The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
西研・著“ヘーゲル・大人のなり方”を読んで
前回、“JOCトップの女性蔑視発言”と思わず書いてしまっていて、若干の内心赤面となった。JOCではなく、“公益財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会”が組織の正式呼称で、略称は“(東京オリパラ)大会組織委員会”のようだ。申し訳なかった。だがしかし、JOCの組織でその機能は果たせないのだろうか。“大会組織委員会”とはいうものの職員は3千人を超えるようだ。幹部がボランティア・ベースだと言うのならばまぁ目くじら立てる問題でもないのか。でも、それだけの人員が今の厚労省に応援できれば・・・。
このトップ人材に関する騒動は今週も、ついに収まらず、やっぱり辞任とあいなった。ならば、さっさと辞めるべきだった。80過ぎたジジイ共が、内輪の密室根回しで右往左往した結果、それを露呈させてしまいみっともない仕儀となった。三密を避けての密室画策だったのか?
世代論でいうと、日本の80代のジジイ共は何故だか、やけに元気で、握った権力を手放そうとしないのが一般的傾向にある。お蔭で、そのすぐ後の世代の出る幕もなくなっていて、スムーズな世代交代に至っていない印象にある。70代の知人がぼやいているのを聞いたことがある。しかも余り質の良くない人ほど残っている疑いもある。この騒動も何せ、83歳から84歳への禅譲の画策だった。周囲に“余人をもって代えがたい”との忖度を言わしめての騒動だった。
その結果、後任を選定する検討委員会の委員長にこれまた85歳のジイサマが就任するそうな。性懲りもなく、聞くたびに年齢がますます上昇。これも“余人をもって代えがたい”のか?日本には人材は居ないのか?人材払底社会?ホントウか?1億超も人口が居てそれでも人材がいない?イスラエルは900万人、台湾2300万人、韓国5100万人だが、皆、国際社会で存在感を示している。日本社会はそれに劣後するのか?
まぁ、首相すらロクな人材が出て来ないような社会である。聞くところによれば経団連・会長も御病気を押しての御在任のようだ。ここでも人材払底?ジイサマ以外に人材が居ない多様性の乏しい不思議な国!!!バァサマすら居ない?
日本は何故、こんな社会となったのか?成程、革新できない訳だ!停滞する社会!これは結構、深刻な問題ではないのか。
ここに来て、新型ウィルス禍で“検査・試験・調査”と言うことに対して次の2つの疑問がある。
オリンピック憲章の幸平・公平を言うのならば、国民全員にPCR検査を十分に実施していないにも関わらず選手には4日に一度検査をするというのはいかがなものか。また依然としてPCR検査が意味がないと主張される方は、こうした対応にどういうコメントされるのであろうか。やっぱり、感染の予防にはPCR検査が必須ではないのか?
このところ感染者数が減少してきているが、それが下げ止まるのではないか?の疑惑が出て来ている。これに対し、ゲノム解析を精密にする必要あるのではないかと考える。従来型ウィルスの減少があっても変異ウィルスの増加があり、見かけ上、下げ止まっていることも考えられる。もし、実態がそうであるのならば、これから変異ウィルスの増加により感染者数は増加するのではないか。
これから感染者が増えればオリンピック・パラリンピック開催は不能だ。そうなれば組織委員会に会長も不要ではないのか。
新型ウィルス禍にもかかわらず、何故必死になってオリンピック・パラリンピックの開催するのか?
開催には医療スタッフが“1人5日間程度の勤務をお願いすることを前提に、1万人程度”必要だという。ただでさえ不足している医療従事者。今や国民全体へのワクチン接種にも必要で、それこそが大切ではないのか。国民を放っておいてオリパラやるのか?
ようやく届いたワクチン。数量が伝わって来ないが、まさか1個ではあるまいな。今後も引き続き届くのか?無駄なく効率的に接種可能なのか?
何が重要で、必要なことか。優先順位を明確に整理して国家運営することが必要な時ではないのか。それは政治家が決めることではないのか。判断停止、思考停止の脳死状態ではないのか。国全体がオリパラ開催などの無駄なことにエネルギーを消耗して居るべきではないように思う。
先の戦争では1945年春には米軍の沖縄上陸があり既に敗色濃厚、直ちに無条件降伏するのか判断を停止、日本政府は思考停止の脳死状態。8月に入って天皇の裁可でようやく無条件降伏となった。そのモタモタの間に2つの原爆投下があり、多数の都市空襲も甚大化し、旧満州や千島にはソ連軍の侵入があり、多くの国民に無用の命の犠牲を強いた。これと同じことを今やっているのではないか?経営学的に言うところのサンク・コストにこだわり過ぎではないのか?
