The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
暴君討伐論―近代民主社会における市民の権利としての抵抗権を思う
安保法案が国会を通過し、成立した。集団的自衛権行使はが国を売る要因となる。決して日本の抑止力を高めるものではない。逆に米国からは軍事的自立を促され、仮想敵国との軍拡競争に巻き込まれることにしかならない。人口減少社会の日本に在って経済的に疲弊し始めているので、それは国益にならない。景気刺激に手詰まり感のある中国はこういう事態を奇貨として、どんどん軍事支出を増やすだろう。これに対し日本の経済力で歯止めのない軍拡競争に耐えられるだろうか。これはいつか来た道そのものではないか。米国はその経済力低下から、同盟国に応分の負担を負わせるのが国益だとして、粛々と外交政策を推進している。しかし実は米国は回復しつつあるのが現実だ。にもかかわらず米国よりはるかに財政赤字の大きい日本が“国際貢献”を目指して、さらに軍事費負担を高めるのが日本の国益に叶うことだろうか。米国にも中国にも日本は利用されていることが、どうして理解できないのだろうか。反知性主義、つまり間抜けな国家戦略でしかない。
そして今回のアベ政治手法で日本の立憲主義、民主主義は大きく損なわれた。日本における法治の思想や、国の形が大きく変更されたように見える。アベ政権には欧米と一緒になって中国に“法治”を説く資格はない。間抜けなアベ政治で日本はさらに転落するだろう。
深夜の参議院本会議中継を見た。鴻池氏や中谷氏が反対意見演説には反応し顔を紅潮させていた。やはり良心が咎め後ろめたいのに違いない。彼らは一体何に怯えて政権側に与したのだろう。陣笠議員はそんなに自民党推薦が欲しいのか。次に立候補するときはキッパリ“安保法制に賛成した実績がある”と堂々と言え。でなければアンタはいつまで経っても大臣にもなれず、陣笠議員・足軽のままだろう。自己確立ができない議員は政治家をやるべきではない。自ら信ずるところに依って立て、然らずんば私益を目的とした政治家を辞めよ。
政権側の形式的でかみ合わせようとしない論議による時間の空費、陣笠を集めて数さえそろえば何をやっても構わないと言う姿勢、これこそ国の形を悪くする行為そのものだ。数で全てが決まるのならば、国会は不要だ。国民投票で どの党を選ぶかが示されれば、それでこと足りる。議論は不要なのだ。これが、戦後レジームからの脱却という目指すべき姿なのだろう。
しかし熟議無き議会制は民主主義の破壊だ。ヒットラーはそうして政権を握った。戦前の日本もそうやって翼賛政治へ転換し、いずれも国を滅ぼした。
何せ、政権側の安倍氏や中谷氏の論理は、滅茶苦茶、一貫性が無く支離滅裂。ここにintegrityは一切認められない。つまり誠実性はなく独善的で、信頼できない。こんな政権に信任を託して良い訳はない。
顧みれば、この政権は沖縄にも全く同じことを為していることに気付くべきだ。当然のことだが、本土の安保法制反対派は沖縄の人々にも強い連帯の意志表示を示すべきだ。
そんな時、ふと“暴君討伐論”という言葉が耳に入った。今となっては、どこから聞こえたのかはっきりしない。これを称して“神のお告げ”などという非科学的世界にのめり込む気は毛頭ない。
しかし、今更ながらこの言葉は新鮮に思えた。確かに、今の政権は無理筋を権力を乱用して押し込んで来ている。反対するデモ隊には警察力をフル活用して押し込んで来る。法治・立憲主義、民主主義のルールや手続きを無視し、踏み外して迫る権力に対して、力ない反対者には一体どんな手段が残されているのか。
それに対する答えが、正しく“暴君討伐論”なのだ。取り返しようのない不利益を被らないための、市民のために“与えられた権利”なのだ。いささか暴力的なとんがった議論に聞こえる。しかし“環境論”の分野で叫ばれる“予防原則”も“環境に重大かつ不可逆的な影響を及ぼす仮説上の恐れがある場合、科学的に因果 関係が十分証明されない状況でも、規制措置を可能にする制度や考え方のこと”とあり、非常にとんがっている。そして、この“暴君討伐論”とも、考え方はほとんど違わない。そう考えると、“暴君討伐論”も一概に乱暴な議論ではないように思える。
確かに“暴君討伐論”は近代市民革命の暴力的側面を積極的に肯定する論理だ。それがマルクシズムの政治革命につながっている。毛沢東の“政権は銃口から生まれる”とはこういった議論の究極の言葉だ。
