The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
吉村昭・著“大本営が震えた日”を読んで
結局、オリパラ組織委員会の新会長の選出プロセスは公開されずに前会長派のオバサンに決定!決まってみると、轟々たる議論も大人しくなってしまった。あの騒ぎは一体何だったのか。
オリパラ推進の日本のトップ・マネジメント3名は女性となった。これで本当にジェンダー・フリーなのか。
その選出プロセスに参加したメンバーの一人のJOC会長が“公開されると、スポーツ界、政界、さまざまな形で検討委員会のメンバーに圧力がかかってくる。私の経験から間違いないと思った。”と語ったという。
それ程、この世界の闇は深い。想像すらできない有象無象の利権社会なのか。日本では肝腎な部分に日の光の当たらない陰湿な部分があるのだろう。これでは進歩しない。結局、前会長はその利権・闇社会のドンだったのだろうか。これからは、代替わりのオバサン達が仕切るのか?
だが会長は決まっても、2020東京オリパラは安全に開催できるのか?具体的にどうやって開催するのか?決め手はワクチン接種だと思うが、順調に進むのか?
先週の週刊朝日(21年2月26日号)には、“ワクチン契約の「失敗」”と題してトップ記事が出ていた。曰く、“「最高機密」契約内容は自民PTにも開示せず/政府関係者が吐露「6月末までなどとても無理」”というのだ。要するに、先進7カ国G7で最も遅いワクチン接種国となった日本のワクチン・メーカとの契約が、数量契約だけでいつまでにどれくらいの量を受け入れるのか、納期と数量を示さない契約なので、“6月末”という期限を切ると、確実に確保できない見通しだという。厚労省の計画でも6月末には日本国民全員接種完了とはならない。これでは7月開催のオリンピックまでに十分な防疫体制は組めないこととなる。これで、安心・安全なオリパラが開催できるという確証があると言えるのだろうか。
また、そのような不安要素を抱えたままで、名誉だけのオリパラに海外の一流選手はやって来るのだろうか。日本全体がウィルス蔓延社会だと思えば、無観客でも来る気にはなれまい。
テニス全豪オープンは高額の優勝賞金が出ることもあり、ワクチン接種が行き届いていなくても、オーストラリアでの感染者数も低く、十分な防疫体制のため問題なく開催できている。ところがこの国では、PCR検査が十分でなく、感染抑制も一般人の“自粛”に頼るのみの不十分な状態で、それが可能なのか?
東京オリパラの安心・安全開催はどう考えても無理ではないのか。これ以上、無駄なことに資金と人員を割いておくよりも、早く新型ウィルス禍対策に政治の重点を移して、経済回復を狙うのが賢明な政策ではないか。
日本は地震・水害などの自然災害対策にも目配りが必要だ。兎に角、これから資金と人員がかかるのだ。“オリパラがなければ元気が出ない!”等とは本当か?それとも、闇社会の利権に引きずられて、没落する日本になるのか?
