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京都文博"百花繚乱 ニッポン×ビジュツ展"を鑑賞

先週末、一週間のそれなりのドタバタをどうにか終えて帰宅し、見たテレビがラグビー・ワールドカップ日露戦だった。ラグビーを見るのは、何十年ぶり。大昔、義理の従兄弟が社会人と学生日本一が正月に雌雄を決していた時のレフェリーをしていたのを見て以来ではないか。だが はて、これが日本チーム?日本人居ない?ラグビーのルールはどうなってんの。それはどうでも、ワールドカップ第一戦は勝利で終わって一先ず何より。

ところで、先週は台風15号の被害からの復旧が進まないことがTVニュースやワイドショウの主題だった。一体、何故こうなったのか。先週初めあるTV報道解説者が指摘していたが、“日本中の災害が多過ぎて人や重機の取り合いになっている。ゴルフ練習場の鉄塔撤去もほとんどままならないだろう。”ということだったが、今やその通りとなっている。
政治家は何をしているのか。先週末、某内閣官房長官が“政府としては、災害の規模や被害の状況などを総合的に勘案し、もっとも適切な態勢を構築して、災害の応急対策にあたっている”と言明したという。要するに、一見暢気に内閣改造をやったが、災害対策の初動もその後の対応にも問題はなかった、とのこと。ケロッとしたものだ。千葉の被災者は中央政府からは見捨てられている。
一部の被災自治体では、“ほとんど被害なし”と言い、県知事も報道では一向に姿を見かけなかった。聞くところに依れば知事は“現地報告を待っていた”という。阪神の震災でもそうだったが、被災したところは報告どころではないのが実態だ。その後は、その経験で災害対応を変えていたのではないのか。

だが、どうやら実態は異なっており、屋根が無くなった家に張るブルーシートも一時は不足し、さらにその専門作業者も不足しており、降雨があってもどうしようもないという。それに電気の通電もままならず、復旧が進んでいないようだ。一旦、通電しても直後また停電といった地域もある由。全国の電力会社の協力をもっと徹底できないのだろうか。復旧活動のマネジメントが十分でないのではないか。政府は東電側の問題としているが、それで良いのだろうか。
関西ではほとんど報道されていないので知らなかったが、この台風が横浜で沿岸の護岸堤防を崩壊させ、数百社の中小企業が高波で海水が浸水し、設備被害が膨大、コンピュータ・システム内の情報・データが失われて途方に暮れているとのこと。頼りの堤防があっさり崩壊しては、それに基づいて作られたハザードマップも当てにはできない。かつて国土強靭化と言っていたが、老朽化したインフラの点検整備がいい加減では元も子もない。
このように復旧が遅れ続ければ、いずれ日本中の民家の屋根はブルーシートで覆われることになるのだろう。外国では日本の家の特徴として屋根がブルーシートで覆われていることが紹介されるだろう。そうなればインバウンドもクソもあるまい。
災害で被害が大きくなり、また多くなればこの国の国力も衰退するばかりだ。報道も隣国の騒ぎを伝えることに躍起にならず、この国の問題や実態をもっと正確に多くを報道するべきではないのか。
この災害大国のBCP体制は一体どうなっているのだろうか。復興庁の新設も見送っていて、この体たらくだ。チョット昔には役所の新増設には御熱心だったはずが、一体どういう風の吹き回しだろうか。
五十年、百年を見通した国家戦略も無く、政治家の気まぐれでいい加減な政策に専念していては、この国の将来はない。今や話題にもならないがモリカケに象徴されるように、権力者の周辺で国家予算を無駄に費消している場合ではないはずだが、現政権の支持率が高い内は、国民がそれを望んでいるのだから、どうしようもない。この国の国民は現実に絶望の淵に追いやられなければ気付かないのだろうか。しかし、それが現実になってからでは手遅れで全巻の終わりなのだから、アホの極みではないか。

