The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
佐賀の街の維新の空気
約1ヶ月前の話で恐縮ですが、また、また九州佐賀方面へ出張しました。佐賀県下の工場に出張し、翌日 佐賀県庁の環境課に出かけ、保管公開されている地図を見て規制・指定区域等の確認を行う予定で、佐賀市に投宿しました。
JR九州の車両は みな特徴的なので 思わずカメラを向けました。肥前山口構内にたまたま停車していた列車です。私は 特急かもめ の 外観や車内のデザインやロゴは気に入っています。
“かもめ”は 昔の国鉄時代は 山陽本線の花形でした。JR九州には もう一つ 東海道本線の花形特急だった“つばめ” が 走っています。
夕方までに 時間的余裕がありましたので、佐賀市内を徘徊してみようと歩き始めました。
何は さておき 武士道の核心 “葉隠”の拠点である 佐賀城を目指しました。“徘徊”と言うにはおこがましく、駅前から真っ直ぐ南下。突き当たった 大きな堀に囲まれた一角が 旧佐賀城です。佐賀市内では 掘割が多い印象です。情緒豊かな感じですが、中には 残念なことにドブ川になりかけていると見受けるところもあります。
右手に県庁を見ながら北堀を通り抜け、テレビ局の通りを左へ向かい、本丸歴史館の案内を見いだす。いよいよ石垣が目に入ってきて大手門と思われる門の前に出ました。門をくぐると中に 何故かアームストロング砲の模型がありました。これが あの上野の彰義隊を沈黙させた 当時最新鋭の野戦砲でしょうか。
残念ながら、この本丸歴史館は 本来は年中無休のようですが なぜかこの時期休館中でした。不運。
このままでは 収まらないので 大隈記念館に 向かうことにして東へ転進。何とか 辿り着いて、先ずは 記念館の陳列の見学です。その中に、佐賀の七賢人として、鍋島直正、江藤新平、副島種臣、佐野常民、島義勇、大木喬任そして大隈重信のパネルがありました。
そう言えば、JR九州の列車を紹介しましたが、大隈は 日本最初の新橋・横浜間の鉄道を推進していました。それから、早稲田の創立は勿論、白瀬の南極探検にも 出資援助した、ということです。有意義な事業に “金は出すが、口は出さない”人であったとのパネル説明がありました。
大隈重信旧宅について、“この建物は今から200年ほど前の天明・寛政の頃建てられた禄高300石取りの建物と云われている。・・・大隈家は代々兵法家で、特に父信保は、荻野流砲術家として名声があり、石火矢頭人(いしびやとうにん・砲術長)であった。幕末、長崎警備につき、砲台勤務で活躍した。天保3年(1832年)信保はこの家を買い取り、同9年2月16日、この家で重信が誕生した。重信が6歳の時藩校弘道館に入学したが、母三井子の考えによって、勉強部屋が2階に増築され、これが今の家の中央部に位置している。” との説明が 立て看板にありました。
肖像を見ると、まさに がっしりした顔つき、頼れる人物の印象です。
幕末から維新にかけて、多くの偉人が 輩出しました。同じように 戦国の時代にも英雄・豪傑が 多数輩出しました。このように日本史上では 変革の時代には 必ずと言って良いほど 良い人材が澎湃と出現したものですが、今 混乱する日本には 偉人は居るのでしょうか。“地上の星”は いずこに。現代日本は 選良とおぼしき人から下々に至るまで、誰もが 自己利益の追求のみに汲々としている、残念な時代です。どうして こうなってしまったのでしょう。
考えてみれば 南北朝時代も 偉人の輩出が無かった時代です。この辺に 何かヒントがあるのでしょうか。
前回は 古代の吉野ヶ里遺跡でしたが、今回は 維新の頃の雰囲気に 少々 思いを馳せました。
ですが、一たび我に返った私も 我欲妄執の世界へ、現世利益を求めて、活動開始。
宿に戻ってから その近所で小城羊羹を買いました。“昔ながらの羊羹” とありますが、中は普通の羊羹で 表面に砂糖が “析出” したのか 単に乾燥しただけなのかパリパリになっています。これが微妙な心地よさの食感です。昔の羊羹は こんな風だったのでしょうか、全く知りませんでした。
夕食は 佐賀牛の焼肉を 目指しました。食事に カメラの持参を忘れましたので 素晴らしいお肉の写真はありません。さすがに 口に入れると とろけるお肉でした。それも 2人で6,400円とは格安の印象で、お蔭さまで久しぶりに たっぷり味わい 満足、マンゾクで 翌日の県庁での仕事に備えました。