話は変わるが、“尖閣諸島の沖合で、15日から16日朝にかけて中国海警局の船4隻が相次いで日本の領海に侵入し、領海内で日本の漁船に接近する動きを見せた”という。海外公権力による明らかな“威力業務妨害”である。日本漁船を護る海保の動きを妨害すれば、“公務執行妨害”である。国際社会では、暴力を背景にしたこのような不法が認められるのか。日本政府による不法排除は確保してもらいたい。海保の尽力に期待したい。
そのための領海内での正当な公務執行、つまり武力行使はあっても当然であろう。
さて、今回は久しぶりに吉村昭の作品を読んだ。それは“大本営が震えた日”である。
吉村昭の戦前の戦記物は、いつも乾いた表現で事実のみが書かれていて、昭和戦前の軍人社会の雰囲気が良くわかるような気がする。アマゾンの紹介文は次の通り。
“(開戦の年)昭和16年12月1日午後5時すぎ、大本営はDC3型旅客機「上海号」が行方不明になったとの報告を受けて、大恐慌に陥った。機内には12月8日開戦を指令した極秘命令書が積まれており、空路から判断して敵地中国に不時着遭難した可能性が強い。もし、その命令書が敵軍に渡れば、国運を賭した一大奇襲作戦が水泡に帰する。太平洋戦争開戦前夜、大本営を震撼させた、緊迫のドキュメント。”
どうだろう、当時の中華航空の旅客機“上海号”遭難事件にまつわる動向だけで“大本営が震撼した”状態だと思えるではないか。だが、実際に読んでみると、そこから宣戦布告前のマレー半島奇襲攻撃準備から直前の態勢まで入って行き、さらには連合艦隊の真珠湾攻撃まで話は進んだ内容だった。要するに、“上海号”遭難によって重要機密文書が“敵”の手に落ちることを恐れて“大本営が震えた”話だけではなく、“上海号”遭難から真珠湾攻撃に至るまでの大本営の作戦企図秘匿の緊張の日々のドキュメントであった。次に、目次を示すがほぼ3編に分かれていて、最初が“「上海号」遭難事件”にまつわる内容で、中編が“マレー半島奇襲作戦”であり、後編が“真珠湾攻撃まで”という構成である。
“「上海号」遭難事件”から“マレー半島奇襲作戦”へ話が移行するのは“斬首された杉坂少佐”の中なので、私は話が転換したことに気付かず、内容にのめりこんで行っていた。後で話の変わっていたのに気づいて、どこが切れ目だったのか、読み直して驚いたほどである。著名な作品で、同じ章の中で違う話へ移行するということが有り得るのか、と今不思議に思うばかりである。編集者も気付かなかったのだろうか。それともワザとこのようにしたのか。中編から後編へは明確な章立ての変更があったのだから、どういう構成上の計算だったのか良く分からない。
“斬首された杉坂少佐”というのは、衝撃的表現だが、杉坂少佐が“上海号”遭難事件の部分の主人公となる。すなわち、12月1日の御前会議で12月8日に米英蘭へ宣戦布告をし、陸軍はマレー半島、海軍はハワイ真珠湾を奇襲することになった。それと同時に広東の第二十三軍にも英領の香港侵攻が下令された。ところが、この宣戦布告は奇襲成功のため、連合国側にはぎりぎりまで秘匿することとした。広東派遣の第二十三軍への作戦命令書は慣習に従って手交することとなり、参謀が現地軍に出張することになった。元々は杉坂少佐の役目ではなかったが、代行の代行で起用され、命令書伝達のため出張することとなった。南京から上海まで急行列車に乗り、上海から中華航空機“上海号”DC3旅客機に搭乗し、台北経由で広東に至る途中で、“上海号”が墜落遭難した。ところが、墜落現場は敵の国民党軍の支配地域であったため、その命令書が敵の手に渡れば、12月8日に宣戦布告が予定されていることが連合国側にも分かってしまうので、陸軍上層部は大本営も含めて慌てたのだ。また別に暗号解読文書も載っている可能性も出て来た。
