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京都文博の展示観覧―知の大冒険―東洋文庫 名品の煌めき―

サウジ・イラン外交関係正常化に習主席が「橋渡し」をしたという。おまけに、中露・イラン海軍がアラビア海で海上演習もしたという。中・露・伊蘭と言えば流行りの地政学的には世界のハート・ランドの三大ランド・パワーだという。そのビッグ・ランド・パワーが海軍演習を実施するのは変な話だが、いずれも専制国家であり、それが満を持して結集するのは不気味ではないか。中国の一帯 一路構想は順調に実現している。
だが、日本にとっては客観的にはそういう表現でノンキに構えている場合ではないハズなのだ。米国が自前のエネルギー確保となって以降、アラブ離れを加速させた結果、アラブは中露に接近することになったのだ。そして、日本は依然として石油はアラブ頼みなのだ。ドースル日本!
だが、振り返ってみれば石油のアラブ頼みはヨーロッパもほぼ似たような状況なのだ。ウクライナ戦争でロシアと断絶状態になって天然ガスが入らなくなって困っているではないか。だから、NATO諸国が日本の安全保障にも関心を示すようになったのか。中国の一帯一路構想の封じ込めを狙っているのだ。さらに米でAUKUS首脳会合もあり、豪州に原子力潜水艦の供与が決まった。日韓関係の正常化も日本の国際関係に資することなのだが・・・、ここへ来て、世界の国際情勢が一気にきな臭くなっていることには、注意を要するハズだが、日本人一般は・・・?

国内では春闘で満額回答!?何が春闘か?戦わないレンゴーのアホアホ?戦わないから日本経済が停滞した。資本がやたらガメッテいたのを許容したレンゴーが日本の停滞を招いたのだ。今年は“春闘”ではなく戦わないパフォーマンスのみの“談合”ではないのか?ダンゴーはドッキンホウ違反なのダ!!
それを報道は麗々しく伝えて来る。何だか馬鹿にされているような気がする。これはアホアホの世界ではないか。

高市元総務相の「捏造」発言撤回せずの強情で唖然、ボーゼン。それでエエのか!?
その強情で今後官僚がメモすら残さなくなる!という。メモは行政文書の元。つまり行政文書が無くなることになる。或いは、それこそ事実を捻じ曲げる“捏造”の世界か?官僚が委縮し過ぎの観があるが、致し方ないことなのか? “人生かかっちゃってるからネ”
記録のない世界!それは歴史のない世界。それはアホアホの世界。

ところで蒸し返すようだが、JAXAと三菱重工業が開発した新たなロケットH3開発は頓挫した。日本は開発に金を出さない銭金問題なのだと安易に結論していいのだろうか。カネの問題だからこそ、何故ロケット打ち上げのシミュレーションしなかったのか、という私の疑問を問題にするべきだと考えるのだ。バーチャルでのシミュレーションを今世間ではデジタル・ツインと言うそうだ。要するに現実と仮想現実の双子だという。それが技術開発での常識になっていたのなら、何故日本の最先端開発には適用されなかったのか。最早、日本の最先端開発も周回遅れになっているのだ。日本の技術開発の技術に欠陥があるのだ。
三菱重工はその周回遅れの真っ只中にいるのだ。だからリージョナルジェットの開発にも失敗したのだ!大丈夫か?日本人の手になる品質工学タグチメソッドも使いきれていないのだ!!これも正にアホアホ!

冒頭で指摘したように。国際社会は生き馬の目を抜く世界。日本国内は旧態依然のアホアホの世界。これで日本は世界に伍して行けるのか。戦前のある内閣が“国際情勢複雑怪奇”と言って総辞職したというが、その轍を踏まぬか極めて心配なアホアホ状況だ。何せ、日本の御大臣様、御歴々がアホアホに見えるからなのだ。ザンネン!





さて、先週は例によって午後からの京都での研修会があり、その午前を久しぶりに京都文化博物館で展示を見て過ごそうと決めて、実行したので紹介したい。たまたま特別展“知の大冒険―東洋文庫 名品の煌めき―”を開催していた。それを京都文博のウェッブサイトは次のように紹介している。

東洋文庫(東京都文京区)は、1924年に三菱の第三代社長・岩崎久彌によって設立された、東洋学分野でのアジア最大級の研究図書館であり、世界五大東洋学研究図書館の一つです。本展では、東洋文庫が有する約100万冊の蔵書の中から、国宝、重要文化財をはじめとする貴重な所蔵品約120件を展示します。教科書で見たことがある有名な書物や地図、絵画のほか、あまり知られていない文字や言語、服装、動植物など、まだ見ぬ新たな「知」との出会いが待つ東洋世界への冒険をぜひご堪能ください。