考えてみれば、政治的であることはその原初的段階では暴力的であると同義なのだ。昔、権力者は暴力で人々を統制した。そのため、歴史は様々な戦争で彩られている。歴史は戦争の足跡を追えばほぼ把握可能だ。だから、政治を考える時、暴力の要素を抜いて考えることは止めた方がよい。今回もそうだったが、時として国会で乱闘が見られるのは、政治を一皮むけばそこに暴力があるからと理解するべきだ。しかしむき出しの暴力性は、その国の政治的成熟性の程度を示すものだ。だから欧米の議会ではそのような場面は見られないようだ。
権力から正当な権利を守るための緊急避難的手段に、どこまで暴力性が許容されるのか。権力側は反対する者には警察力という暴力で迫って来る場合もある。暴力に対しての緊急避難は、暴力しかありえない。犬養毅は目前の暴力に対し、“話せば分かる!”と叫んだが“問答無用!”と撃たれて暗殺された。
そう考えると、権力から身を守る暴力はどこまで許容されるのか、そういう限界的な議論は一般論としてどのように為されているのか、知りたくなった。近代民主社会における市民の権利としての抵抗権をどう考えればよいのかと思い、アマゾンで検索してみたが、まともな学問的議論をしている本は全く見当たらなかった。これで日本の哲学、法学、政治学はそういう事態を想定しての論究を殆ど為していないことが分かった。その事実に、私は大いに落胆した。日本の社会科学研究の底の浅さを感じるのだ。分野は少し異なるが、ノーベル賞の経済学賞の受賞者が未だ出ていないのは、こういう状況が背景に在るのではないかと感じる次第だ。たとえ、経済学者でも市民権や市民法に対する深い造詣はあるはずだし、持っていなければならない。またその逆もあってはならない。何故ならば、近代市民法の正義の普遍性は商業活動の秩序性に求められるというように法学と経済学には深い所で連関があるとされるからだ。
国会前でのデモに関し、権力者側に立つ人々は それを悪しざまに言う。そして、どうやらそういう議論に共感を覚える人々も多いようだ。これは、近代市民法に関する日本の一般レベルの理解の浅さを示すものと思われる。
驚くべきことは、法曹関係者として弁護士資格のある大阪の橋下市長がデモを批判的に言ったことだ。彼には近代市民法とその世界に関する知識は皆無ではないか、と思われる。彼はそういう普通の法思想・哲学は一切持ち合わせておらず、市井のせいぜいで少し知識のあるオッサン程度の正義論や価値観しか持ち合わせていないと知れるのだ。論が立つので一見知識があるように見えるだけなのだ。世界の歴史や民主主義に対する深い知識がないので、都市自治体である大阪市を解体して大阪府を強化するという中央集権的発想しか持ち合わせないのだ。“(刃向う者は)分割して統治せよ”は独裁的統治の初歩の要諦。分割して自立を促し、自立できない弱者は切り捨てる。これが“合理的だ”とする都構想の本質だ。それを大阪市民は皮膚感覚で嗅ぎ取って、拒否したのだ。
このように持ち合わせている思想、発想に深い洞察を伴う軸がないので自身に確信を持てず、橋下氏の発言にはしばしばブレが生じる。彼の本音は“権力を思うがままに振るってみたい”にあるのみで、“独裁”を夢見ているのだ。そこはかとなく、ヒットラーへの憧れが臭う危険人物なのだ。
このように日本社会の近代市民社会とそれに伴う民主主義の本質に対する知識が浅いのには、深い失望を抱くのだ。これでは、欧米人とは まともで深い議論は成立しないのではないかと危惧するのだ。どうも日本の社会科学者にはいい加減な部分があるように感じる。
日本の社会科学者は自説に対する責任感や自説を堅持する覚悟も乏しいのではないかと思われる。今回憲法学者は頑張ったように思うが、戦前の多くの学者は政権に寄り添った。今でも、かつて大学で教鞭をとった学者が与党の国会議員となっていて、今回の安保法制案に賛意を示したが、これにかつての弟子たちが“教えてもらったことと違う”として手紙を出して説明を求めたという報道があった。
自説堅持に対する責任感や覚悟もないのは、倫理観の欠如した学者であると言える。いわば根本的な哲学がないのだ。このままでは、日本の社会科学は何時まで経っても世界水準に達しないだろう。