墜落事故の現地からの詳細情報は当然なく、山間地も多く現場も不明のため、その捜索に広東飛行場の98式直協機*が起用され、この作品の冒頭の情景となる。天候不順で3日にようやく仙頭と広州の中間付近の獅朝洞高地に墜落していることが判明。生存者等詳報不明のまま、経過する中で慌てた司令部はそれら文書を破壊消滅させるため98式直協機に墜落現場を爆撃することを命令し実行が試みられたが、不十分なままだった。
*直協機:この小説ではこの略称しか登場せず解説もないのでWikipediaで調べてみると直接協同偵察機の略であることが分かった。大陸の戦線において前線の地上部隊と緊密に協同して偵察や観測および、地上攻撃(機関銃や爆弾攻撃による対地支援)を積極的に行う偵察機として開発・運用された。短距離離着陸性、低速安定性と良好な視界、整備性の高さが求められた。ついでに、この作品に登場する他の飛行機と共に写真を別掲する。98式直協機の大きな風防の特徴に偵察機として視界を良くした工夫が分かる。
実際は墜落機の負傷者は殆ど重症で救援もないため死亡する。そして生存者は結局3名。杉坂少佐と久野陸軍曹長。それから歩行困難な宮原陸軍中尉。歩行困難な宮原中尉は他の2人に無視され、遺棄される。中尉は」現地人や国民党軍が事故現場にやって来た中で、何とか隠れていたが、南方から来た現地確認の精強な機関銃中隊に発見・救出される。この宮原中尉の証言で日本側が事故状況を少し把握することとなる。
一方、歩行可能な杉坂少佐は当然のごとく命令書を破砕隠滅し、久野曹長と共に日本軍の駐留するはずの北西の珠江(しゅこう)周辺への逃避行となる。ところが、途中で敵軍に遭遇し、二人はばらばら。久野曹長だけが淡水の日本軍に合流できた。
国民党軍の無線傍受により、事故現場から逃走した2名の内1人と戦闘の末死亡となったことを知り、さらに現地へ派遣した中国人密偵が戦闘付近で日本軍人の首なし死体を見たと言う報告から、“杉坂少佐は斬首された”のであろうと推論された、という経過である。だが、具体的にどのような経緯で斬首に至ったのかは不明のまま、という。
著者は、こうした事件の調査結果の全貌を杉坂夫人に報告したと“あとがき”で言っている。“幸い夫人は詳細な事実を知って気持ちの整理がつきましたと仰っておられた”とのこと。少佐という高級軍人であっても、その最期について分かった範囲で当局は遺族に説明してはいなかったことが分かる。
他にもこの“上海号”同乗者に陸軍中野学校出身者がいたという。逸見達志と称していたが、実名は陸軍中尉・一式良。だが何故“上海号”に同乗していたのか不明のまま。ただ中国側の偽紙幣が大量に積み込まれていたことから、何らかの物資調達と経済混乱の謀略に使用する目的だったと推量できる。しかし彼は軍嘱託の民間人・逸見氏として死亡したものと処理され、陸軍軍人一式中尉として扱われず、家族へも連絡されないまま奥深い闇の中に葬られた、という。
この国の政府の特徴なのか、軍官僚の心情なのか、政府や軍のために命を懸けて仕事をしたにもかかわらず、落命した人々に対し、非常に冷たい対応であることに愕然とする。どうして、こういう政府・役人の対応となるのだろうか。こういう傾向は世界的に珍しいのではあるまいか。
前編の“「上海号」遭難事件”のあらすじはこんなところだが、ネタバレでつまらない、ということには決してならないはずだ。それは実際に本作品を読んで頂ければわかると思うが、登場人物の映像が皆、活き活きと目の前で動いているように思えるからだ。それは著者が登場人物に実際に会って、インタビューしているからだろう。当然ながら、残念だが杉坂少佐の映像は遠目にかすんだ印象となっている。ここまで、どうやら思わず前編だけを詳細に説明し過ぎたようだ。