Wikipediaでは、東洋文庫を次のように紹介している。
公益財団法人東洋文庫は、東京都文京区に所在する東洋学の専門図書館、研究所である。
東洋文庫の基礎は、1917年に三菱財閥の第3代総帥岩崎久弥が、当時中華民国の総統府顧問を務めていたジョージ・アーネスト・モリソンの所蔵する、中国に関する欧文文献の膨大なコレクション(モリソン文庫)を購入したことに始まる。岩崎久弥はモリソン文庫に加えて和書・漢籍をはじめとする東洋諸言語文献を収集し、日本を含めた東洋全域を網羅するコレクションを構築したうえで、1924年に東京本駒込の地に民間の図書館兼研究所である財団法人東洋文庫を設立した。初代理事長には、同年まで大蔵大臣だった井上準之助が就任している。

ところで、展示の冒頭紹介文に、“東洋とは東の海域を示す言葉であったが地域を示す言葉に変化した”という意味の説明があり、一瞬、何だか足下を救われた気分になった。成程、海を示す言葉がどうして地域(陸域)を示す言葉に変化したのか気になってので、これまたWikipediaで調べてみると、次のような記述があり、言葉の歴史的な変遷があり、言葉遣い自体が地域的、限定的な要素があり中々奥が深いことが判った。

東洋(the East, Orient)とは、西洋(the West)の対概念であり、指し示す範囲はその文脈や使われる国や地域によって異なる。歴史的にはユーラシア大陸の西端と東端に数千年にわたる二つの文化圏が存在し、現代日本語ではこの文化圏を西洋と東洋という概念で表現する。一方、中国では歴史学の東西比較研究がテーマとなる場合、西洋と東洋という表現の代わりに西方と東方と表現する。

17世紀の中国には東洋列国、西洋列国という表現が存在した。しかし、単に東洋と西洋という場合は海域を東西に分けた呼称にすぎない。
坪井九馬三や高桑駒吉の研究によると、東洋や西洋の表現はもともと中国人の考えた四海の一つである南海の航路およびその航路上に存在する諸国を、泉州あるいは広州を通過する南北子午線によって分けたものである。
14世紀半ばの中国の文献にはブルネイ以東を東洋、インドシナ半島からインドへかけてを西洋と記述していた。張燮は1616年の『東西洋考』で「文莱即婆羅國、東洋盡處、西洋所自起也」と記し、婆羅國つまりブルネイ(文莱)で東洋は終わり、そこから西洋が始まるとする。
1602年のイタリア人のイエズス会士マテオ・リッチの世界地図『坤輿万国全図』は世界の地理名称をすべて漢語に翻訳したものであるが、この地図では日本の東北沖とカムチャッカ半島の南沖に「小東洋」という記述があり、カリフォルニア沖に「大東洋」という記述がある。
現代中国では東洋は東アジアを意味する場合もあるが主に日本を指す。

欧米では東西の世界にそれぞれオリエント(Orient)とオクシデント(Occident)の表現を用いることがある。オリエントとオクシデントはヨーロッパで、東洋と西洋は日本で形成され、本来は全く関係ない独立した思考概念であるが、東洋はオリエントに相当する語として捉えられている。
ただし、ヨーロッパでは、イースト、オリエント、アジアといった概念が「ヨーロッパ以外のもの」に対する概念として形成されたため、その内容は本来的に千差万別で国や何に焦点を当てた議論かによって一律ではない。また文化的側面においては、東西を分ける標語としてasiaとwestが使われる事が多い。
なお、オリエンタリズムは、ヨーロッパが東洋への探究心としての意味もあるが、構造主義を観点に説明すると、当時帝国主義のもと植民地政策をしていたヨーロッパを中心に侮蔑的・差別的な表現としての「東洋」の意味がある。

従って、“東洋文庫の英語名称はThe Oriental Libraryであるが、Toyo Bunkoとしても知られている。” となるようだ。

実際には、絵画鑑賞という訳ではなくて文献の展示が殆どで、それらを逐一読み漁ることは言語理解の障害があるため短時間の鑑賞・観覧では不可能。音声ガイドを通して理解するのが手っ取り早い。ここで紹介するには写真撮影禁止なので、やり辛い。帰宅後、ネット検索してみると展示品をそのまま撮影した写真を掲載するウェッブサイトがあったので、展示実物はこれを参照して頂きたい。