とにかく、こうした日本の寂しい状況の中で、工学系出身の私もこの方面には“高校の世界史+α”程度の知識しかない。なのでホッブス、ロック、ルソー、アダム・スミス、カント、JSミル・・・・社会科学の基礎を改めてお勉強し直してみたいと思う。そうすることで、市民の権力に対する“抵抗権”や環境論の“予防原則”について何が正しいのか、今後 考えてみたいと思っている。もはや、どこまでやれるのか自信は全くないが・・・時にはその成果を少しずつでもこの場で出して行きたい。
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そして今回のアベ政治手法で日本の立憲主義、民主主義は大きく損なわれた。日本における法治の思想や、国の形が大きく変更されたように見える。アベ政権には欧米と一緒になって中国に“法治”を説く資格はない。間抜けなアベ政治で日本はさらに転落するだろう。
深夜の参議院本会議中継を見た。鴻池氏や中谷氏が反対意見演説には反応し顔を紅潮させていた。やはり良心が咎め後ろめたいのに違いない。彼らは一体何に怯えて政権側に与したのだろう。陣笠議員はそんなに自民党推薦が欲しいのか。次に立候補するときはキッパリ“安保法制に賛成した実績がある”と堂々と言え。でなければアンタはいつまで経っても大臣にもなれず、陣笠議員・足軽のままだろう。自己確立ができない議員は政治家をやるべきではない。自ら信ずるところに依って立て、然らずんば私益を目的とした政治家を辞めよ。
政権側の形式的でかみ合わせようとしない論議による時間の空費、陣笠を集めて数さえそろえば何をやっても構わないと言う姿勢、これこそ国の形を悪くする行為そのものだ。数で全てが決まるのならば、国会は不要だ。国民投票で どの党を選ぶかが示されれば、それでこと足りる。議論は不要なのだ。これが、戦後レジームからの脱却という目指すべき姿なのだろう。
しかし熟議無き議会制は民主主義の破壊だ。ヒットラーはそうして政権を握った。戦前の日本もそうやって翼賛政治へ転換し、いずれも国を滅ぼした。
何せ、政権側の安倍氏や中谷氏の論理は、滅茶苦茶、一貫性が無く支離滅裂。ここにintegrityは一切認められない。つまり誠実性はなく独善的で、信頼できない。こんな政権に信任を託して良い訳はない。
顧みれば、この政権は沖縄にも全く同じことを為していることに気付くべきだ。当然のことだが、本土の安保法制反対派は沖縄の人々にも強い連帯の意志表示を示すべきだ。
そんな時、ふと“暴君討伐論”という言葉が耳に入った。今となっては、どこから聞こえたのかはっきりしない。これを称して“神のお告げ”などという非科学的世界にのめり込む気は毛頭ない。
しかし、今更ながらこの言葉は新鮮に思えた。確かに、今の政権は無理筋を権力を乱用して押し込んで来ている。反対するデモ隊には警察力をフル活用して押し込んで来る。法治・立憲主義、民主主義のルールや手続きを無視し、踏み外して迫る権力に対して、力ない反対者には一体どんな手段が残されているのか。
それに対する答えが、正しく“暴君討伐論”なのだ。取り返しようのない不利益を被らないための、市民のために“与えられた権利”なのだ。いささか暴力的なとんがった議論に聞こえる。しかし“環境論”の分野で叫ばれる“予防原則”も“環境に重大かつ不可逆的な影響を及ぼす仮説上の恐れがある場合、科学的に因果 関係が十分証明されない状況でも、規制措置を可能にする制度や考え方のこと”とあり、非常にとんがっている。そして、この“暴君討伐論”とも、考え方はほとんど違わない。そう考えると、“暴君討伐論”も一概に乱暴な議論ではないように思える。
確かに“暴君討伐論”は近代市民革命の暴力的側面を積極的に肯定する論理だ。それがマルクシズムの政治革命につながっている。毛沢東の“政権は銃口から生まれる”とはこういった議論の究極の言葉だ。
考えてみれば、政治的であることはその原初的段階では暴力的であると同義なのだ。昔、権力者は暴力で人々を統制した。そのため、歴史は様々な戦争で彩られている。歴史は戦争の足跡を追えばほぼ把握可能だ。だから、政治を考える時、暴力の要素を抜いて考えることは止めた方がよい。今回もそうだったが、時として国会で乱闘が見られるのは、政治を一皮むけばそこに暴力があるからと理解するべきだ。しかしむき出しの暴力性は、その国の政治的成熟性の程度を示すものだ。だから欧米の議会ではそのような場面は見られないようだ。