そうだ福島第1原子力発電所事故を巡り、東電の旧経営陣が東京地裁で無罪判決を得た。その経営責任は問わなくて良いのか。裁判所は日本政府の震災予測を根拠のないものと断定し、それを根拠に経営陣を無罪としたようだ。ならば、南海トラフ地震も空騒ぎと言うのか。
それに日本の経営者にどんどん緊張感がなくなって、無責任で権限だけを振るういい加減な経営をする者ばかりになるのではなかろうか。日本社会はどうしてこのように“上に優しく、下に厳しい” のだろうか。日本の兵士は優秀だというのが世界の評価だが、これは厳しい扱いを受けていて鍛えられているからだろうか。上にも厳しく対処しなければいつまで経っても、日本は旧態依然、世界はどんどん進化して、取り残されるばかりだ。


さて先週末は、午後からの京都研修会、折角の京都なので例によって京都文化博物館に赴いて“百花繚乱 ニッポン×ビジュツ展”を鑑賞した。HPには次のように説明がある。
“本展は、本年に開催されるICOM(国際博物館会議)京都大会を記念して、東京富士美術館が所蔵する 3万点のコレクションの中から、日本美術の名品を展観するものです。
本展では日本文化の豊穣な芸術世界のエッセンスをわかりやすく楽しむことができるように「カワイイ」「サムライ」「デザイン」「黄金」「四季」「富士山」など日本美術を特色づけるキーワードを通し、ニッポンのビジュツを俯瞰的に横断します。さらに刀剣をあたかも実際に手に持つようなスタイルで鑑賞できる刃文鑑賞特設ケースや、江戸時代に室内で灯明をあてて金屏風を鑑賞した様子を、VR技術を元にシミュレーション体験できるなど、従来の展覧会にはない新しい日本美術の楽しみ方を提案します。絵画、浮世絵版画、漆工、刀剣、武具甲冑などの多彩な作品群を通して、日本美術の豊かさに触れる絶好の機会となるでしょう。”
要するに、東京に行かなければ見れない逸品を一挙に見れるという催しだ。

10時開館なので、阪急烏丸駅に9時半。京都大丸の東横の道をひたすら北上、元日銀京都支店のレンガ造りの建物を左に見て、京文博の入口到着、若干早過ぎたか。既に高齢者でスズナリ。
これは受付で手間取ることになる。ならばと元日銀京都支店側から入場して“辰野金吾没後100年 文博界隈の近代建築と地域事業”展示の予習を兼ねて写真撮影をして無駄時間解消。

実際に受付して驚いたのは、“写真撮影可”の表示。勿論、フラッシュや三脚の使用は不可だが。その後は鑑賞より捨身撮影に気持ちが行ってしまった。皆、スマホで撮影。私のスマホは直前で何故か保持電力が払底、携帯電源で補充中につき使えず。いつも持ち歩いているコンパクトカメラで撮影にかかる。

しかし、その口開けがあまりにも突飛。伊藤若冲の図案化した“象図”(寛政2年・1790)。あの精密な写実に精魂を使ったはずの若冲がこんな絵をどんな思いで描いたのか。東京富士美術館のHPに次の説明がある。
“単純な作風に見えるが、淡墨と濃墨を細心の配慮を払って用いていることが理解できる。背中を三本の曲線だけで表わすなど抽象化されていて興味深い。その落款と印章から若冲70歳代半ばの作と知れる。享保13年(1728)、第8代将軍徳川吉宗の要請で実際の象が日本に持ち込まれ、その翌年、長崎から江戸まで歩いて移動したという。14歳を迎えた若冲は、おそらく京都の地でその象を実見したとみられる。本作は、実際に見たであろう象の記憶そのままに、畳一畳近くある大型の画牋紙からはみ出るほどの迫力で描かれている。”

近くにあった狩野尚信の“猛虎図”がひょうきんな虎という風体で“重要美術品”のようだが、印象が薄い。円山応挙の“狗子之図”(寛政年間初め(1790前後)頃) 3匹の仔犬が可愛く少しホッとする。

歌川国芳の“みかけハこハゐがとんだいゝ人だ”図。これは大いにふざけている、というより絵としては工夫の極み。良く見ると男の顔が裸の人物で成り立っている。否、その手もそうだ。この絵のシャレた題はだれが、どうやって考えたのか。東京富士美術館のHPの解説では“西洋の画家・アルチンボルトが植物や果物などを使い、同じ手法で人体を表現する試みをしているが、両者の関係性については定かでない。”

