The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
京都ミニ観光―貴船神社拝観と宝が池散策
やっと2020東京オリンピックが終わった。TVではマイナー競技一色。やっぱりワールド・カップと五輪の意義の違いに疑問を感じる。マスコミが騒ぐので期待して一生懸命見ていても、日本選手が負けて、ゲンナリ!ならば見なければ良かった!!時間の無駄!!!期待せずにいた競技で、メダルラッシュ?そっちを見たほうが良かった?!!
負けた競技、勿論、選手達当人は負けないよう、渾身の努力を払って来たのだろうけれど・・・。結果だけ見て、後追いで録画を見るのがお勧め、ではないだろうか。このところの映画の見過ぎで、想定外でも見終わってシナリオの意図が分かれば気が晴れる。シナリオが無いから楽しいのはウソ!納得いかないシナリオは不快、そんな気分に趣味が変わったのだろうか。
マスコミの呼び声の高い選手に限って成績が良くなかった印象があり、もう国家主義的五輪は止めるべきではないだろうか。個人に国家を背負わせるのは問題ではないか。また同じ銀メダルでも、“金が取れずに悲しい”と沈んでいる姿より、“銀が取れて嬉しい”と喜んでいる姿を見ている方が心地よいし、素直に拍手を送りたくなる。見る目のないマスコミが騒ぎすぎているのも問題ではないのか。
五輪種目が多過ぎるのも、こういう気分になる原因ではなかろうか。要は、五輪にこだわることに問題がるのではなかろうか。
国家主義と利権の塊。だから、中国と米国が活躍できる仕組みになっている。ロシアやベラルーシは下手糞なだけ。
一部の噂によれば、IOCのバッハ会長は“日本人はコロナ禍でも、やると言ったことは何でもキチッとやる”だろうと、信頼して絶対にキッチリ4年毎に開催するはずの五輪の延期を許容してまでやらせてみた。ところがこの為体だった、というもの。日本人指導層の劣化は目を覆わんばかりであった。
全体として開会式からしてオリジナリティに欠け、折角の歌舞伎演技も影が薄かった。コネコネ、利権争いの五輪でマネジメントもしっかりできていない。おぞましさが多く残る五輪の印象であった。五輪後、検察は“巨悪” を残し、汚職捜査もしないのだろう。そもそも誘致した時既に怪しい動きをしていたではなか。
一方、五輪のメダル獲得と同じようにコロナ禍も “感染新記録”をマークした。想定内の出来事のハズだが、政権政府の御歴々の顔色は悪い。彼らはこの事態を予想できなかったのか。それとも一部専門家の聞く耳を持たなかったのか。或いは“♪分かっちゃいるけどヤメラレナイ”だったのか。政権トップは“”
“中等症ならば入院は当然”とは政府厚労省トップは言うが、東京では“自宅療養”或いは宿泊施設療養、さらに入院処置待ちの合計が約3万人弱という。軽症とは“肺炎になっていない”状態らしいが、コロナとなれば通常即“肺炎”になるものではないか。
しかも“自宅療養”とは聞こえが良いが、実態は“自宅遺棄”!治療薬の投与や投与の態様も寡聞して聞かず、自宅で急変すれば、そこから保健所に連絡?それから救急車が来て、それから入院先を探索。そうこうするうちに病態が悪化して死に至る。そんなところだろう。いわば、医療に容易にアクセスできなくする仕組だ。それこそ“自宅に遺棄する”政策だ。“医療”を守って、命を遺棄する政策。これが“医療崩壊”でなくて何だ?
“♪分かっちゃいるけどヤメラレナイ”だったのならば、せめてこうならないように対策は取れなかったのか?それが政府の最低限度の役割ではないか。アホアホではそこまで期待できまい!