だが、ワクチンが届いても未だ具体的にどう接種体制を組んでいくのか不明のようだ。東京の練馬区がかかりつけ医を中心に ワクチン接種を推進する“練馬区モデル”を発表し、全国から問い合わせ殺到したという。
少し変ではないか?厚労省が練馬区を指導してモデルを作ったというのならば分かるし、そうであれば全国から厚労省に問い合わせ殺到となるのではないのか?厚労省は今、何をしているのか?自分の仕事をキチンとこなしているのか?機能を果たさない役所は不要ではないのか?ここも人員不足、人材が払底しているのか?
話は変わるが、8日午前高知県足摺岬から南東約50キロの太平洋上で、海上自衛隊の潜水艦“そうりゅう”と民間の商船が衝突した。初歩的操船ミスに衝撃的だ。何故、あのようなこととなったのか。これによる艦体上部の艦橋右側のへこみのほか、艦橋の右舷側にある“潜舵”が破断し折れ曲がった損傷の生々しい写真が世界中に出回った。この写真から、この潜水艦“そうりゅう”の性能が読み取れるのではないか、との懸念がある。つまり、使用している鋼材の厚みから潜航可能深度が読み取れる、或いは、塗装の状態等が読み取れて、対ソナー性能も読み取られたのではないかとの懸念がある。いかがだろうか。そういう点で、海自首脳の驚愕は甚大ではなかったろうか。
奇しくも、10日には宇和島水産高校の実習船“えひめ丸”がハワイ沖でアメリカの原子力潜水艦“グリーンビル”に衝突されて沈没し、生徒ら9人が犠牲となった事故から20年。新型ウィルス禍で現地ハワイでの大規模な慰霊祭は取りやめとなった、というが。同じように、潜航中の潜水艦が浮上しての事故、海自の再発防止(予防処置)はどうなっていたのだろうか。
さて、先週は西研先生の“ヘーゲル・大人のなり方”を読んだ。
西洋哲学を分かり易い西研先生から学ぶことに決めて、ルソー、カントに至り、いよいよヘーゲル本に着手となった。西研先生のヘーゲル本は他にもある。いずれも竹田青嗣教授との共著だが次の2つだ。
“超解読!はじめてのヘーゲル『精神現象学』”(講談社現代新書)2010/05/19
“超解読!はじめてのヘーゲル『法の哲学』”(講談社現代新書)2020/12/16
“ヘーゲル”に関しての本で西研先生単独執筆は今回読んだ本くらいのようだ。だが、この本実は1995年1月の発行で新刊書を扱う一般書店にはほとんど在庫になっていない。出版社のNHK出版も既に扱っていない。誰かが、現象学を学ぶためには良書だと書評していたのだが、入手不能。そうなれば図書館か?と思っていたのが、ブックオフで偶然昨夏見つけたのだ。それをちょっとツンドクしておいて、ルソー、カントをお勉強し、ようや読める条件が整ったと見て、今回読むことにしたのだ。この本を紹介しているネット上の記事には次のようにある。
《内容》
マルクス主義につながる悪しき思想の根源とされていたヘーゲルは過去のものになる。共同体と人間の関係について徹底的に考えた思想としてヘーゲル哲学を捉えた新しい入門書。
《目次》
序章 ヘーゲルってどんな人?
