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COP15後の 日本の検討するべき方向

COP15は大方の希望・期待に応えられずに終わった。途上国の代表者達が 手を打って大喜びしている映像を見て複雑な気分となった。
しかし、日本の提案が生きるような結論が出るとは思えない情勢だったのは 大方の予感するところではなかったか。

しかし、それにしても中国はしたたかである。戦略的とは ああいうマヌーバーを言うのだということを、改めて見せ付けられた思いだ。中国のアジア、アフリカ外交を 単なる資源外交と一面的に冷ややかに、というか単に“資源を買い占めている”という意味での脅威としか受け止めていなかった日本人には 思いもつかなかったことではなかったか。
会議が始まるや、日本や欧米など世界中の先進諸国の環境政策への徹底的な批判を行い、一見 世界中を敵に回したような行為だったが、実はこれがアジア、アフリカの資源途上国の固い結束を背景にした したたかな計算の上での行動だったのだ。
肝心の会議が始まってからそれに気付き、ようやくアジア、アフリカ途上国の固い結束を崩そうとして、急遽 彼らに付け刃の提案を幾らやっても通る訳がない。結果として、中国は米国も自分のペースに巻き込み先進諸国をキリキリ舞させたのだ。
相手の行動を注意深く観察し、何を目的としてどういことをやっているのか知悉することが重要である。表面的、外形的な 戦力や 外交姿勢しか把握せず、その本質を見抜けないようでは 今後ともいかなる戦略も成し得ないのだ。
この中国に対して、日本の立ち位置が 国際的にますますぼやけてきているのが実態だ。日本は欧米国家ではない。アジアの一員だと思っているし、一時は世界からアジアへのゲイト・ウェイであるとの思い上がりもあった。しかし、アジア・アフリカへのゲイト・ウェイの地位は中国に奪われた格好になっている。そのことを自覚するべきだ。
もう一度 しっかりと足許を確認し、その上で 真の国益を反映した外交をどうするべきか よく考える必要がある。その外交戦略の一環として 環境外交を展開するべきなのだ。最早 お人好しの資金拠出だけで、目先しか見ずに 場当たり外交では国際社会ではますます地位は低下して行くだろう。国際的地位の低下は国益を害することを肝に銘じるべきだ。

そういう点で、環境外交はいかにあるべきなのかを 見極める必要がある。そのために、IPCCの提言は真実の“科学的”提言なのかも よく見極める必要がある。今、地球が温暖化しているのは事実である。しかし、本当に人為的に排出されたCO2ガスが その原因なのだろうか。いや、人為的に排出されたCO2ガスを削減すれば本当に温暖化は 止まるのだろうか。もし、そうでなければ 実は大変なことになるのだ。

CO2ガスを大幅に削減することは これまでの人類の経験によれば 社会的混乱や それによる多数の死者を伴う犠牲者なしでは 実現したことはなかったのだ。一方では その覚悟が必要なのだ。その本質は近代文明への挑戦なのだ。ひとり一人が自分の生活を切り詰め、利便性を我慢する必要があるのだ。それは 経済全体の縮小を意味する。
実は、気候温暖化のシミュレーションより、CO2ガスを大幅に削減した時の 社会的混乱がどの程度になるのか しっかりシミュレーションした上で、CO2ガスを大幅に削減する政策の選択が必要なのだ。
だが、お気楽な 環境学者は 環境産業を興せば 雇用は次々と生まれるなどと言って大衆を欺いている。そういうことをPRすることを生業となさっているが、本当にそうなのか。環境産業とは一体どんなものなのか。