この事態に、お気楽な日本のTV局は“○○は大丈夫だろうか?”と似たように同じセリフを吐き続けて来た。この点で、政府と踵を接している。これもアホアホの極み!!日本のマスコミは政府と異なった建設的な意見を吐く“専門家”を掘り起こし、そうした見解を社会に広める努力をしている“のだろうか?” それが真のマスコミの役割ではないのか。
どのTV局もどうも同じ顔ぶれの“専門家”ばかり集めて、聞き飽きた見解ばかり紹介している。
この悲惨な8月が終われば、ようやく“デジタル庁が9月1日に発足する。行政のデジタル化を進める司令塔となり、マイナンバー(社会保障・税番号)制度の活用や情報システムの効率化をめざす。コロナ禍で「デジタル敗戦」とも言える状況になるなか、省庁間の縦割りをなくし、暮らしを変えることができるのか。”
“コロナ禍の「デジタル敗戦」”。それは“デジタル敗戦”ではない。もっと根本的問題だ。日本の政治家・指導者の論理思考ができないことに問題がある。デジタル以前の基礎的問題だ。
日本の政治家・指導者には“調整型”のリーダーが重用された。いくつかの勢力の言い分をどう調整するかが問題だった。基本は“足して2で割る”だが、2で割るのか3で割るのか、4分6かはたまた73か、その絶妙さが受けたのだ。そこには論理は無い。一瞬で働く“勘”が重要だった。その勘を磨くのは積み重ねた“経験”によった。そして、その勘によった判断を“度胸”で断行する。これが理想の政治家であり、組織の経営者でもあった。これがKKDだったのだ。
だが、激変の時代には、経験は積めない。“経験”なき変化の世界なのだ。そこで生きるのはロジック、なので経験に基づく“勘”は全く機能する余地が無い。しっかりした論理に裏打ちされた思考結果を信じて、断行する“度胸”が必要なのだ。
そして今や“デジタル激変の時代”。この時代の勢力図は新旧の2大勢力であり、旧勢力は“永続敗戦”する歴史的運命にある。だが、その旧勢力には既存の権力がある。彼らはこの権力をとことん使って“抵抗”するのだ。
しかし、歴史的に“永続敗戦”する旧勢力との調整では、最早、この“激変の時代”を乗り切ることはできない。旧勢力が残存する社会は、旧勢力と共に“永続敗戦”する歴史的運命にあるからだ。調整の時代ではなく、All or Nothing の論理の時代なのだ。
それにもかかわらず、日本の現状はKKDの旧型の調整型政治家ばかりが日本では権力を握っているのではないか。自民党の幹部連の御顔を拝見すれば、いかにも古い我楽多揃い。どうやら首相もそのお仲間。これで新しい発想が可能な訳はない。悪いことに、そこにかならず利権が介在する。国庫の資金をいかに掠め取るかの算段ばかりに悪知恵を絞っている。
例えば週末の新聞の片隅に、次の記事があった。五輪中に大きなニュースにならないように配慮があったのだろう。“農林水産省は6日、大阪堂島商品取引所が国内で唯一扱うコメの先物取引を恒久的にできるようにする「本上場」を認めないと堂島取引所に伝えた。”これは農協の利権を守り、その値決めの矛盾を税金で補うもの。もっと自由市場に任せる意志が政府には無く、何でも税金を使って統制する東京的発想。大阪的自由発想を阻むものなのだ。
だが、国民の多くは何故かこうした利権統制を支持している。だから、日本は変わらない。逆に、有効な財政投資や融資は、このコロナ禍でも行われない。利権で掠め取られた国庫はやせ細るばかり。そして、“永続敗戦”する運命の下にある。
目下のネット上での菅政権の命運は、コロナ禍に対する常識外れの酷い政策で、さすがに尽きたかに見える。首相は広島平和記念式典の挨拶で、“広島市”を“ひろまし”と、“原爆”を“げんばつorげんぱつ”と言い間違えたうえ、途中で原稿を読み飛ばすという、上の空の失礼極まりない始末。最早極まれりの観あり。
だがそれでも、何故か若い層を含めて、自民支持が多いのだ。“永続敗戦”する運命が日本人全体でお好みのようなのだ。そして、この日本社会には閉塞感・無力感が漂っている。街中や電車内で無差別殺人や傷害事件を引起す輩が次々と登場している。
そんな閉塞感は、あの戦争直前の雰囲気に似ているのではあるまいか。極めて危険な社会心理状態なのだ。
さて今回も、またまた京都ミニ観光の紹介としたい。先々週、先月の終わりに前日の審査報告書を京都の事務局に持参した。月末に行われる審査委員会に間に合うためには、郵送やE-mail送付などより確実と思ったからだ。
そして、午前中早目に持参したのでそのまま帰るのは丸一日の折角の京都、もったいない。どこか涼しいところへ行きたい、と思いついたのが、貴船神社であった。ならば、京阪電車から出町柳で、叡山電車鞍馬線に乗り換えてアプローチするのが常道。ところがネットで調べたところ、鞍馬線は市原から先、鞍馬まで不通とのこと。“2020年7月7日から 8日にかけて降り続いた大雨の影響により、鞍馬線貴船口駅付近において土砂崩れ等が発生し ており、市原駅~鞍馬駅間で運転を休止”