第1章 人々が熱狂した近代の夢
第2章 愛は世界を救えるか
第3章 自己意識は自由をめざす
第4章 わがままな意識は大人になる
第5章 私と世界の分裂と和解
第6章 制度の根拠はどこにあるのか
終章 ヘーゲル哲学をどう受けつぐか
“マルクス主義につながる悪しき思想”との表現は、一体どこからきたのだろうか。著者はこの本ではそのような表現はとってはいなかったように思う。
この本の書き出しは、むしろポスト・モダニズムの“真理・道徳・共同体”を忌避する姿勢を批判したところからスタートしている。この本では、“マルクス”を最早相手にしてはいなかった。確かにマルクス思想全盛の頃、既に“真理・道徳・共同体”を胡散臭いものとして見る姿勢はあったように思う。だが、その後ポスト・モダニズムという思想の全盛があって、“真理・道徳・共同体”を徹底的に忌避する動きがあったとは、つゆ知らず過ごして来ていた。そんな自分の無教養・不明を恥じるのみ。
最終章を読めば分かるが、やはり“真理・道徳・共同体”を忌避しては通れないのが、この世の在り方と著者は言いたかったようだ。“ポスト・モダニズムは過渡期の思想であった”と結論している。
改めて、目次に従ってこの本の構成を概説する。この本は、ヘーゲルの主著“キリスト教の精神とその運命”、“ドイツ憲法論”、“精神の現象学”、“法権利の哲学”の概説となっている。
序章ではヘーゲルの人となりを概説している。別のネット上のヘーゲルの人となり情報を次に掲載する。
フル・ネームはゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel)。
シュトゥットガルトに生まれ(1770)、チュービンゲン大学で哲学と神学を学ぶ。同大学では、詩人ヘルダーリン(1770~1843)、哲学者シェリング(1775~1854)と交友、折しも勃発したフランス革命をヘーゲルは熱烈に歓迎したという。大学卒業後は家庭教師や私講師として各地で生計を立てつつその哲学的思索を深め、1807年、イェーナで最初の大著『精神現象学』を出版した。1816年にはニュルンベルクで『大論理学』を完成し、これによってヘーゲルはようやくハイデルベルク大学に教授として迎えられ、1817年に『エンチクロペディー』でその哲学体系を示した。翌1818年には、プロイセン政府の招聘によりベルリン大学教授となり、ここで最後の大著『法の哲学』(1821)を出版した。ヘーゲルの哲学はプロイセン政府公認のものとなり、ヘーゲルもまたこの国家を哲学的に称揚した。ベルリン大学総長の勤めも果たし、なお権威と名声の頂点にあった1831年、ドイツを襲ったコレラにより急死した。
第1章ではヘーゲルに至るルソーやカントの思想の紹介。ここはこれまでの“お勉強”の総復習。
“第2章 愛は世界を救えるか”は宗教、特に旧約聖書やキリストの思想を概説して、次章以降への導入としている。それが“キリスト教の精神とその運命”に基づく解説だ。
“ユダヤ人の始祖アブラハム”の“独立自存の人”となる行動について、共同体から抜け出して“ひたすら己”を求めて自由になること、それはルソーも求めた思想だ。しかし“それは根源的には、世界に対する憎しみの感情から発生”しているのではないか。そこにユダヤ人の“選民思想”の根っこがある。このアンチテーゼとしてイエス・キリストが登場して、愛を説くことによって“道徳性を説いた人類の教師”となった。ヘーゲルは“イエスの生涯”を著して、“こういう(アブラハム或いはユダヤ人の)自己正当化の意識を、醜いものとしてとことん否定しようとしている”。特に、その選民思想が対象なのだろう。
だが私には、このあたりから少しずつ理解不能の世界が広がってきたような気がする。確かに、若い人に多い“自由になりたい”意識は“世の中に対するいわれなき憎悪”という潜在意識から来ているのかも知れない。しかし、私の若い時は“自由の背景には責任”があるとの認識があり、“世の中に対するいわれなき憎悪”に達するほどの不幸も元気もなく、大人しくしていた。だからこうした論理が腑に落ちない部分があるのかも知れない。
第3~5章でいよいよ“精神の現象学”の解説となる。ところで現象学とは何か。“『現象学』の課題はあらゆる知と社会制度の形成をたどりなおすことにある”。しかし、“それは、具体的な歴史学的な研究、例えば科学史や精神史の研究とは異なる種類のものだ。なぜなら『現象学』は、ある根本的な原理から出発して、あらゆる知と社会制度を解明しようと試みるもの”なのだ。
人の社会意識が歴史に反映している、という思考モデルである。おそらく、ホッブスの“万人の万人による闘争”から始まり、ロックやルソーに至る社会契約論の成り立ちに見られた、仮想社会発展論の延長上の“仮想想定の論理展開”なのであろう。
そしてその原理とは、“人間の「意識」というものの在り方を深く洞察することで得られたもの”である。その意識には次の特質がある。
①根源的な場面としての「意識」。(意識の「外側」を考える必要はない。)②意識の「反省」能力③「自己」意識論(〈自己〉を安定させよう・拡大しようとする欲望こそが意識の進展の原理)
ヘーゲルはこの意識を次の三つに区分している、という。
①対象意識(眼前にある対象の「真理(真相)」を追及する意識)②自己意識③理性(みんなにとってどうなのかを考える)
ギリシア時代の“ポリス的個人と共同体の一体性”から始まり“人間の掟と神々の掟”、“ローマ帝国の法的状態”、中世の封建社会とキリスト教からのストア主義的発想、封建貴族意識、から市民意識に至ってのフランス革命へと進んだとの精神展開の解説であった、と理解している。
しかしながら、第2章で既に“腑に落ちない部分”の発生を見たが、読むにつれてそれが拡大して行った。その拡大をそのまま抱えながら、とにかく我慢して突入していった。やっぱり難解である。それがついには“字面を追うだけの展開”となって行く。その困難で苦しい時間を耐えざるを得ない。こうなると、私の習性では、この展開から救ってくれそうな本をアマゾン等のネットで物色しだすことになる。だが、分かり易いはずの西研先生の解説ですら分からないのに、その外の学者の解説で理解できるか?この世に、その外の語り口で理解できる確証があるのか?解説本でこのザマでは、ましてへーゲルの原典(それも翻訳された日本語の本ですら)では到底理解不能であろう。こうした本で味わう孤独感、絶望感にひたすら耐えた。
元々こういうことが無いようにしようとして、解説本の読み漁りだけでも何とかルソー、カントに至ったので、ここから何とかヘーゲルにたどり着いたつもりだったが、それでもこのザマだ。情けない!それとも今後の無為の時間が理解の助けとなるのか?
