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橋下大阪市長はどんな独裁者か?
橋下大阪市長はどんな独裁者か?
先々週、“朝まで生テレビ”に橋下市長が出演して あらためて政治的に目指す方向について反橋下派6名、中立1名とでディベートしていた。あの田原総一朗氏の司会なので、討議妨害に近い行為つまり 自ら発言者に割って入って議論を転換させてしまう、或いは結論が出ない内に次のテーマへ進んでしまうということでフラストレーションを覚えるのだが、生に橋下氏を知る上にはこの上ない機会だった。
それにしても、大多数が自らへの対立者である番組にたった一人で登場するという橋下スタイルには感嘆してしまう。この番組を見て、彼は 政治の本質は暴力であり、敵対相手に打ち勝つためには 時として謀略もありうることをよく理解していると 十分に理解できた。究極の局面で暴力的政略や謀略を使えない政治家は 結局のところ大成しない、とは歴史の示すところだ。古くは 大化の改新、源平の争乱、鎌倉末期、戦国時代、幕末・明治維新 等々枚挙にいとまがない。
そして、彼に対立する6名の発言者は それぞれ政治家、学者、ジャーナリストだったが、その対立の度合いには濃淡があるようだった。その内3名は是々非々で中立に近い立場のようにも見えたのだが、ここで その対立の度合いが大きいほど、その人物が小さく見えてしまうのが不思議な印象だった。
どうして、そう見えるのか。橋下氏には 大阪都構想というグランド・デザインがあって、そのグランド・デザインに従って発言している。ところが、対立者は そういう政治的グランド・デザインを持っていない。従って、反橋下派は、橋下氏の主張の重箱の隅をつつくしかないように見えるためではないか。それを端的に示していたのが、“橋下大阪都構想が実現すると何が問題なのか”との問いに 最後まで対立者の誰も答えなかったことである。酷いのは “そんなこと考える立場にない!”と言ってはばからない学者が居たことだ。その学者は橋下氏の政策への疑問を 直に議論して明らかにするという立場でもなさそうで、根拠を明確にせず反対するだけの立場で、この番組に登場するにしては立場が不明であった。それは守旧派、既得権益派の代弁者としての立場なのだろうか。そうであれば、なるほど表立ってグランド・デザインを明らかにすることは政治的に不利になるので、できないはずなので、それは十分に理解できる。だから、既得権益者の党利党略の議論なので、反橋下の人々が小粒に見えたのだ。
橋下氏のグランド・デザインである大阪都構想は、基礎自治体をもっと住民に近づけて、現状より民意に沿ったきめ細かい政治ができるようにするべきだ、というのが基本構想と理解できる。これは、民主主義の本来の姿を取り戻そうとする姿勢であり好ましい考え方である。彼の主張によると、大阪市は巨大過ぎて基礎自治体としての機能を果たしえていない。大阪市の人口規模にしても県規模であり、県であればその下には市町村の本来の基礎自治体があり、それによってきめ細かい政策が実施できるようになっている。大阪市の場合は それが区であるはずだが、その肝心の区が基礎自治体と言うにはお寒い状態である。だから、その区を東京の23区のように、本来の基礎自治体の機能を持たせて充実させるべきだ、と言うものと理解した。
そうした、きめ細かい政治を可能としようとすると、そうした大阪市のように肥大化した自治体の中で、変な既得権受益者が発生していて、それが予算無駄遣いの根源になっていて、政治そのものを歪めているというのが、橋下氏の主張である。そして、そういった政治的視点で大阪府を改革して行き、彼の実績となったのである。だから、基礎自治体を大切にするべきである、と言うのが彼の主張なのだ。正に“都市自治は民主主義の学校”であるという民主主義本来の立場に立っていると、一応言える。
さて、グランド・デザイン対立と言えば、省みて見れば、最近の国会の論戦も 結局のところそうした与党のテーゼとなるグランド・デザインと野党のアンチ・テーゼのガチンコ論戦とはなっていない。今や全ての論戦が、党利党略の重箱の隅をつつくものでしかなくなっている。余計なことだが、特に小沢氏の場合は私利私欲だ。だから全く面白くない。全てが 小粒の議論であり、歴史的見ても、政治的にも全く不毛の論戦に終始してしまっている。
ちょっと以前は、背景に資本主義(自由主義)と社会主義のイデオロギー対立があったから多少は グランド・デザイン対立が 時折形式論的もせよ見られたものだが、90年代の社会主義陣営の崩壊とともに それがなくなり、与党と野党の立場が相互溶融してしまい、揚げ足取りの議論でしかないようになってしまっている。
