”と騒がれたようです。通りすがりの者にとっては“0メートル地帯”は懐かしい響きです、郷愁です。
橋を渡って、二つ目の信号を右に入って直ぐに、妙光寺がある筈です。
信号の角に妙光寺の駐車場がありました。
妙光寺の山門が見えてきました。
この日の使命である、妙光寺に到着です。
これから、本堂に参拝し、境内の観察です。
それでは、また明日。