陸軍の“マレー半島奇襲作戦”の準備は開戦の昭和16年11月5日の御前会議で決定された“帝国国策遂行要領”に基づき開始されたと言う。膨大な兵員と物資の輸送の伴う作戦企図の秘匿が大本営陸軍部とって最大の留意事項であったという。“乗船地は、内地、朝鮮、台湾、中国大陸その他の諸港がえらばれ、しかも大兵力を輸送するので、日本の保有する船舶約500万総トン中210万総トンの船舶が徴用され、その数は、大小あわせて400隻にも達した。”と言う規模であったという。これを中国海南島の三亜に一旦集結させ、ここからマレー半島上陸を目指すというもの。マレーを目指した船団規模は、将兵約2万人の乗船する輸送船18隻と海軍の護衛艦艇、重巡5隻、軽巡1隻、駆逐艦14隻、駆潜艇1隻、合計21隻であったという。
海軍の真珠湾攻撃の華やかさに比し、陸軍側のこれほどの規模の兵力移動について、その後もそれほど話題にならず歴史に埋もれてしまっていた。それを吉村氏が掘り起こした形になっているのではなかろうか。
だが、こうしたある種の旧軍による“作戦企図”という“陰謀”は奇跡的に大きな齟齬もなく上手く行ったと言えるのではあるまいか。だからこそ、緒戦での戦果甚大となったのであろう。そしてその後も、その幸甚に頼り過ぎたのではあるまいか。その後は全て後手を踏んで、敗戦となった。
それにしても、連合国側の現地軍司令部の警戒感は、日本側大本営のそれに比べて緊張感に欠けているかのように見える。本国のヨーロッパ戦線に気分が奪われていたのか、アジア人に対する蔑視意識が災いしたのだろうか。
ここにある小さな齟齬エピソードは“失敗した辻参謀の謀略”であろう。通信手段のあまり多くないこの時代、気心の知れない人々に少々込み入った謀略の完全実施を要求するのは困難なことなのだ。頭脳明晰を誇る人は、一般人の思いつかない奇策を計画する。正に、“策士、策に溺れる”の譬えであろう。
その奇策とは、英領マレーに隣接するタイ領のシンゴラーの領事館に兵員輸送のトラックと付近の歓楽街のタイ人女性を用意させ、奇襲で上陸した日本将兵にタイ軍の軍装をさせ、トラックにタイ人女性と共に載せて、マレー国境の英軍の検問には“日本兵が来た”と叫ばせて、敗残難民を装って国境を突破して、シンガポールを目指すというもの。
ところが現地領事館では英軍の侵入を警戒して暗号書を焼却してしまい、その後の指示電文を誤読し、日本軍の到着を1日遅く解釈しており、準備不十分で奇策は成立しなかったという。またこれもタイ政府との交渉齟齬により、タイ軍の抵抗が予想外に強く、作戦の予定通りの実行は完全崩壊したというもの。
ここでは登場しないが“マレー半島奇襲作戦”実行は12月9日だったが、開戦前に気懸りの種だった、英東洋艦隊の戦艦プリンスオブウェールズと巡洋艦レパルスを12日に海軍航空隊の陸上攻撃機が撃滅している。これが有名な“マレー沖海戦”で、航空機のみでも有力な海上戦力を撃滅できることを実地に証明した画期的な海戦だった。この後、海戦での航空優位となって行くが、肝心の日本海軍は大艦巨砲主義を捨てきれなかったという、矛盾した悲劇を生んで行くのだ。
何故、航空優位かというと、航空魚雷による攻撃の成功率はパイロットの普通の訓練で80%程度には容易に可能だという。ところが、水平線上(約40kmの距離)の標的に砲撃するとどんな優秀な射撃手でも約30%の命中率という。場合によっては波浪による射撃時の揺れや、着弾までの風が邪魔する外乱要素も多々ある。このため航空からの艦船攻撃の方が近接して攻撃できるので確実性が高い。また航空機では40km程度の距離は数分で到達可能で、見張り等で水平線からの捕捉が視認できていなければ、臨戦態勢も組めないまま攻撃される可能性が高い。この点でもレーダーの性能が低かった日本側は不利であった、とされている。