先週、防衛大臣が如何に不適任であるかを示すために、野党が防衛政策の用語を駆使して質問を繰り返していたようだ。しかし、そのような用語を知っているかどうかが、国務大臣の適切性を示すものではない。大所高所から日本の外交戦略、防衛政策の適否が語れるかどうかが問題であって、そういう見地からの質問をなすべきである。専門用語を振り回して質問することに終始することは、返って質問者の小ささを示していることを知るべきではないだろうか。
せめて朝生では、そういうグランド・デザインの対立を見たかったのだが、結局は期待外れとなってしまった。さらに番組では、都市自治から 国家政略へ話題を転換させ、彼の政策の背景にある政治的価値観が どこにあるのか議論しようとしたが、当人は全く乗って来なかった。基礎自治体を今より充実した政治体制が出来上がれば、それで自分の役割は終わりだと言いきって、ごまかしていた。果たして、彼の政治的価値観は どこにあるのか、教育基本条例案に関する話を聞くと、かなり右傾化しているように見える。この番組でも、話題になったが多様性を認めることは、社会の強靭さを持つためには重要だからである。
だが、現状のままでは、政治の本質を 十二分に理解している橋下氏の政治的な破竹の進撃は当分続くように見える。恐らく、彼自身の思惑が本当に そうであったとしても、周囲または その背景の勢力がそれを許さない状態が次第に出来上がって行くであろう。
昔、ドイツに登場したヒットラーも斯くあったのだろうか。彼は 国家社会主義を標榜した。この“社会主義”に心を許したインテリ・ゲンチャーも多かったというのも 彼の増長を許した遠因であると聞いている。
果たして、彼はヒットラーの再来なのだろうか。誰が 彼の本質を明らかにすることができるのだろうか。彼に対立し得る力量のある政治家や学者が現代日本に居るのだろうか。我々は当分是々非々で彼に寄り添うべきなのだろうか。そうでもしなければ、この日本の閉塞状況は打開できないのかも知れない。各自が それぞれ政治的自覚と心眼を持たなければならない。彼に全てを委ねてはならない。正しく、橋下氏自身がそう言っている。
また、橋下氏の背景に堺屋太一氏が居ることによっても その方向性が大いに気になる。今のところ 彼らの主張は 非常に純粋に見える。その“純粋さ”は 一体どこから来ているのか。
それを知るには 彼らの活動資金源は どこから来ているかを知ることが重要である。少なくとも知事選に出るためだけでも、1億円は必要と言われている。しかも、あの維新の会は政党の要件を満たしていないから政党助成金も出ないはずだ。にもかかわらず、どうしてあんなに派手で激しい選挙活動ができるのだろうか。その資金源を知ることなしに、全面的に彼らを信じることはできない。
先々週、“朝まで生テレビ”に橋下市長が出演して あらためて政治的に目指す方向について反橋下派6名、中立1名とでディベートしていた。あの田原総一朗氏の司会なので、討議妨害に近い行為つまり 自ら発言者に割って入って議論を転換させてしまう、或いは結論が出ない内に次のテーマへ進んでしまうということでフラストレーションを覚えるのだが、生に橋下氏を知る上にはこの上ない機会だった。
それにしても、大多数が自らへの対立者である番組にたった一人で登場するという橋下スタイルには感嘆してしまう。この番組を見て、彼は 政治の本質は暴力であり、敵対相手に打ち勝つためには 時として謀略もありうることをよく理解していると 十分に理解できた。究極の局面で暴力的政略や謀略を使えない政治家は 結局のところ大成しない、とは歴史の示すところだ。古くは 大化の改新、源平の争乱、鎌倉末期、戦国時代、幕末・明治維新 等々枚挙にいとまがない。
そして、彼に対立する6名の発言者は それぞれ政治家、学者、ジャーナリストだったが、その対立の度合いには濃淡があるようだった。その内3名は是々非々で中立に近い立場のようにも見えたのだが、ここで その対立の度合いが大きいほど、その人物が小さく見えてしまうのが不思議な印象だった。
どうして、そう見えるのか。橋下氏には 大阪都構想というグランド・デザインがあって、そのグランド・デザインに従って発言している。ところが、対立者は そういう政治的グランド・デザインを持っていない。従って、反橋下派は、橋下氏の主張の重箱の隅をつつくしかないように見えるためではないか。それを端的に示していたのが、“橋下大阪都構想が実現すると何が問題なのか”との問いに 最後まで対立者の誰も答えなかったことである。酷いのは “そんなこと考える立場にない!”と言ってはばからない学者が居たことだ。その学者は橋下氏の政策への疑問を 直に議論して明らかにするという立場でもなさそうで、根拠を明確にせず反対するだけの立場で、この番組に登場するにしては立場が不明であった。それは守旧派、既得権益派の代弁者としての立場なのだろうか。そうであれば、なるほど表立ってグランド・デザインを明らかにすることは政治的に不利になるので、できないはずなので、それは十分に理解できる。だから、既得権益者の党利党略の議論なので、反橋下の人々が小粒に見えたのだ。