そこで、地下鉄烏丸線で、“国際会館”まで行き、そこからタクシーで直接、貴船神社奥宮に行くことにした。本当は、“国際会館”からバスという方法があったのだが、1カ月ほど前から左足の中指にタコができて歩くと痛いので、少々無理をして機会を生かしてタクシーで貴船神社奥宮まで行くこととした。奥宮から順次下りながら、結社(中宮)、本宮と拝観の予定。
タクシーに乗り込み行き先を告げると、ドライバーが“行けるかなぁ”と言いだした。どうやら、夏のオン・シーズンに込み合って渋滞するというのだ。
叡山電車の不通も話題になった。山合に入ってくると、特に左手の西側斜面に一面土砂崩れの場所があったり、倒木が目立った。この急斜面の倒木を排除するのに難渋しており、一々ヘリコプターで吊り上げる訳にも行かず、復旧に時間がかかっているということだ。
実際に神社付近に近付くと、道路が車幅の1.5倍程度の道幅のところが多数あり、歩行者も交えて行き交う車でしばしば停車する必要が生じていた。現地の店舗や宿泊施設の人達がピリピリしていて、場合によっては怒号も聞かれる気配があった。その地の人々と顔見知りだという運転手も神経を使っていた。それでも自粛下で観光客が少なく、詰めかけた車も少ないので、結構あっさり奥宮まで到達してホッとした。車で来訪する観光客が多いのでトラブルとなるのなら、交通制限をかけるべきではなかろうか。現地の人やタクシーの営業車、公共サービスの車にステッカーを貼って一般観光客の車を排除する工夫があって然るべきであろう。
貴船神社はWikipediaによれば、以下の通り。(筆者が若干編集している部分有)
京都府京都市左京区の北辺、貴船山と鞍馬山に挟まれた、森林鬱蒼とする山峡にある神社。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。全国に約450社ある貴船神社の総本社である。地域名の貴船「きぶね」とは違い、水神であることから濁らず「きふね」という。祭神は高龗神(たかおかみのかみ)*
*迦具土神(かぐつちのかみ;加具土命)は伊邪那岐(イザナギ)と伊邪那美(イザナミ)との間に生まれた神である。火の神であったために、出産時に伊邪那美の陰部に火傷ができ、これがもとで伊邪那美は死んでしまう。その後、怒った伊邪那岐に十拳剣「天之尾羽張(アメノオハバリ)」で殺された。迦具土神を斬って生じた三柱の神のうちの一柱が、ここの祭神である高龗神。(雨や雪など、水をつかさどると信じられていた神。竜神。)
山峡の社前には賀茂川の上流に位置する貴船川が流れており、京の市中を潤す鴨川の源流とも考えられた。高龗神は水神で、古くから祈雨の神として信仰され、全国の料理・調理業や水を取扱う商売の人々から信仰を集めている。
古来より歴代天皇は干ばつの時には黒馬を、長雨には白馬を奉納して祈願をしていたが、後に生きた馬に替えて、馬形の板に着色した「板立馬」を奉納したと伝えられる。これが現在の絵馬の原形となり、貴船神社が「絵馬発祥の社」といわれる。
社殿は本宮・結社(中宮)・奥宮の3箇所に分かれて建っている。
創建の年代は不詳であるが、社伝では反正天皇(5世紀前半の実在天皇)の時代の創建としている。社伝によれば、神武天皇の母である玉依姫命が、黄色い船に乗って淀川・鴨川・貴船川を遡って当地に上陸し、水神を祭ったのに始まると伝えている。社名の由来は「黄船」によるものとし、奥宮境内にある「御船型石」が、玉依姫命が乗ってきた船が小石に覆われたものと伝える。「気の産まれる根源」が転じて「気生根」になったともいう。
白鳳6年(666年)に、最も古い社殿造替えの記録がある。日本後紀(続日本紀に続く六国史の第三勅撰史書)に、延暦15年(796年)、東寺の造営の任に当たっていた藤原伊勢人の夢に貴船神社の神が現れ、鞍馬寺を建立するよう託宣したと記されている。
永承元年(1046年)7月、出水により社殿が流失し、天喜3年(1055年)、現在の本宮の地に社殿を再建・遷座して、元の鎮座地は奥宮とした。
中宮(結社・ゆいのやしろ)は、本宮と奥宮の中間、本宮から上流側300メートルの場所にある。その立地から中宮(なかみや)とも呼ばれている。
磐長姫命を祭神とし、縁結びの神として信仰される。磐長姫命が縁結びの神とされることになった理由として次のような伝承がある。天孫瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が磐長姫命(イワナガヒメ)の妹の木花開耶姫(コノハナノサクヤビメ)と結婚しようとしたとき、姉妹の父の大山祇命(オオヤマツミノカミ)は、磐長姫命も共に奉った。しかし、瓊瓊杵尊は木花開耶姫とだけ結婚したので、磐長姫命はそれを恥じ、「縁結びの神として良縁を授けん」と言って当地に鎮まったという。
また結社には、和泉式部が貴船神社に参拝したときの歌の歌碑があり、後拾遺和歌集に収録されている。「男(夫の藤原保昌)に忘れられている頃、貴船神社に参拝し、御手洗川に蛍が飛んでいるのを見て詠んだ歌」として、
ものおもへば 沢の蛍も わが身より あくがれいづる 魂(たま)かとぞみる
[意訳:恋しさに悩んでいたら、沢に飛ぶ蛍も私の体から抜け出した 魂(たましい)ではないかと見える]