後編の“真珠湾攻撃まで”は海軍側の裏話エピソードのオンパレードである。ハワイ真珠湾の実情把握に、船会社従業員に扮して航路往復や、部門の違う偵察要員に相互警戒した話。攻撃前に連合艦隊が集結する択捉島中部の単冠湾(ひとかっぷわん)での秘匿に関する作業。水兵術課学校の生徒の大勢に東京見物をさせて、東京湾に大艦隊が寄港しているかのように偽装する話、等々だ。
この作品は1968年に書かれた。“あとがき”で“調査に快く御協力下さった多くの方々の御好意によって、この開戦記録は生まれた。私にとって、この種のものは再び書くことはないだろうが、陸海軍人230万、一般人80万の死者を生んだ太平洋戦争の開戦のかげにひそんだ事実をより明らかにする上で少しでも資することができるならば幸いである。”と書いている。やはり綿密で膨大な取材は、相当に大変な作業であったのだろうと想像できる。
しかし、著者は“この種のものを”再三再四、膨大な作品群として残している。この後には“陸奥爆沈”、“総員起シ”、“深海の使者”・・・と続いていて、吉村戦記物となっている。この作品群はいわば歴史に埋もれた戦記なのだ。嫌だ嫌だ!と一方では思いつつも、きちんとした作品を残して行くのが作家の使命なのかも知れない。宮崎駿監督も同じような気持ちを語り結局名作を残している。
オリパラ推進の日本のトップ・マネジメント3名は女性となった。これで本当にジェンダー・フリーなのか。
その選出プロセスに参加したメンバーの一人のJOC会長が“公開されると、スポーツ界、政界、さまざまな形で検討委員会のメンバーに圧力がかかってくる。私の経験から間違いないと思った。”と語ったという。
それ程、この世界の闇は深い。想像すらできない有象無象の利権社会なのか。日本では肝腎な部分に日の光の当たらない陰湿な部分があるのだろう。これでは進歩しない。結局、前会長はその利権・闇社会のドンだったのだろうか。これからは、代替わりのオバサン達が仕切るのか?
だが会長は決まっても、2020東京オリパラは安全に開催できるのか?具体的にどうやって開催するのか?決め手はワクチン接種だと思うが、順調に進むのか?
先週の週刊朝日(21年2月26日号)には、“ワクチン契約の「失敗」”と題してトップ記事が出ていた。曰く、“「最高機密」契約内容は自民PTにも開示せず/政府関係者が吐露「6月末までなどとても無理」”というのだ。要するに、先進7カ国G7で最も遅いワクチン接種国となった日本のワクチン・メーカとの契約が、数量契約だけでいつまでにどれくらいの量を受け入れるのか、納期と数量を示さない契約なので、“6月末”という期限を切ると、確実に確保できない見通しだという。厚労省の計画でも6月末には日本国民全員接種完了とはならない。これでは7月開催のオリンピックまでに十分な防疫体制は組めないこととなる。これで、安心・安全なオリパラが開催できるという確証があると言えるのだろうか。
また、そのような不安要素を抱えたままで、名誉だけのオリパラに海外の一流選手はやって来るのだろうか。日本全体がウィルス蔓延社会だと思えば、無観客でも来る気にはなれまい。
テニス全豪オープンは高額の優勝賞金が出ることもあり、ワクチン接種が行き届いていなくても、オーストラリアでの感染者数も低く、十分な防疫体制のため問題なく開催できている。ところがこの国では、PCR検査が十分でなく、感染抑制も一般人の“自粛”に頼るのみの不十分な状態で、それが可能なのか?
東京オリパラの安心・安全開催はどう考えても無理ではないのか。これ以上、無駄なことに資金と人員を割いておくよりも、早く新型ウィルス禍対策に政治の重点を移して、経済回復を狙うのが賢明な政策ではないか。
日本は地震・水害などの自然災害対策にも目配りが必要だ。兎に角、これから資金と人員がかかるのだ。“オリパラがなければ元気が出ない!”等とは本当か?それとも、闇社会の利権に引きずられて、没落する日本になるのか?