権力から正当な権利を守るための緊急避難的手段に、どこまで暴力性が許容されるのか。権力側は反対する者には警察力という暴力で迫って来る場合もある。暴力に対しての緊急避難は、暴力しかありえない。犬養毅は目前の暴力に対し、“話せば分かる!”と叫んだが“問答無用!”と撃たれて暗殺された。
そう考えると、権力から身を守る暴力はどこまで許容されるのか、そういう限界的な議論は一般論としてどのように為されているのか、知りたくなった。近代民主社会における市民の権利としての抵抗権をどう考えればよいのかと思い、アマゾンで検索してみたが、まともな学問的議論をしている本は全く見当たらなかった。これで日本の哲学、法学、政治学はそういう事態を想定しての論究を殆ど為していないことが分かった。その事実に、私は大いに落胆した。日本の社会科学研究の底の浅さを感じるのだ。分野は少し異なるが、ノーベル賞の経済学賞の受賞者が未だ出ていないのは、こういう状況が背景に在るのではないかと感じる次第だ。たとえ、経済学者でも市民権や市民法に対する深い造詣はあるはずだし、持っていなければならない。またその逆もあってはならない。何故ならば、近代市民法の正義の普遍性は商業活動の秩序性に求められるというように法学と経済学には深い所で連関があるとされるからだ。
国会前でのデモに関し、権力者側に立つ人々は それを悪しざまに言う。そして、どうやらそういう議論に共感を覚える人々も多いようだ。これは、近代市民法に関する日本の一般レベルの理解の浅さを示すものと思われる。
驚くべきことは、法曹関係者として弁護士資格のある大阪の橋下市長がデモを批判的に言ったことだ。彼には近代市民法とその世界に関する知識は皆無ではないか、と思われる。彼はそういう普通の法思想・哲学は一切持ち合わせておらず、市井のせいぜいで少し知識のあるオッサン程度の正義論や価値観しか持ち合わせていないと知れるのだ。論が立つので一見知識があるように見えるだけなのだ。世界の歴史や民主主義に対する深い知識がないので、都市自治体である大阪市を解体して大阪府を強化するという中央集権的発想しか持ち合わせないのだ。“(刃向う者は)分割して統治せよ”は独裁的統治の初歩の要諦。分割して自立を促し、自立できない弱者は切り捨てる。これが“合理的だ”とする都構想の本質だ。それを大阪市民は皮膚感覚で嗅ぎ取って、拒否したのだ。
このように持ち合わせている思想、発想に深い洞察を伴う軸がないので自身に確信を持てず、橋下氏の発言にはしばしばブレが生じる。彼の本音は“権力を思うがままに振るってみたい”にあるのみで、“独裁”を夢見ているのだ。そこはかとなく、ヒットラーへの憧れが臭う危険人物なのだ。
このように日本社会の近代市民社会とそれに伴う民主主義の本質に対する知識が浅いのには、深い失望を抱くのだ。これでは、欧米人とは まともで深い議論は成立しないのではないかと危惧するのだ。どうも日本の社会科学者にはいい加減な部分があるように感じる。
日本の社会科学者は自説に対する責任感や自説を堅持する覚悟も乏しいのではないかと思われる。今回憲法学者は頑張ったように思うが、戦前の多くの学者は政権に寄り添った。今でも、かつて大学で教鞭をとった学者が与党の国会議員となっていて、今回の安保法制案に賛意を示したが、これにかつての弟子たちが“教えてもらったことと違う”として手紙を出して説明を求めたという報道があった。
自説堅持に対する責任感や覚悟もないのは、倫理観の欠如した学者であると言える。いわば根本的な哲学がないのだ。このままでは、日本の社会科学は何時まで経っても世界水準に達しないだろう。
とにかく、こうした日本の寂しい状況の中で、工学系出身の私もこの方面には“高校の世界史+α”程度の知識しかない。なのでホッブス、ロック、ルソー、アダム・スミス、カント、JSミル・・・・社会科学の基礎を改めてお勉強し直してみたいと思う。そうすることで、市民の権力に対する“抵抗権”や環境論の“予防原則”について何が正しいのか、今後 考えてみたいと思っている。もはや、どこまでやれるのか自信は全くないが・・・時にはその成果を少しずつでもこの場で出して行きたい。
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