という歌である。それに対して貴船明神が返したと伝えられる歌
おく山に たぎりて落つる滝つ瀬(たきつせ) の 玉ちるばかり ものな思ひそ
[意訳:奥山にたぎり落ちる滝の水玉が飛び散るように、(魂(たましい)が飛び散ってしまうほど)思い悩んではいけない]
この後、夫婦仲は回復したとのこと。
さらに結社境内には、「磐長姫命の御料船」として平成8年に奉納された船形の自然石「天の磐船」が置かれている。
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人出は奥宮までにはあまり来ていなかった。鬱蒼たる森林の中のはずであったが、真夏の日差しは結構強かった。特に、車道は平地と変わらない。そのメイン・ストリートは、それほどの急斜面ではなく、足の痛みもなかった。ただ、奥宮を除いて中宮、本宮はメイン・ストリートから西側の急斜面に少し登ったところに社殿がある。しかし、それもわずかな距離なので、苦にならなかった。
さすがに本宮は昼時ということもあるのか、人出が多かった。七夕の飾り付けが未だあった。
本宮からさらに下って、鞍馬方面からのハイキングコースの小径から架橋有り、そこに蕎麦屋・伝兵衛がある。そこで昼食とした。折角なので、500円高い川床にての食事とした。川床はハイキングコースの小径から橋を一旦渡った所に、入口がある。空いている席の好きな場所で良いとのことで、川上側の3席の空いている中央に座った。さすがに、川上からの冷風が涼しい。
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帰路は、そのまま下って左側に駐車場が見えてくる。そこにタクシー・ドライバーから教えてもらった、京バスの貴船口とのシャトルバス停留場があり、貴船口まで下る。貴船口からさらに路線バスで“国際会館”のターミナルに出る。貴船からのバスはやく30分程度。
時刻は午後2時で、帰神には早すぎる。そこで、できればその国際会館を見学したくなり、道案内表示を頼りに、歩き始めた。学会セミナー等の開催地にはなっていた記憶はあるが、行く機会が無かったのだ。だが“国際会館”のバス停ターミナルからは、全く見えないので相当距離があると思われる。足に問題があるのと、暑いのとでゆっくり歩く。10分弱ほど歩くとやがて、会館の全容が見えてくる。玄関入口まで行ったが、催しもなく、見学など出来そうもない。
建設当時、日本風のデザインと騒がれたが、これが“日本風”とは安っぽいなという感想だった。そういえばまぁ古代再現建築風の巨大建造物ではある。ちなみに、国立京都国際会館はWikipediaによれば、以下の通り。(筆者が若干編集している部分有)
国立京都国際会館:1966年(昭和41年)5月21日 、日本で最初の国立の会議施設として開設された。それに先立って開業した東海道新幹線の京都駅が在来線に併設となったのも、市や地元財界などがこの施設への利便性を強く主張したことが大きな要因の一つとなっている。
国が主催となって1963年(昭和38年)に開催された建築コンペで、195点の応募作品から選考された。
設計:大谷幸夫*
用途:会議場、展示施設、宴会場、多目的施設
竣工:1966年、1985年、1998年
延床面積:45,764m2
所在地:京都市左京区岩倉南大鷺町422番地
*大谷幸夫(おおたに さちお、1924年 - 2013年)は建築家、都市計画家。東京都赤坂区(現・港区)生まれ。東京大学工学部建築学科卒業。丹下健三の片腕として、広島平和記念資料館や旧東京都庁舎の設計を手伝う。1971年から1984年まで、東京大学都市工学科教授。1984年から東京大学都市工学科名誉教授。生前、「住宅は中庭のあるのが基本」と述べ、自身のポリシーとしていた。2001年、勲三等瑞宝章受章。
すごすごと、大通りに向かって、そこから宝が池での散策を考えて、向かうこととした。松ヶ崎寝子ヶ山の森を左手に見つつ、歩いて行くと橋のたもとに下り階段があり、携帯のマップによれば、そこから宝が池公園に入ることができるようだ。
進んで行くと、それは正解であった。池の岸に着き、その岸をめぐって行くと、国際会館が池の向こうに見えて、良い眺めではあった。
宝が池公園について、Wikipediaによれば、以下の通り。(筆者が若干編集している部分有)
宝が池は江戸時代宝暦年間に農業用のため池として作られた人工池で、もともと湧水があった深田の東側に堤を作ってせきとめたものである。1855年(安政2年)に拡張工事が行われ、現在の広さとなった。明治までは単に溜池、北浦溜池などと呼ばれ、1911年(明治44年)に発行された文書に宝池の名が初めて出ている。宝が池の名前の由来には水不足に苦しんでいた松ヶ崎にできた溜池は宝のように思われた、池の形が分銅形でお金にたとえられた、宝暦年間にできたものだから、などの諸説がある。
この池を市民の憩いの場として利用するために宝が池公園が作られた。比叡山と国立京都国際会館を借景として楽しむ遊歩道とボート遊びが出来る本体部と、山を越えて市営地下鉄松ヶ崎駅側にある運動公園、子供向けの遊戯施設がある「こどもの楽園」と、本体部とこどもの楽園を結ぶ「いこいの森」部分から成り立つ。