例えば太陽電池が本当に環境に良いものなのか。あんなにバカ高い電力コストの電池が 本当に環境に良いものとは思えない。エネルギーの先食いでしかないのではないか。しかも 砂漠でない限り天候はいつも晴天ではない。稼働率は100%ではないことに留意するべきなのだ。予定された製品寿命が尽きる前に廃棄されるようなことになれば 明らかにエネルギー先食い以外の 何物でもないことになる。利害関係者の 都合のよいデータだけで騙されていないか。そんな 非効率な電力源を普及させるために 電力会社に高い太陽電池電力を買わせ、その結果 太陽電池を持っていない貧困家庭に高い電力を買わせることになる。貧者から富者への富の移動となる。それで 明るい良い社会になると言うのか。
原子力発電は 温暖化対策として有効だというが本当なのか。この議論は発電時にCO2ガスを出さないからなのだが、実は発電時に 発生した熱の3分の2は 温排水として排出されているという話がある。エネルギーの3分の2を無駄に捨てなければならないのが原子力発電だという。この限界は今の熱交換技術の工学的限界なのだ。
後に残るは 省エネ産業だが 省エネは所詮 省エネであって エネルギーを使うことを前提としている。個々の機器・施設の省エネは上手く行っても その機器・施設の絶対数が増えれば、全体では省エネにはならない。燃費の良い車の絶対数が増加して排ガスは返って増えたというのと同じ理屈なのだ。
やはり、ひとり一人が自分の生活を切り詰め、利便性を我慢する必要があることを再確認するべきなのだ。それは どう考えても 経済活動の縮小でしかありえない。そして そこには ある種地獄の社会的混乱があるだけなのだ。

私は最近、ヒョンなことから、またまた IPCCの主張を覆しかねないデータを見つけてしまった。それは、東北大学大学院理学研究科附属大気海洋変動観測研究センターのデータで、南極での ほぼ34万年前からの 気温と CO2ガスの濃度、海水面高さの変化を 示しているものだ。南極ドームふじでの氷を採取して 計測したデータのようだ。このように 寄せ集めのデータをつなぎ合せて作ったデータではなく、統一的で連続性のあるデータは かなり信頼性が高いのではないか。
このデータによれば この34万年の間に4回温暖化の時期がある。現在はその4度目の温暖な時期なのだ。そして、その時期は気温に歩調を合わせてCO2が増加しているのである。そして、海水面の高さも連動しているのだ。この気温とCO2ガスの増減は何に拠っているのだろうか。いずれにせよ、人為的なものとは思えない。ならば、昨今の 温暖化も人為的なものが主因ではない可能性がある。
とすると、地獄の世界を見てまでCO2ガスを削減しても一向に効果がないこともありうるのだ。それでもCO2削減のために狂奔するべきなのだろうか。

IPCCの提言は 世界中の学者の科学論文を取上げて査読に耐えるもので構成されているという。しかし、IPCCのメンバーの中には、その全ての論文を見通して 統一的に把握できている人は極めて少ないようだ。それに、IPCCの提言に反論する学者も 結構いるのは事実のようだし、既述の東北大のようなデータが あるのも事実だ。なので、IPCCの提言に偏向がないとは言えないのではないか。自分達の都合の良い論文だけを つまみ食い的に取上げているという疑念は残る。それが 信頼できる提言と言えるだろうか。

温暖化は 人為的には対応のしようのない問題である可能性があるのだ。真の問題はCO2の増加よりも、資源の枯渇ではないのか。このことは誰の目にも反論のしようのない事実である。CO2の削減策が 省資源的であるため その方向性が一応間違っていないからと、大勢に逆らわず口をつぐんでいる学者も結構いるようだ。
エコロジカル・フット・プリントという考え方によれば 80年代に 既に地球人口は 定員オーバーとなっていて、今の地球人口に適切な地球は1.2個であるという。つまり 持続可能でない化石燃料で今を生きているのが人類社会の 危うい現状なのだ。
この資源枯渇に絡んで、問題は 石油や天然ガスの経済的採掘可能なのは 各々あと40年先、60年先までだという。その先は 今のところ石炭と原子力に頼らざるを得ない。だが、今のCO2削減派の人々は 石炭を好まない傾向にある。それを使わなければ生きていけないとなれば 彼らも黙ることになるのだろうか。

そういう本質を見定めた上で、環境外交はIPCCの提言に右顧左眄されることなく、国際的な資源枯渇対策に向けて 国益を守るために、どう戦略を構築し、何を為すべきかを 軸に検討するべきではないのか。さらには京都議定書をも どのように遵守するべきか、あるいは 場合によっては 遵守できない時は、どのように国際信用を維持するのか 熟慮する必要があるのではないのか。
外交戦略がIPCCの提言のみに従った単一シナリオに従っていると 国益を大きく誤る可能性がある。複数のシナリオを持っておくことが 国家戦略には特に肝要なことであると思うが どうだろうか。

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