この部分でのコメント・感想は取り敢えずこれくらいでしかない。
兎に角、この“精神の現象学”の解説の第3~5章での西研先生の結論はこうだ。
“ヘーゲルが自分の学問を「真理の体系」の資格をもちうるはずのもの、と考えていたのはたしかだ。その結果、『現象学』がある特定の観点―人類の歴史を自由の実現とみなす―をもっていることがみえにくくなってしまった。人類の共同的な精神を想定したうえでその歩みを描く学問も成立するだろうけれど、個々人の実存的な在り方に迫っていく学問だって成立するのである。しかし「真理の体系」はひとつの観点を絶対化したうえで、しかもそれを隠してしまう。問題点はむしろそこにあるとぼくは思っている。”
いきなりの紹介だが、分かるであろうか。要するに“精神の現象学”は絶対的な真理を示すものではなく、絶えず流動化した相対的なものだという指摘ではなかろうか。この前段で次の記述がある。
“絶対知の「絶対性」は、何か特定の立場ではなくて、「人間の精神の歩みをもれなく包括していること」において成り立つのである。宗教は、人間の精神の在り方(とくに個と共同体の関係)を、神話的イメージ(人間と神の関係)のかたちで捉えている。それに対し、哲学は人間の精神の在り方を概念的に把握する。意識の様々な在り方にしても、個人と共同体の関係の在り方にしても、哲学は人間の精神をはっきりと自覚的に、もれなく捉える。〈精神である人間がみずからの精神という在り方をきちんと自己認識する。「精神の自己認識」というかたちで哲学は成立する〉―こう彼は述べている。”
さらに、そのはるか前にヘーゲルの次の言葉(著者なりの表現・翻訳と思われるが)も引用されている。人間の精神の在り方(とくに個と共同体の関係や人間と神の関係)の〈対立は、自分の側のルールの正当性に固執する限り解決できないが、新たな共同関係への意志が生まれ、そしてそれが相互に承認される―そして場合によっては新たなルールが作られる―ことによって、それはその都度乗り越えられる〉と。
第6章は、“制度の根拠はどこにあるのか―家族・市民社会・国家”の表題となっている。つまり、“法権利の哲学”の解説となる。ここは、第5章の結論を踏まえれば理解はそう困難ではないように感じた。
この本の構成の概説で分かると思うが、この本では“弁証法”を何故か“意識的に”回避している。だから、第5章での結論らしきところが、分かり難いのではなかろうか。相反する考えの矛盾、つまり“対立”を超克して止揚するプロセスを先の記述で説明しているのだが、その“止揚する”という結論の出し方が、ヘーゲルの正反合の弁証法論理学である。“絶対的な真理を示すもの”ではなく、相対的であるのは論理が絶えず躍動する“弁証法”があるからではないのだろうか。
西研先生はむしろ“弁証法”の解説に紙幅を割かずに、理解しなければならない事項に絞ることで、読者の混乱を避けたのかも知れない。或いは、方法論より内容だ、と考えたのかも知れない。
だが特に、マルクス主義の理解には、“唯物論的弁証法”という方法論の理解が必要で、マルクスは静止的個別的唯物論を弁証法の導入によって、動的に躍動させることになった、というのが昔の解説では一般的だったように記憶している。そういう点で、マルクス思想には“ヘーゲル観念論”が重要だった、というのだ。
そういった、若干の“省略・割愛”が、この本ではあるので、また別の人のヘーゲル概説書を読んで、理解を深めたいと思っている。特に、“精神の現象学”の部分については、先に言ったように理解が不十分であるので、それで補強もできないかと思っている。だらだら長くなったが、今回はこんなところである。
このトップ人材に関する騒動は今週も、ついに収まらず、やっぱり辞任とあいなった。ならば、さっさと辞めるべきだった。80過ぎたジジイ共が、内輪の密室根回しで右往左往した結果、それを露呈させてしまいみっともない仕儀となった。三密を避けての密室画策だったのか?