話は変わるが、“尖閣諸島の沖合で、15日から16日朝にかけて中国海警局の船4隻が相次いで日本の領海に侵入し、領海内で日本の漁船に接近する動きを見せた”という。海外公権力による明らかな“威力業務妨害”である。日本漁船を護る海保の動きを妨害すれば、“公務執行妨害”である。国際社会では、暴力を背景にしたこのような不法が認められるのか。日本政府による不法排除は確保してもらいたい。海保の尽力に期待したい。
そのための領海内での正当な公務執行、つまり武力行使はあっても当然であろう。
さて、今回は久しぶりに吉村昭の作品を読んだ。それは“大本営が震えた日”である。
吉村昭の戦前の戦記物は、いつも乾いた表現で事実のみが書かれていて、昭和戦前の軍人社会の雰囲気が良くわかるような気がする。アマゾンの紹介文は次の通り。
“(開戦の年)昭和16年12月1日午後5時すぎ、大本営はDC3型旅客機「上海号」が行方不明になったとの報告を受けて、大恐慌に陥った。機内には12月8日開戦を指令した極秘命令書が積まれており、空路から判断して敵地中国に不時着遭難した可能性が強い。もし、その命令書が敵軍に渡れば、国運を賭した一大奇襲作戦が水泡に帰する。太平洋戦争開戦前夜、大本営を震撼させた、緊迫のドキュメント。”
どうだろう、当時の中華航空の旅客機“上海号”遭難事件にまつわる動向だけで“大本営が震撼した”状態だと思えるではないか。だが、実際に読んでみると、そこから宣戦布告前のマレー半島奇襲攻撃準備から直前の態勢まで入って行き、さらには連合艦隊の真珠湾攻撃まで話は進んだ内容だった。要するに、“上海号”遭難によって重要機密文書が“敵”の手に落ちることを恐れて“大本営が震えた”話だけではなく、“上海号”遭難から真珠湾攻撃に至るまでの大本営の作戦企図秘匿の緊張の日々のドキュメントであった。次に、目次を示すがほぼ3編に分かれていて、最初が“「上海号」遭難事件”にまつわる内容で、中編が“マレー半島奇襲作戦”であり、後編が“真珠湾攻撃まで”という構成である。
“「上海号」遭難事件”から“マレー半島奇襲作戦”へ話が移行するのは“斬首された杉坂少佐”の中なので、私は話が転換したことに気付かず、内容にのめりこんで行っていた。後で話の変わっていたのに気づいて、どこが切れ目だったのか、読み直して驚いたほどである。著名な作品で、同じ章の中で違う話へ移行するということが有り得るのか、と今不思議に思うばかりである。編集者も気付かなかったのだろうか。それともワザとこのようにしたのか。中編から後編へは明確な章立ての変更があったのだから、どういう構成上の計算だったのか良く分からない。
“斬首された杉坂少佐”というのは、衝撃的表現だが、杉坂少佐が“上海号”遭難事件の部分の主人公となる。すなわち、12月1日の御前会議で12月8日に米英蘭へ宣戦布告をし、陸軍はマレー半島、海軍はハワイ真珠湾を奇襲することになった。それと同時に広東の第二十三軍にも英領の香港侵攻が下令された。ところが、この宣戦布告は奇襲成功のため、連合国側にはぎりぎりまで秘匿することとした。広東派遣の第二十三軍への作戦命令書は慣習に従って手交することとなり、参謀が現地軍に出張することになった。元々は杉坂少佐の役目ではなかったが、代行の代行で起用され、命令書伝達のため出張することとなった。南京から上海まで急行列車に乗り、上海から中華航空機“上海号”DC3旅客機に搭乗し、台北経由で広東に至る途中で、“上海号”が墜落遭難した。ところが、墜落現場は敵の国民党軍の支配地域であったため、その命令書が敵の手に渡れば、12月8日に宣戦布告が予定されていることが連合国側にも分かってしまうので、陸軍上層部は大本営も含めて慌てたのだ。また別に暗号解読文書も載っている可能性も出て来た。