江戸時代中期(18世紀)の鯱形兜や日本刀の展示もある。西郷隆盛を重用した島津斉彬所用の“白糸裾萌葱紺威鎧 兜・大袖・小具足付”も展示されていた。歴史上人物所用の具足の展示は珍しいのではないか。

海北友雪の“源平合戦図”は細部が面白い。“四条畷手の戦い”は歌川国芳の絵(安政4年・1857)で、南朝方・楠木正成の息子正行(まさつら)が北朝方の室町幕府執事高師直等と戦い敗れた時の多数の矢で射かけられている場面を描いている。人物のポーズが江戸期特有のものだが、白い矢が非常に目立つ。

鈴木其一の“風神雷神図襖”は丁寧に描かれている印象で、何だか迫力に劣るように見えた。これは何だかやっぱり建仁寺の俵谷宗達に限ると思い込んでいる。

順姫所用の駕籠“竹雀紋竪三引両紋牡丹唐草蒔絵女乗物”(江戸時代中期 18世紀)。外側の細工もいいが、内部の装飾は素晴らしい。だが狭いので実際に乗ってみてそれを楽しめるのだろうか。次の説明がある。“仙台藩第7代藩主伊達重村の娘順姫が伊予宇和島藩第6代藩主伊達村壽に嫁いだ際に用いられた品と考えられている。”内部の装飾が“大名家にふさわしい豪華な蒔絵、華やかな花鳥画が特徴的である。同種の乗物はわずかしか現存しておらず、文化的にも高い価値がある。”

後は屏風や襖絵。狩野派の“吉野山竜田川図屏風”(江戸時代前期 17世紀)。
作者不詳“武蔵野図屏風” 江戸時代前期 17世紀 この絵にも富士山が描かれているが、太宰が富岳百景で富士山の頂角は実際には120度前後だが絵では大抵これより鋭角に描かれていると指摘していたのを思い出した。この絵も例外ではない。何故、そうなるのか。

最後は浮世絵風景版画。葛飾北斎の冨嶽三十六景の内、“山下白雨”、“神奈川沖浪裏”、“凱風快晴” と、歌川広重の“名所江戸百景 水道橋駿河台”、“東海道五拾三次之内 原 朝之富士”で特別展示は終わり。これらの富士山は勿論御存知の通り。

常設展示の京都の歴史は飛ばして通過。“ICOM京都大会開催記念 京の歴史をつなぐ”で羅城門の模型を見る。裏に回ると建築中の木組みを細密に再現したものとなっていた。羅城門はごく最近、遺跡が見つかって位置が確定できたような新聞記事を読んだように覚えている。この門の創建後は夜明けには役人が内裏から持ってきた鍵で開錠し、開門、日没後は施錠していた。開錠、施錠時には太鼓を打っていたような説明があったように記憶している。

“京のまつり・祇園祭”展示も常設化している印象だが、今回は“長刀鉾の名宝” で、山車の屋根に着ける木造りで、白金箔を貼ったの長刀の展示があった。

最後に、今回目的の一つ“辰野金吾没後100年 文博界隈の近代建築と地域事業” を見たが、新たに得たものは少なかったような気がする。この展示場は撮影禁止。石組みの施工図や実際に着けられていた避雷針の展示があった。西洋建築特有の屋根のスレートは施工で失敗すると雨漏りの原因になったり、強風で飛ばされる懸念があるので辰野が苦労したらしく、その実物展示があった。

展示観覧を一通り終わって、いよいよ11時半。充電中のスマホを確認すると80%以上になっていて、ようやく午後は安心して使える見通しとなった。
京文博を出て、楽しみにしていた近くの京料理の店に急いだが、“準備中”の看板にがっかり。もう一軒の湯葉丼を出す店を探し出して行ったが、ここも大勢の予約客があるとかで、どんな料理でも出すのに40分以上かかるとのこと。
もう何でも良いからと、近くの百貨店の最上階にあるレストランを目指す。コスパが良いとは言えないが、外れはないだろうと行ってみた。そこで天ぷらぶっかけうどんととろ丼定食を食べた。思わず腹一杯。これで午後の研修は十分やれる。
その研修中、念のために最初に行きたかった京料理店の営業時間を確かめてみると、昼の12時からだったようだ。11時半が普通なので早合点してしまった?ついてない!苦笑しかない。


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