貸しボートの店に出るが、あいにく観光客はおらず、店の人2~3人は手持無沙汰の様子。
その後は、車が頻繁に通る道路に出る。視界が開けて、そこが意外に標高の高い場所であったことを初めて知る。とにかく下って行った。自転車と歩行者の道路を選んで降りて行った。宝が池運動公園を左に見て、ようやく人里に出た。そこから、地下鉄の通っている北山通に出て、北山駅に向かい、そこから烏丸に出て、帰神コースに入った。
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今や、盛夏の中の自粛生活、これも結構疲れる。ブログ投稿も疲れる。そこで、少なくとも次回投稿はお休みとしたい。御了解賜りたく、よろしくお願いしたい。
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負けた競技、勿論、選手達当人は負けないよう、渾身の努力を払って来たのだろうけれど・・・。結果だけ見て、後追いで録画を見るのがお勧め、ではないだろうか。このところの映画の見過ぎで、想定外でも見終わってシナリオの意図が分かれば気が晴れる。シナリオが無いから楽しいのはウソ!納得いかないシナリオは不快、そんな気分に趣味が変わったのだろうか。
マスコミの呼び声の高い選手に限って成績が良くなかった印象があり、もう国家主義的五輪は止めるべきではないだろうか。個人に国家を背負わせるのは問題ではないか。また同じ銀メダルでも、“金が取れずに悲しい”と沈んでいる姿より、“銀が取れて嬉しい”と喜んでいる姿を見ている方が心地よいし、素直に拍手を送りたくなる。見る目のないマスコミが騒ぎすぎているのも問題ではないのか。
五輪種目が多過ぎるのも、こういう気分になる原因ではなかろうか。要は、五輪にこだわることに問題がるのではなかろうか。
国家主義と利権の塊。だから、中国と米国が活躍できる仕組みになっている。ロシアやベラルーシは下手糞なだけ。
一部の噂によれば、IOCのバッハ会長は“日本人はコロナ禍でも、やると言ったことは何でもキチッとやる”だろうと、信頼して絶対にキッチリ4年毎に開催するはずの五輪の延期を許容してまでやらせてみた。ところがこの為体だった、というもの。日本人指導層の劣化は目を覆わんばかりであった。
全体として開会式からしてオリジナリティに欠け、折角の歌舞伎演技も影が薄かった。コネコネ、利権争いの五輪でマネジメントもしっかりできていない。おぞましさが多く残る五輪の印象であった。五輪後、検察は“巨悪” を残し、汚職捜査もしないのだろう。そもそも誘致した時既に怪しい動きをしていたではなか。
一方、五輪のメダル獲得と同じようにコロナ禍も “感染新記録”をマークした。想定内の出来事のハズだが、政権政府の御歴々の顔色は悪い。彼らはこの事態を予想できなかったのか。それとも一部専門家の聞く耳を持たなかったのか。或いは“♪分かっちゃいるけどヤメラレナイ”だったのか。政権トップは“”
“中等症ならば入院は当然”とは政府厚労省トップは言うが、東京では“自宅療養”或いは宿泊施設療養、さらに入院処置待ちの合計が約3万人弱という。軽症とは“肺炎になっていない”状態らしいが、コロナとなれば通常即“肺炎”になるものではないか。
しかも“自宅療養”とは聞こえが良いが、実態は“自宅遺棄”!治療薬の投与や投与の態様も寡聞して聞かず、自宅で急変すれば、そこから保健所に連絡?それから救急車が来て、それから入院先を探索。そうこうするうちに病態が悪化して死に至る。そんなところだろう。いわば、医療に容易にアクセスできなくする仕組だ。それこそ“自宅に遺棄する”政策だ。“医療”を守って、命を遺棄する政策。これが“医療崩壊”でなくて何だ?
“♪分かっちゃいるけどヤメラレナイ”だったのならば、せめてこうならないように対策は取れなかったのか?それが政府の最低限度の役割ではないか。アホアホではそこまで期待できまい!
この事態に、お気楽な日本のTV局は“○○は大丈夫だろうか?”と似たように同じセリフを吐き続けて来た。この点で、政府と踵を接している。これもアホアホの極み!!日本のマスコミは政府と異なった建設的な意見を吐く“専門家”を掘り起こし、そうした見解を社会に広める努力をしている“のだろうか?” それが真のマスコミの役割ではないのか。
どのTV局もどうも同じ顔ぶれの“専門家”ばかり集めて、聞き飽きた見解ばかり紹介している。
この悲惨な8月が終われば、ようやく“デジタル庁が9月1日に発足する。行政のデジタル化を進める司令塔となり、マイナンバー(社会保障・税番号)制度の活用や情報システムの効率化をめざす。コロナ禍で「デジタル敗戦」とも言える状況になるなか、省庁間の縦割りをなくし、暮らしを変えることができるのか。”
“コロナ禍の「デジタル敗戦」”。それは“デジタル敗戦”ではない。もっと根本的問題だ。日本の政治家・指導者の論理思考ができないことに問題がある。デジタル以前の基礎的問題だ。