墜落事故の現地からの詳細情報は当然なく、山間地も多く現場も不明のため、その捜索に広東飛行場の98式直協機*が起用され、この作品の冒頭の情景となる。天候不順で3日にようやく仙頭と広州の中間付近の獅朝洞高地に墜落していることが判明。生存者等詳報不明のまま、経過する中で慌てた司令部はそれら文書を破壊消滅させるため98式直協機に墜落現場を爆撃することを命令し実行が試みられたが、不十分なままだった。
*直協機:この小説ではこの略称しか登場せず解説もないのでWikipediaで調べてみると直接協同偵察機の略であることが分かった。大陸の戦線において前線の地上部隊と緊密に協同して偵察や観測および、地上攻撃(機関銃や爆弾攻撃による対地支援)を積極的に行う偵察機として開発・運用された。短距離離着陸性、低速安定性と良好な視界、整備性の高さが求められた。ついでに、この作品に登場する他の飛行機と共に写真を別掲する。98式直協機の大きな風防の特徴に偵察機として視界を良くした工夫が分かる。
実際は墜落機の負傷者は殆ど重症で救援もないため死亡する。そして生存者は結局3名。杉坂少佐と久野陸軍曹長。それから歩行困難な宮原陸軍中尉。歩行困難な宮原中尉は他の2人に無視され、遺棄される。中尉は」現地人や国民党軍が事故現場にやって来た中で、何とか隠れていたが、南方から来た現地確認の精強な機関銃中隊に発見・救出される。この宮原中尉の証言で日本側が事故状況を少し把握することとなる。
一方、歩行可能な杉坂少佐は当然のごとく命令書を破砕隠滅し、久野曹長と共に日本軍の駐留するはずの北西の珠江(しゅこう)周辺への逃避行となる。ところが、途中で敵軍に遭遇し、二人はばらばら。久野曹長だけが淡水の日本軍に合流できた。
国民党軍の無線傍受により、事故現場から逃走した2名の内1人と戦闘の末死亡となったことを知り、さらに現地へ派遣した中国人密偵が戦闘付近で日本軍人の首なし死体を見たと言う報告から、“杉坂少佐は斬首された”のであろうと推論された、という経過である。だが、具体的にどのような経緯で斬首に至ったのかは不明のまま、という。
著者は、こうした事件の調査結果の全貌を杉坂夫人に報告したと“あとがき”で言っている。“幸い夫人は詳細な事実を知って気持ちの整理がつきましたと仰っておられた”とのこと。少佐という高級軍人であっても、その最期について分かった範囲で当局は遺族に説明してはいなかったことが分かる。
他にもこの“上海号”同乗者に陸軍中野学校出身者がいたという。逸見達志と称していたが、実名は陸軍中尉・一式良。だが何故“上海号”に同乗していたのか不明のまま。ただ中国側の偽紙幣が大量に積み込まれていたことから、何らかの物資調達と経済混乱の謀略に使用する目的だったと推量できる。しかし彼は軍嘱託の民間人・逸見氏として死亡したものと処理され、陸軍軍人一式中尉として扱われず、家族へも連絡されないまま奥深い闇の中に葬られた、という。
この国の政府の特徴なのか、軍官僚の心情なのか、政府や軍のために命を懸けて仕事をしたにもかかわらず、落命した人々に対し、非常に冷たい対応であることに愕然とする。どうして、こういう政府・役人の対応となるのだろうか。こういう傾向は世界的に珍しいのではあるまいか。
前編の“「上海号」遭難事件”のあらすじはこんなところだが、ネタバレでつまらない、ということには決してならないはずだ。それは実際に本作品を読んで頂ければわかると思うが、登場人物の映像が皆、活き活きと目の前で動いているように思えるからだ。それは著者が登場人物に実際に会って、インタビューしているからだろう。当然ながら、残念だが杉坂少佐の映像は遠目にかすんだ印象となっている。ここまで、どうやら思わず前編だけを詳細に説明し過ぎたようだ。