世代論でいうと、日本の80代のジジイ共は何故だか、やけに元気で、握った権力を手放そうとしないのが一般的傾向にある。お蔭で、そのすぐ後の世代の出る幕もなくなっていて、スムーズな世代交代に至っていない印象にある。70代の知人がぼやいているのを聞いたことがある。しかも余り質の良くない人ほど残っている疑いもある。この騒動も何せ、83歳から84歳への禅譲の画策だった。周囲に“余人をもって代えがたい”との忖度を言わしめての騒動だった。
その結果、後任を選定する検討委員会の委員長にこれまた85歳のジイサマが就任するそうな。性懲りもなく、聞くたびに年齢がますます上昇。これも“余人をもって代えがたい”のか?日本には人材は居ないのか?人材払底社会?ホントウか?1億超も人口が居てそれでも人材がいない?イスラエルは900万人、台湾2300万人、韓国5100万人だが、皆、国際社会で存在感を示している。日本社会はそれに劣後するのか?
まぁ、首相すらロクな人材が出て来ないような社会である。聞くところによれば経団連・会長も御病気を押しての御在任のようだ。ここでも人材払底?ジイサマ以外に人材が居ない多様性の乏しい不思議な国!!!バァサマすら居ない?
日本は何故、こんな社会となったのか?成程、革新できない訳だ!停滞する社会!これは結構、深刻な問題ではないのか。
ここに来て、新型ウィルス禍で“検査・試験・調査”と言うことに対して次の2つの疑問がある。
オリンピック憲章の幸平・公平を言うのならば、国民全員にPCR検査を十分に実施していないにも関わらず選手には4日に一度検査をするというのはいかがなものか。また依然としてPCR検査が意味がないと主張される方は、こうした対応にどういうコメントされるのであろうか。やっぱり、感染の予防にはPCR検査が必須ではないのか?
このところ感染者数が減少してきているが、それが下げ止まるのではないか?の疑惑が出て来ている。これに対し、ゲノム解析を精密にする必要あるのではないかと考える。従来型ウィルスの減少があっても変異ウィルスの増加があり、見かけ上、下げ止まっていることも考えられる。もし、実態がそうであるのならば、これから変異ウィルスの増加により感染者数は増加するのではないか。
これから感染者が増えればオリンピック・パラリンピック開催は不能だ。そうなれば組織委員会に会長も不要ではないのか。
新型ウィルス禍にもかかわらず、何故必死になってオリンピック・パラリンピックの開催するのか?
開催には医療スタッフが“1人5日間程度の勤務をお願いすることを前提に、1万人程度”必要だという。ただでさえ不足している医療従事者。今や国民全体へのワクチン接種にも必要で、それこそが大切ではないのか。国民を放っておいてオリパラやるのか?
ようやく届いたワクチン。数量が伝わって来ないが、まさか1個ではあるまいな。今後も引き続き届くのか?無駄なく効率的に接種可能なのか?
何が重要で、必要なことか。優先順位を明確に整理して国家運営することが必要な時ではないのか。それは政治家が決めることではないのか。判断停止、思考停止の脳死状態ではないのか。国全体がオリパラ開催などの無駄なことにエネルギーを消耗して居るべきではないように思う。
先の戦争では1945年春には米軍の沖縄上陸があり既に敗色濃厚、直ちに無条件降伏するのか判断を停止、日本政府は思考停止の脳死状態。8月に入って天皇の裁可でようやく無条件降伏となった。そのモタモタの間に2つの原爆投下があり、多数の都市空襲も甚大化し、旧満州や千島にはソ連軍の侵入があり、多くの国民に無用の命の犠牲を強いた。これと同じことを今やっているのではないか?経営学的に言うところのサンク・コストにこだわり過ぎではないのか?