日本の政治家・指導者には“調整型”のリーダーが重用された。いくつかの勢力の言い分をどう調整するかが問題だった。基本は“足して2で割る”だが、2で割るのか3で割るのか、4分6かはたまた73か、その絶妙さが受けたのだ。そこには論理は無い。一瞬で働く“勘”が重要だった。その勘を磨くのは積み重ねた“経験”によった。そして、その勘によった判断を“度胸”で断行する。これが理想の政治家であり、組織の経営者でもあった。これがKKDだったのだ。
だが、激変の時代には、経験は積めない。“経験”なき変化の世界なのだ。そこで生きるのはロジック、なので経験に基づく“勘”は全く機能する余地が無い。しっかりした論理に裏打ちされた思考結果を信じて、断行する“度胸”が必要なのだ。
そして今や“デジタル激変の時代”。この時代の勢力図は新旧の2大勢力であり、旧勢力は“永続敗戦”する歴史的運命にある。だが、その旧勢力には既存の権力がある。彼らはこの権力をとことん使って“抵抗”するのだ。
しかし、歴史的に“永続敗戦”する旧勢力との調整では、最早、この“激変の時代”を乗り切ることはできない。旧勢力が残存する社会は、旧勢力と共に“永続敗戦”する歴史的運命にあるからだ。調整の時代ではなく、All or Nothing の論理の時代なのだ。
それにもかかわらず、日本の現状はKKDの旧型の調整型政治家ばかりが日本では権力を握っているのではないか。自民党の幹部連の御顔を拝見すれば、いかにも古い我楽多揃い。どうやら首相もそのお仲間。これで新しい発想が可能な訳はない。悪いことに、そこにかならず利権が介在する。国庫の資金をいかに掠め取るかの算段ばかりに悪知恵を絞っている。
例えば週末の新聞の片隅に、次の記事があった。五輪中に大きなニュースにならないように配慮があったのだろう。“農林水産省は6日、大阪堂島商品取引所が国内で唯一扱うコメの先物取引を恒久的にできるようにする「本上場」を認めないと堂島取引所に伝えた。”これは農協の利権を守り、その値決めの矛盾を税金で補うもの。もっと自由市場に任せる意志が政府には無く、何でも税金を使って統制する東京的発想。大阪的自由発想を阻むものなのだ。
だが、国民の多くは何故かこうした利権統制を支持している。だから、日本は変わらない。逆に、有効な財政投資や融資は、このコロナ禍でも行われない。利権で掠め取られた国庫はやせ細るばかり。そして、“永続敗戦”する運命の下にある。
目下のネット上での菅政権の命運は、コロナ禍に対する常識外れの酷い政策で、さすがに尽きたかに見える。首相は広島平和記念式典の挨拶で、“広島市”を“ひろまし”と、“原爆”を“げんばつorげんぱつ”と言い間違えたうえ、途中で原稿を読み飛ばすという、上の空の失礼極まりない始末。最早極まれりの観あり。
だがそれでも、何故か若い層を含めて、自民支持が多いのだ。“永続敗戦”する運命が日本人全体でお好みのようなのだ。そして、この日本社会には閉塞感・無力感が漂っている。街中や電車内で無差別殺人や傷害事件を引起す輩が次々と登場している。
そんな閉塞感は、あの戦争直前の雰囲気に似ているのではあるまいか。極めて危険な社会心理状態なのだ。
さて今回も、またまた京都ミニ観光の紹介としたい。先々週、先月の終わりに前日の審査報告書を京都の事務局に持参した。月末に行われる審査委員会に間に合うためには、郵送やE-mail送付などより確実と思ったからだ。
そして、午前中早目に持参したのでそのまま帰るのは丸一日の折角の京都、もったいない。どこか涼しいところへ行きたい、と思いついたのが、貴船神社であった。ならば、京阪電車から出町柳で、叡山電車鞍馬線に乗り換えてアプローチするのが常道。ところがネットで調べたところ、鞍馬線は市原から先、鞍馬まで不通とのこと。“2020年7月7日から 8日にかけて降り続いた大雨の影響により、鞍馬線貴船口駅付近において土砂崩れ等が発生し ており、市原駅~鞍馬駅間で運転を休止”
そこで、地下鉄烏丸線で、“国際会館”まで行き、そこからタクシーで直接、貴船神社奥宮に行くことにした。本当は、“国際会館”からバスという方法があったのだが、1カ月ほど前から左足の中指にタコができて歩くと痛いので、少々無理をして機会を生かしてタクシーで貴船神社奥宮まで行くこととした。奥宮から順次下りながら、結社(中宮)、本宮と拝観の予定。
タクシーに乗り込み行き先を告げると、ドライバーが“行けるかなぁ”と言いだした。どうやら、夏のオン・シーズンに込み合って渋滞するというのだ。
叡山電車の不通も話題になった。山合に入ってくると、特に左手の西側斜面に一面土砂崩れの場所があったり、倒木が目立った。この急斜面の倒木を排除するのに難渋しており、一々ヘリコプターで吊り上げる訳にも行かず、復旧に時間がかかっているということだ。