JR九州の車両は みな特徴的なので 思わずカメラを向けました。肥前山口構内にたまたま停車していた列車です。私は 特急かもめ の 外観や車内のデザインやロゴは気に入っています。
“かもめ”は 昔の国鉄時代は 山陽本線の花形でした。JR九州には もう一つ 東海道本線の花形特急だった“つばめ” が 走っています。
夕方までに 時間的余裕がありましたので、佐賀市内を徘徊してみようと歩き始めました。
何は さておき 武士道の核心 “葉隠”の拠点である 佐賀城を目指しました。“徘徊”と言うにはおこがましく、駅前から真っ直ぐ南下。突き当たった 大きな堀に囲まれた一角が 旧佐賀城です。佐賀市内では 掘割が多い印象です。情緒豊かな感じですが、中には 残念なことにドブ川になりかけていると見受けるところもあります。
右手に県庁を見ながら北堀を通り抜け、テレビ局の通りを左へ向かい、本丸歴史館の案内を見いだす。いよいよ石垣が目に入ってきて大手門と思われる門の前に出ました。門をくぐると中に 何故かアームストロング砲の模型がありました。これが あの上野の彰義隊を沈黙させた 当時最新鋭の野戦砲でしょうか。
残念ながら、この本丸歴史館は 本来は年中無休のようですが なぜかこの時期休館中でした。不運。
このままでは 収まらないので 大隈記念館に 向かうことにして東へ転進。何とか 辿り着いて、先ずは 記念館の陳列の見学です。その中に、佐賀の七賢人として、鍋島直正、江藤新平、副島種臣、佐野常民、島義勇、大木喬任そして大隈重信のパネルがありました。
そう言えば、JR九州の列車を紹介しましたが、大隈は 日本最初の新橋・横浜間の鉄道を推進していました。それから、早稲田の創立は勿論、白瀬の南極探検にも 出資援助した、ということです。有意義な事業に “金は出すが、口は出さない”人であったとのパネル説明がありました。
大隈重信旧宅について、“この建物は今から200年ほど前の天明・寛政の頃建てられた禄高300石取りの建物と云われている。・・・大隈家は代々兵法家で、特に父信保は、荻野流砲術家として名声があり、石火矢頭人(いしびやとうにん・砲術長)であった。幕末、長崎警備につき、砲台勤務で活躍した。天保3年(1832年)信保はこの家を買い取り、同9年2月16日、この家で重信が誕生した。重信が6歳の時藩校弘道館に入学したが、母三井子の考えによって、勉強部屋が2階に増築され、これが今の家の中央部に位置している。” との説明が 立て看板にありました。
肖像を見ると、まさに がっしりした顔つき、頼れる人物の印象です。
幕末から維新にかけて、多くの偉人が 輩出しました。同じように 戦国の時代にも英雄・豪傑が 多数輩出しました。このように日本史上では 変革の時代には 必ずと言って良いほど 良い人材が澎湃と出現したものですが、今 混乱する日本には 偉人は居るのでしょうか。“地上の星”は いずこに。現代日本は 選良とおぼしき人から下々に至るまで、誰もが 自己利益の追求のみに汲々としている、残念な時代です。どうして こうなってしまったのでしょう。
考えてみれば 南北朝時代も 偉人の輩出が無かった時代です。この辺に 何かヒントがあるのでしょうか。
前回は 古代の吉野ヶ里遺跡でしたが、今回は 維新の頃の雰囲気に 少々 思いを馳せました。
ですが、一たび我に返った私も 我欲妄執の世界へ、現世利益を求めて、活動開始。
宿に戻ってから その近所で小城羊羹を買いました。“昔ながらの羊羹” とありますが、中は普通の羊羹で 表面に砂糖が “析出” したのか 単に乾燥しただけなのかパリパリになっています。これが微妙な心地よさの食感です。昔の羊羹は こんな風だったのでしょうか、全く知りませんでした。
夕食は 佐賀牛の焼肉を 目指しました。食事に カメラの持参を忘れましたので 素晴らしいお肉の写真はありません。さすがに 口に入れると とろけるお肉でした。それも 2人で6,400円とは格安の印象で、お蔭さまで久しぶりに たっぷり味わい 満足、マンゾクで 翌日の県庁での仕事に備えました。
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