こうした博物館の展示品の撮影を禁じるのは何故なのだろう、といつも不思議に思う。最近、美術館でも嵯峨嵐山文華館のように撮影可の所があるにもかかわらず、折角赴いても撮影不可となると展示紹介の迫力が大きく削がれることになり非常に残念に思うのだ。最近はこうしたブログのようにウェッブを利用した様々な発信もできる時代なのだ。見たものの記憶も削がれて残念なのだ。著作権云々の議論もあろうが、素人の撮影したものが商売になろうはずもない。
実際のところは行ったことが無いのだが、国際的にもルーブルやニューヨークの美術館などは所有物の写真撮影は可能(フラッシュ撮影不可)だという。そういった国際動向も踏まえて対応しなければ、日本の美術館、博物館の展示のあり方も立ち遅れる可能性が高いのではないのか。最近の日本はありとあらゆる分野で国際水準から立ち遅れていて、如何にも後進国に成り果てているのではあるまいか。

冒頭にアジアの地図の展示があった。17世紀ごろの欧州人の東洋への関心が地図に現れていると思われ、日本地図が結構詳細を究めていることが判る。例えば、九州、四国、本州、いびつな表現だが北海道もあり、中には日本海側の能登半島まで意識した記載になっている。幕末戊辰戦争で奥羽越列藩同盟を支援したドイツなど欧州諸国は新潟港を拠点としたと聞いたが、欧州には日本海側への関心も十分にあったことが良く分かる。
それに対し、朝鮮半島が異様に細く描かれていて、残念ながら中国大陸からぶら下がっているかのような描き方でマレー半島より細く見えていて関心が薄かったようだ。だが、一方では15世紀に李氏朝鮮第4代国王の世宗(セジョン)大王がハングルを公布したのを漢語で解説した書籍の展示もあった。
ハンムラビ法典を楔文字で紹介した書籍やマルコ・ポーロの『東方見聞録』もあった。これは“マルコ・ポーロ口述、ルスティケッロ筆記”とは知らなかった。中にはマリーアントワネットが所蔵した東洋の説話を紹介した小さな本の展示もあった。皮革装丁本で四隅にブルボン王家の紋章が配置され、天、地、小口には金箔が貼られている。
“第3章 世界の中の日本”のコーナーでは『論語集解(ろんごしっかい)』や『文選集注(もんぜんしっちゅう)』もあり、これらを基にした科挙の答案まで展示されていた。

一応見終わって、ところでここで何が“知の冒険”なのだろうか、とフト思ってしまったが、気が付くと早くも11時も15分過ぎまだ展示の4階ワンフロアのみの観覧完了。予定では11時半には3階の企画展“原派、ここに在り―京の典雅―”も見終わっていなければならないはずだったので少々慌てた。

その原派の始祖・原在中は“円山応挙の影響を受け、写生を基調に土佐派が描く大和絵の技法と装飾を加えて独自の画風をたて、原派を起こした。とあり、これまで知らなかった江戸期の画技の流派の一つということのようだ。特に、この展示で強調されていたのは“有職故実に忠実であったので、朝廷や公家、皇族と関わる寺院で歓迎され尊重されたようだ。
原派の絵は実際に見た限り画風は確かに素直さのある写性で見た目に忠実な表現だと感じた。若冲のように異様に写実を究める訳でもない印象だ。だから高貴な人々の人気を博したのかも知れない。
しかし残念ながら観覧する人影は、“東洋文庫展示”に比べてまばら。気付けばほとんど見当たらない。

急ぎ3階を見終わり、常設展の2階に降りても案内は出口を遮る。仕方なく2階の総合展示“京の至宝と文化”へ足を踏み入れる。だが駆け足。特集企画展“続・戦後京都の「色」はアメリカにあった!”も開催されていたが、残念ながらここにはさらに人影は無い。何とか見終わって、外に出て何故だかホッとする。


昼食のためには蕎麦を食べようと食べログで調べておいたのだが、目指す店は御池通の北側だった。だが、急いで行ってみるとあいにく“当分お休み”の看板があり、ガックリ!慌てて、尾張屋本店の方を覗くと、既に大行列。
しかたなく次の候補を探すべく文博に一旦戻った。そこから辻一本東、南に下ったところの大鶴を思い出し、向かった。何とか見つけて芋かけ蕎麦を注文。かけられた芋の下には出汁がたっぷり、この時期に玉子が付いていて有難かった。蕎麦を食べ終わって、蕎麦湯を全部注ぎ込んで、十分に堪能できた。ゴッツォーサン!

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