実際に神社付近に近付くと、道路が車幅の1.5倍程度の道幅のところが多数あり、歩行者も交えて行き交う車でしばしば停車する必要が生じていた。現地の店舗や宿泊施設の人達がピリピリしていて、場合によっては怒号も聞かれる気配があった。その地の人々と顔見知りだという運転手も神経を使っていた。それでも自粛下で観光客が少なく、詰めかけた車も少ないので、結構あっさり奥宮まで到達してホッとした。車で来訪する観光客が多いのでトラブルとなるのなら、交通制限をかけるべきではなかろうか。現地の人やタクシーの営業車、公共サービスの車にステッカーを貼って一般観光客の車を排除する工夫があって然るべきであろう。
貴船神社はWikipediaによれば、以下の通り。(筆者が若干編集している部分有)
京都府京都市左京区の北辺、貴船山と鞍馬山に挟まれた、森林鬱蒼とする山峡にある神社。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。全国に約450社ある貴船神社の総本社である。地域名の貴船「きぶね」とは違い、水神であることから濁らず「きふね」という。祭神は高龗神(たかおかみのかみ)*
*迦具土神(かぐつちのかみ;加具土命)は伊邪那岐(イザナギ)と伊邪那美(イザナミ)との間に生まれた神である。火の神であったために、出産時に伊邪那美の陰部に火傷ができ、これがもとで伊邪那美は死んでしまう。その後、怒った伊邪那岐に十拳剣「天之尾羽張(アメノオハバリ)」で殺された。迦具土神を斬って生じた三柱の神のうちの一柱が、ここの祭神である高龗神。(雨や雪など、水をつかさどると信じられていた神。竜神。)
山峡の社前には賀茂川の上流に位置する貴船川が流れており、京の市中を潤す鴨川の源流とも考えられた。高龗神は水神で、古くから祈雨の神として信仰され、全国の料理・調理業や水を取扱う商売の人々から信仰を集めている。
古来より歴代天皇は干ばつの時には黒馬を、長雨には白馬を奉納して祈願をしていたが、後に生きた馬に替えて、馬形の板に着色した「板立馬」を奉納したと伝えられる。これが現在の絵馬の原形となり、貴船神社が「絵馬発祥の社」といわれる。
社殿は本宮・結社(中宮)・奥宮の3箇所に分かれて建っている。
創建の年代は不詳であるが、社伝では反正天皇(5世紀前半の実在天皇)の時代の創建としている。社伝によれば、神武天皇の母である玉依姫命が、黄色い船に乗って淀川・鴨川・貴船川を遡って当地に上陸し、水神を祭ったのに始まると伝えている。社名の由来は「黄船」によるものとし、奥宮境内にある「御船型石」が、玉依姫命が乗ってきた船が小石に覆われたものと伝える。「気の産まれる根源」が転じて「気生根」になったともいう。
白鳳6年(666年)に、最も古い社殿造替えの記録がある。日本後紀(続日本紀に続く六国史の第三勅撰史書)に、延暦15年(796年)、東寺の造営の任に当たっていた藤原伊勢人の夢に貴船神社の神が現れ、鞍馬寺を建立するよう託宣したと記されている。
永承元年(1046年)7月、出水により社殿が流失し、天喜3年(1055年)、現在の本宮の地に社殿を再建・遷座して、元の鎮座地は奥宮とした。
中宮(結社・ゆいのやしろ)は、本宮と奥宮の中間、本宮から上流側300メートルの場所にある。その立地から中宮(なかみや)とも呼ばれている。
磐長姫命を祭神とし、縁結びの神として信仰される。磐長姫命が縁結びの神とされることになった理由として次のような伝承がある。天孫瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が磐長姫命(イワナガヒメ)の妹の木花開耶姫(コノハナノサクヤビメ)と結婚しようとしたとき、姉妹の父の大山祇命(オオヤマツミノカミ)は、磐長姫命も共に奉った。しかし、瓊瓊杵尊は木花開耶姫とだけ結婚したので、磐長姫命はそれを恥じ、「縁結びの神として良縁を授けん」と言って当地に鎮まったという。
また結社には、和泉式部が貴船神社に参拝したときの歌の歌碑があり、後拾遺和歌集に収録されている。「男(夫の藤原保昌)に忘れられている頃、貴船神社に参拝し、御手洗川に蛍が飛んでいるのを見て詠んだ歌」として、
ものおもへば 沢の蛍も わが身より あくがれいづる 魂(たま)かとぞみる
[意訳:恋しさに悩んでいたら、沢に飛ぶ蛍も私の体から抜け出した 魂(たましい)ではないかと見える]
という歌である。それに対して貴船明神が返したと伝えられる歌
おく山に たぎりて落つる滝つ瀬(たきつせ) の 玉ちるばかり ものな思ひそ
[意訳:奥山にたぎり落ちる滝の水玉が飛び散るように、(魂(たましい)が飛び散ってしまうほど)思い悩んではいけない]
この後、夫婦仲は回復したとのこと。
さらに結社境内には、「磐長姫命の御料船」として平成8年に奉納された船形の自然石「天の磐船」が置かれている。
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人出は奥宮までにはあまり来ていなかった。鬱蒼たる森林の中のはずであったが、真夏の日差しは結構強かった。特に、車道は平地と変わらない。そのメイン・ストリートは、それほどの急斜面ではなく、足の痛みもなかった。ただ、奥宮を除いて中宮、本宮はメイン・ストリートから西側の急斜面に少し登ったところに社殿がある。しかし、それもわずかな距離なので、苦にならなかった。