だが、ワクチンが届いても未だ具体的にどう接種体制を組んでいくのか不明のようだ。東京の練馬区がかかりつけ医を中心に ワクチン接種を推進する“練馬区モデル”を発表し、全国から問い合わせ殺到したという。
少し変ではないか?厚労省が練馬区を指導してモデルを作ったというのならば分かるし、そうであれば全国から厚労省に問い合わせ殺到となるのではないのか?厚労省は今、何をしているのか?自分の仕事をキチンとこなしているのか?機能を果たさない役所は不要ではないのか?ここも人員不足、人材が払底しているのか?
話は変わるが、8日午前高知県足摺岬から南東約50キロの太平洋上で、海上自衛隊の潜水艦“そうりゅう”と民間の商船が衝突した。初歩的操船ミスに衝撃的だ。何故、あのようなこととなったのか。これによる艦体上部の艦橋右側のへこみのほか、艦橋の右舷側にある“潜舵”が破断し折れ曲がった損傷の生々しい写真が世界中に出回った。この写真から、この潜水艦“そうりゅう”の性能が読み取れるのではないか、との懸念がある。つまり、使用している鋼材の厚みから潜航可能深度が読み取れる、或いは、塗装の状態等が読み取れて、対ソナー性能も読み取られたのではないかとの懸念がある。いかがだろうか。そういう点で、海自首脳の驚愕は甚大ではなかったろうか。
奇しくも、10日には宇和島水産高校の実習船“えひめ丸”がハワイ沖でアメリカの原子力潜水艦“グリーンビル”に衝突されて沈没し、生徒ら9人が犠牲となった事故から20年。新型ウィルス禍で現地ハワイでの大規模な慰霊祭は取りやめとなった、というが。同じように、潜航中の潜水艦が浮上しての事故、海自の再発防止(予防処置)はどうなっていたのだろうか。
さて、先週は西研先生の“ヘーゲル・大人のなり方”を読んだ。
西洋哲学を分かり易い西研先生から学ぶことに決めて、ルソー、カントに至り、いよいよヘーゲル本に着手となった。西研先生のヘーゲル本は他にもある。いずれも竹田青嗣教授との共著だが次の2つだ。
“超解読!はじめてのヘーゲル『精神現象学』”(講談社現代新書)2010/05/19
“超解読!はじめてのヘーゲル『法の哲学』”(講談社現代新書)2020/12/16
“ヘーゲル”に関しての本で西研先生単独執筆は今回読んだ本くらいのようだ。だが、この本実は1995年1月の発行で新刊書を扱う一般書店にはほとんど在庫になっていない。出版社のNHK出版も既に扱っていない。誰かが、現象学を学ぶためには良書だと書評していたのだが、入手不能。そうなれば図書館か?と思っていたのが、ブックオフで偶然昨夏見つけたのだ。それをちょっとツンドクしておいて、ルソー、カントをお勉強し、ようや読める条件が整ったと見て、今回読むことにしたのだ。この本を紹介しているネット上の記事には次のようにある。
《内容》
マルクス主義につながる悪しき思想の根源とされていたヘーゲルは過去のものになる。共同体と人間の関係について徹底的に考えた思想としてヘーゲル哲学を捉えた新しい入門書。
《目次》
序章 ヘーゲルってどんな人?
第1章 人々が熱狂した近代の夢
第2章 愛は世界を救えるか
第3章 自己意識は自由をめざす
第4章 わがままな意識は大人になる
第5章 私と世界の分裂と和解
第6章 制度の根拠はどこにあるのか
終章 ヘーゲル哲学をどう受けつぐか
“マルクス主義につながる悪しき思想”との表現は、一体どこからきたのだろうか。著者はこの本ではそのような表現はとってはいなかったように思う。
この本の書き出しは、むしろポスト・モダニズムの“真理・道徳・共同体”を忌避する姿勢を批判したところからスタートしている。この本では、“マルクス”を最早相手にしてはいなかった。確かにマルクス思想全盛の頃、既に“真理・道徳・共同体”を胡散臭いものとして見る姿勢はあったように思う。だが、その後ポスト・モダニズムという思想の全盛があって、“真理・道徳・共同体”を徹底的に忌避する動きがあったとは、つゆ知らず過ごして来ていた。そんな自分の無教養・不明を恥じるのみ。
最終章を読めば分かるが、やはり“真理・道徳・共同体”を忌避しては通れないのが、この世の在り方と著者は言いたかったようだ。“ポスト・モダニズムは過渡期の思想であった”と結論している。
改めて、目次に従ってこの本の構成を概説する。この本は、ヘーゲルの主著“キリスト教の精神とその運命”、“ドイツ憲法論”、“精神の現象学”、“法権利の哲学”の概説となっている。
序章ではヘーゲルの人となりを概説している。別のネット上のヘーゲルの人となり情報を次に掲載する。
フル・ネームはゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel)。