橋下氏のグランド・デザインである大阪都構想は、基礎自治体をもっと住民に近づけて、現状より民意に沿ったきめ細かい政治ができるようにするべきだ、というのが基本構想と理解できる。これは、民主主義の本来の姿を取り戻そうとする姿勢であり好ましい考え方である。彼の主張によると、大阪市は巨大過ぎて基礎自治体としての機能を果たしえていない。大阪市の人口規模にしても県規模であり、県であればその下には市町村の本来の基礎自治体があり、それによってきめ細かい政策が実施できるようになっている。大阪市の場合は それが区であるはずだが、その肝心の区が基礎自治体と言うにはお寒い状態である。だから、その区を東京の23区のように、本来の基礎自治体の機能を持たせて充実させるべきだ、と言うものと理解した。
そうした、きめ細かい政治を可能としようとすると、そうした大阪市のように肥大化した自治体の中で、変な既得権受益者が発生していて、それが予算無駄遣いの根源になっていて、政治そのものを歪めているというのが、橋下氏の主張である。そして、そういった政治的視点で大阪府を改革して行き、彼の実績となったのである。だから、基礎自治体を大切にするべきである、と言うのが彼の主張なのだ。正に“都市自治は民主主義の学校”であるという民主主義本来の立場に立っていると、一応言える。
さて、グランド・デザイン対立と言えば、省みて見れば、最近の国会の論戦も 結局のところそうした与党のテーゼとなるグランド・デザインと野党のアンチ・テーゼのガチンコ論戦とはなっていない。今や全ての論戦が、党利党略の重箱の隅をつつくものでしかなくなっている。余計なことだが、特に小沢氏の場合は私利私欲だ。だから全く面白くない。全てが 小粒の議論であり、歴史的見ても、政治的にも全く不毛の論戦に終始してしまっている。
ちょっと以前は、背景に資本主義(自由主義)と社会主義のイデオロギー対立があったから多少は グランド・デザイン対立が 時折形式論的もせよ見られたものだが、90年代の社会主義陣営の崩壊とともに それがなくなり、与党と野党の立場が相互溶融してしまい、揚げ足取りの議論でしかないようになってしまっている。
先週、防衛大臣が如何に不適任であるかを示すために、野党が防衛政策の用語を駆使して質問を繰り返していたようだ。しかし、そのような用語を知っているかどうかが、国務大臣の適切性を示すものではない。大所高所から日本の外交戦略、防衛政策の適否が語れるかどうかが問題であって、そういう見地からの質問をなすべきである。専門用語を振り回して質問することに終始することは、返って質問者の小ささを示していることを知るべきではないだろうか。
せめて朝生では、そういうグランド・デザインの対立を見たかったのだが、結局は期待外れとなってしまった。さらに番組では、都市自治から 国家政略へ話題を転換させ、彼の政策の背景にある政治的価値観が どこにあるのか議論しようとしたが、当人は全く乗って来なかった。基礎自治体を今より充実した政治体制が出来上がれば、それで自分の役割は終わりだと言いきって、ごまかしていた。果たして、彼の政治的価値観は どこにあるのか、教育基本条例案に関する話を聞くと、かなり右傾化しているように見える。この番組でも、話題になったが多様性を認めることは、社会の強靭さを持つためには重要だからである。
だが、現状のままでは、政治の本質を 十二分に理解している橋下氏の政治的な破竹の進撃は当分続くように見える。恐らく、彼自身の思惑が本当に そうであったとしても、周囲または その背景の勢力がそれを許さない状態が次第に出来上がって行くであろう。
昔、ドイツに登場したヒットラーも斯くあったのだろうか。彼は 国家社会主義を標榜した。この“社会主義”に心を許したインテリ・ゲンチャーも多かったというのも 彼の増長を許した遠因であると聞いている。
果たして、彼はヒットラーの再来なのだろうか。誰が 彼の本質を明らかにすることができるのだろうか。彼に対立し得る力量のある政治家や学者が現代日本に居るのだろうか。我々は当分是々非々で彼に寄り添うべきなのだろうか。そうでもしなければ、この日本の閉塞状況は打開できないのかも知れない。各自が それぞれ政治的自覚と心眼を持たなければならない。彼に全てを委ねてはならない。正しく、橋下氏自身がそう言っている。
また、橋下氏の背景に堺屋太一氏が居ることによっても その方向性が大いに気になる。今のところ 彼らの主張は 非常に純粋に見える。その“純粋さ”は 一体どこから来ているのか。
それを知るには 彼らの活動資金源は どこから来ているかを知ることが重要である。少なくとも知事選に出るためだけでも、1億円は必要と言われている。しかも、あの維新の会は政党の要件を満たしていないから政党助成金も出ないはずだ。にもかかわらず、どうしてあんなに派手で激しい選挙活動ができるのだろうか。その資金源を知ることなしに、全面的に彼らを信じることはできない。
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