さすがに本宮は昼時ということもあるのか、人出が多かった。七夕の飾り付けが未だあった。
本宮からさらに下って、鞍馬方面からのハイキングコースの小径から架橋有り、そこに蕎麦屋・伝兵衛がある。そこで昼食とした。折角なので、500円高い川床にての食事とした。川床はハイキングコースの小径から橋を一旦渡った所に、入口がある。空いている席の好きな場所で良いとのことで、川上側の3席の空いている中央に座った。さすがに、川上からの冷風が涼しい。
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帰路は、そのまま下って左側に駐車場が見えてくる。そこにタクシー・ドライバーから教えてもらった、京バスの貴船口とのシャトルバス停留場があり、貴船口まで下る。貴船口からさらに路線バスで“国際会館”のターミナルに出る。貴船からのバスはやく30分程度。
時刻は午後2時で、帰神には早すぎる。そこで、できればその国際会館を見学したくなり、道案内表示を頼りに、歩き始めた。学会セミナー等の開催地にはなっていた記憶はあるが、行く機会が無かったのだ。だが“国際会館”のバス停ターミナルからは、全く見えないので相当距離があると思われる。足に問題があるのと、暑いのとでゆっくり歩く。10分弱ほど歩くとやがて、会館の全容が見えてくる。玄関入口まで行ったが、催しもなく、見学など出来そうもない。
建設当時、日本風のデザインと騒がれたが、これが“日本風”とは安っぽいなという感想だった。そういえばまぁ古代再現建築風の巨大建造物ではある。ちなみに、国立京都国際会館はWikipediaによれば、以下の通り。(筆者が若干編集している部分有)
国立京都国際会館:1966年(昭和41年)5月21日 、日本で最初の国立の会議施設として開設された。それに先立って開業した東海道新幹線の京都駅が在来線に併設となったのも、市や地元財界などがこの施設への利便性を強く主張したことが大きな要因の一つとなっている。
国が主催となって1963年(昭和38年)に開催された建築コンペで、195点の応募作品から選考された。
設計:大谷幸夫*
用途:会議場、展示施設、宴会場、多目的施設
竣工:1966年、1985年、1998年
延床面積:45,764m2
所在地:京都市左京区岩倉南大鷺町422番地
*大谷幸夫(おおたに さちお、1924年 - 2013年)は建築家、都市計画家。東京都赤坂区(現・港区)生まれ。東京大学工学部建築学科卒業。丹下健三の片腕として、広島平和記念資料館や旧東京都庁舎の設計を手伝う。1971年から1984年まで、東京大学都市工学科教授。1984年から東京大学都市工学科名誉教授。生前、「住宅は中庭のあるのが基本」と述べ、自身のポリシーとしていた。2001年、勲三等瑞宝章受章。
すごすごと、大通りに向かって、そこから宝が池での散策を考えて、向かうこととした。松ヶ崎寝子ヶ山の森を左手に見つつ、歩いて行くと橋のたもとに下り階段があり、携帯のマップによれば、そこから宝が池公園に入ることができるようだ。
進んで行くと、それは正解であった。池の岸に着き、その岸をめぐって行くと、国際会館が池の向こうに見えて、良い眺めではあった。
宝が池公園について、Wikipediaによれば、以下の通り。(筆者が若干編集している部分有)
宝が池は江戸時代宝暦年間に農業用のため池として作られた人工池で、もともと湧水があった深田の東側に堤を作ってせきとめたものである。1855年(安政2年)に拡張工事が行われ、現在の広さとなった。明治までは単に溜池、北浦溜池などと呼ばれ、1911年(明治44年)に発行された文書に宝池の名が初めて出ている。宝が池の名前の由来には水不足に苦しんでいた松ヶ崎にできた溜池は宝のように思われた、池の形が分銅形でお金にたとえられた、宝暦年間にできたものだから、などの諸説がある。
この池を市民の憩いの場として利用するために宝が池公園が作られた。比叡山と国立京都国際会館を借景として楽しむ遊歩道とボート遊びが出来る本体部と、山を越えて市営地下鉄松ヶ崎駅側にある運動公園、子供向けの遊戯施設がある「こどもの楽園」と、本体部とこどもの楽園を結ぶ「いこいの森」部分から成り立つ。
貸しボートの店に出るが、あいにく観光客はおらず、店の人2~3人は手持無沙汰の様子。
その後は、車が頻繁に通る道路に出る。視界が開けて、そこが意外に標高の高い場所であったことを初めて知る。とにかく下って行った。自転車と歩行者の道路を選んで降りて行った。宝が池運動公園を左に見て、ようやく人里に出た。そこから、地下鉄の通っている北山通に出て、北山駅に向かい、そこから烏丸に出て、帰神コースに入った。
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今や、盛夏の中の自粛生活、これも結構疲れる。ブログ投稿も疲れる。そこで、少なくとも次回投稿はお休みとしたい。御了解賜りたく、よろしくお願いしたい。
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