シュトゥットガルトに生まれ(1770)、チュービンゲン大学で哲学と神学を学ぶ。同大学では、詩人ヘルダーリン(1770~1843)、哲学者シェリング(1775~1854)と交友、折しも勃発したフランス革命をヘーゲルは熱烈に歓迎したという。大学卒業後は家庭教師や私講師として各地で生計を立てつつその哲学的思索を深め、1807年、イェーナで最初の大著『精神現象学』を出版した。1816年にはニュルンベルクで『大論理学』を完成し、これによってヘーゲルはようやくハイデルベルク大学に教授として迎えられ、1817年に『エンチクロペディー』でその哲学体系を示した。翌1818年には、プロイセン政府の招聘によりベルリン大学教授となり、ここで最後の大著『法の哲学』(1821)を出版した。ヘーゲルの哲学はプロイセン政府公認のものとなり、ヘーゲルもまたこの国家を哲学的に称揚した。ベルリン大学総長の勤めも果たし、なお権威と名声の頂点にあった1831年、ドイツを襲ったコレラにより急死した。
第1章ではヘーゲルに至るルソーやカントの思想の紹介。ここはこれまでの“お勉強”の総復習。
“第2章 愛は世界を救えるか”は宗教、特に旧約聖書やキリストの思想を概説して、次章以降への導入としている。それが“キリスト教の精神とその運命”に基づく解説だ。
“ユダヤ人の始祖アブラハム”の“独立自存の人”となる行動について、共同体から抜け出して“ひたすら己”を求めて自由になること、それはルソーも求めた思想だ。しかし“それは根源的には、世界に対する憎しみの感情から発生”しているのではないか。そこにユダヤ人の“選民思想”の根っこがある。このアンチテーゼとしてイエス・キリストが登場して、愛を説くことによって“道徳性を説いた人類の教師”となった。ヘーゲルは“イエスの生涯”を著して、“こういう(アブラハム或いはユダヤ人の)自己正当化の意識を、醜いものとしてとことん否定しようとしている”。特に、その選民思想が対象なのだろう。
だが私には、このあたりから少しずつ理解不能の世界が広がってきたような気がする。確かに、若い人に多い“自由になりたい”意識は“世の中に対するいわれなき憎悪”という潜在意識から来ているのかも知れない。しかし、私の若い時は“自由の背景には責任”があるとの認識があり、“世の中に対するいわれなき憎悪”に達するほどの不幸も元気もなく、大人しくしていた。だからこうした論理が腑に落ちない部分があるのかも知れない。
第3~5章でいよいよ“精神の現象学”の解説となる。ところで現象学とは何か。“『現象学』の課題はあらゆる知と社会制度の形成をたどりなおすことにある”。しかし、“それは、具体的な歴史学的な研究、例えば科学史や精神史の研究とは異なる種類のものだ。なぜなら『現象学』は、ある根本的な原理から出発して、あらゆる知と社会制度を解明しようと試みるもの”なのだ。
人の社会意識が歴史に反映している、という思考モデルである。おそらく、ホッブスの“万人の万人による闘争”から始まり、ロックやルソーに至る社会契約論の成り立ちに見られた、仮想社会発展論の延長上の“仮想想定の論理展開”なのであろう。
そしてその原理とは、“人間の「意識」というものの在り方を深く洞察することで得られたもの”である。その意識には次の特質がある。
①根源的な場面としての「意識」。(意識の「外側」を考える必要はない。)②意識の「反省」能力③「自己」意識論(〈自己〉を安定させよう・拡大しようとする欲望こそが意識の進展の原理)
ヘーゲルはこの意識を次の三つに区分している、という。
①対象意識(眼前にある対象の「真理(真相)」を追及する意識)②自己意識③理性(みんなにとってどうなのかを考える)
ギリシア時代の“ポリス的個人と共同体の一体性”から始まり“人間の掟と神々の掟”、“ローマ帝国の法的状態”、中世の封建社会とキリスト教からのストア主義的発想、封建貴族意識、から市民意識に至ってのフランス革命へと進んだとの精神展開の解説であった、と理解している。
しかしながら、第2章で既に“腑に落ちない部分”の発生を見たが、読むにつれてそれが拡大して行った。その拡大をそのまま抱えながら、とにかく我慢して突入していった。やっぱり難解である。それがついには“字面を追うだけの展開”となって行く。その困難で苦しい時間を耐えざるを得ない。こうなると、私の習性では、この展開から救ってくれそうな本をアマゾン等のネットで物色しだすことになる。だが、分かり易いはずの西研先生の解説ですら分からないのに、その外の学者の解説で理解できるか?この世に、その外の語り口で理解できる確証があるのか?解説本でこのザマでは、ましてへーゲルの原典(それも翻訳された日本語の本ですら)では到底理解不能であろう。こうした本で味わう孤独感、絶望感にひたすら耐えた。
元々こういうことが無いようにしようとして、解説本の読み漁りだけでも何とかルソー、カントに至ったので、ここから何とかヘーゲルにたどり着いたつもりだったが、それでもこのザマだ。情けない!それとも今後の無為の時間が理解の助けとなるのか?
この部分でのコメント・感想は取り敢えずこれくらいでしかない。
兎に角、この“精神の現象学”の解説の第3~5章での西研先生の結論はこうだ。
“ヘーゲルが自分の学問を「真理の体系」の資格をもちうるはずのもの、と考えていたのはたしかだ。その結果、『現象学』がある特定の観点―人類の歴史を自由の実現とみなす―をもっていることがみえにくくなってしまった。人類の共同的な精神を想定したうえでその歩みを描く学問も成立するだろうけれど、個々人の実存的な在り方に迫っていく学問だって成立するのである。しかし「真理の体系」はひとつの観点を絶対化したうえで、しかもそれを隠してしまう。問題点はむしろそこにあるとぼくは思っている。”
いきなりの紹介だが、分かるであろうか。要するに“精神の現象学”は絶対的な真理を示すものではなく、絶えず流動化した相対的なものだという指摘ではなかろうか。この前段で次の記述がある。
“絶対知の「絶対性」は、何か特定の立場ではなくて、「人間の精神の歩みをもれなく包括していること」において成り立つのである。宗教は、人間の精神の在り方(とくに個と共同体の関係)を、神話的イメージ(人間と神の関係)のかたちで捉えている。それに対し、哲学は人間の精神の在り方を概念的に把握する。意識の様々な在り方にしても、個人と共同体の関係の在り方にしても、哲学は人間の精神をはっきりと自覚的に、もれなく捉える。〈精神である人間がみずからの精神という在り方をきちんと自己認識する。「精神の自己認識」というかたちで哲学は成立する〉―こう彼は述べている。”
さらに、そのはるか前にヘーゲルの次の言葉(著者なりの表現・翻訳と思われるが)も引用されている。人間の精神の在り方(とくに個と共同体の関係や人間と神の関係)の〈対立は、自分の側のルールの正当性に固執する限り解決できないが、新たな共同関係への意志が生まれ、そしてそれが相互に承認される―そして場合によっては新たなルールが作られる―ことによって、それはその都度乗り越えられる〉と。
第6章は、“制度の根拠はどこにあるのか―家族・市民社会・国家”の表題となっている。つまり、“法権利の哲学”の解説となる。ここは、第5章の結論を踏まえれば理解はそう困難ではないように感じた。
この本の構成の概説で分かると思うが、この本では“弁証法”を何故か“意識的に”回避している。だから、第5章での結論らしきところが、分かり難いのではなかろうか。相反する考えの矛盾、つまり“対立”を超克して止揚するプロセスを先の記述で説明しているのだが、その“止揚する”という結論の出し方が、ヘーゲルの正反合の弁証法論理学である。“絶対的な真理を示すもの”ではなく、相対的であるのは論理が絶えず躍動する“弁証法”があるからではないのだろうか。
西研先生はむしろ“弁証法”の解説に紙幅を割かずに、理解しなければならない事項に絞ることで、読者の混乱を避けたのかも知れない。或いは、方法論より内容だ、と考えたのかも知れない。
だが特に、マルクス主義の理解には、“唯物論的弁証法”という方法論の理解が必要で、マルクスは静止的個別的唯物論を弁証法の導入によって、動的に躍動させることになった、というのが昔の解説では一般的だったように記憶している。そういう点で、マルクス思想には“ヘーゲル観念論”が重要だった、というのだ。
そういった、若干の“省略・割愛”が、この本ではあるので、また別の人のヘーゲル概説書を読んで、理解を深めたいと思っている。特に、“精神の現象学”の部分については、先に言ったように理解が不十分であるので、それで補強もできないかと思っている。だらだら長くなったが、今回はこんなところである。
コメント ( 0 ) | Trackback ( )
« 伊丹敬之・著“... | 吉村昭・著“大... » |
コメント |
コメントはありません。 |
コメントを投稿する |