陸軍の“マレー半島奇襲作戦”の準備は開戦の昭和16年11月5日の御前会議で決定された“帝国国策遂行要領”に基づき開始されたと言う。膨大な兵員と物資の輸送の伴う作戦企図の秘匿が大本営陸軍部とって最大の留意事項であったという。“乗船地は、内地、朝鮮、台湾、中国大陸その他の諸港がえらばれ、しかも大兵力を輸送するので、日本の保有する船舶約500万総トン中210万総トンの船舶が徴用され、その数は、大小あわせて400隻にも達した。”と言う規模であったという。これを中国海南島の三亜に一旦集結させ、ここからマレー半島上陸を目指すというもの。マレーを目指した船団規模は、将兵約2万人の乗船する輸送船18隻と海軍の護衛艦艇、重巡5隻、軽巡1隻、駆逐艦14隻、駆潜艇1隻、合計21隻であったという。
海軍の真珠湾攻撃の華やかさに比し、陸軍側のこれほどの規模の兵力移動について、その後もそれほど話題にならず歴史に埋もれてしまっていた。それを吉村氏が掘り起こした形になっているのではなかろうか。
だが、こうしたある種の旧軍による“作戦企図”という“陰謀”は奇跡的に大きな齟齬もなく上手く行ったと言えるのではあるまいか。だからこそ、緒戦での戦果甚大となったのであろう。そしてその後も、その幸甚に頼り過ぎたのではあるまいか。その後は全て後手を踏んで、敗戦となった。
それにしても、連合国側の現地軍司令部の警戒感は、日本側大本営のそれに比べて緊張感に欠けているかのように見える。本国のヨーロッパ戦線に気分が奪われていたのか、アジア人に対する蔑視意識が災いしたのだろうか。
ここにある小さな齟齬エピソードは“失敗した辻参謀の謀略”であろう。通信手段のあまり多くないこの時代、気心の知れない人々に少々込み入った謀略の完全実施を要求するのは困難なことなのだ。頭脳明晰を誇る人は、一般人の思いつかない奇策を計画する。正に、“策士、策に溺れる”の譬えであろう。
その奇策とは、英領マレーに隣接するタイ領のシンゴラーの領事館に兵員輸送のトラックと付近の歓楽街のタイ人女性を用意させ、奇襲で上陸した日本将兵にタイ軍の軍装をさせ、トラックにタイ人女性と共に載せて、マレー国境の英軍の検問には“日本兵が来た”と叫ばせて、敗残難民を装って国境を突破して、シンガポールを目指すというもの。
ところが現地領事館では英軍の侵入を警戒して暗号書を焼却してしまい、その後の指示電文を誤読し、日本軍の到着を1日遅く解釈しており、準備不十分で奇策は成立しなかったという。またこれもタイ政府との交渉齟齬により、タイ軍の抵抗が予想外に強く、作戦の予定通りの実行は完全崩壊したというもの。
ここでは登場しないが“マレー半島奇襲作戦”実行は12月9日だったが、開戦前に気懸りの種だった、英東洋艦隊の戦艦プリンスオブウェールズと巡洋艦レパルスを12日に海軍航空隊の陸上攻撃機が撃滅している。これが有名な“マレー沖海戦”で、航空機のみでも有力な海上戦力を撃滅できることを実地に証明した画期的な海戦だった。この後、海戦での航空優位となって行くが、肝心の日本海軍は大艦巨砲主義を捨てきれなかったという、矛盾した悲劇を生んで行くのだ。
何故、航空優位かというと、航空魚雷による攻撃の成功率はパイロットの普通の訓練で80%程度には容易に可能だという。ところが、水平線上(約40kmの距離)の標的に砲撃するとどんな優秀な射撃手でも約30%の命中率という。場合によっては波浪による射撃時の揺れや、着弾までの風が邪魔する外乱要素も多々ある。このため航空からの艦船攻撃の方が近接して攻撃できるので確実性が高い。また航空機では40km程度の距離は数分で到達可能で、見張り等で水平線からの捕捉が視認できていなければ、臨戦態勢も組めないまま攻撃される可能性が高い。この点でもレーダーの性能が低かった日本側は不利であった、とされている。
後編の“真珠湾攻撃まで”は海軍側の裏話エピソードのオンパレードである。ハワイ真珠湾の実情把握に、船会社従業員に扮して航路往復や、部門の違う偵察要員に相互警戒した話。攻撃前に連合艦隊が集結する択捉島中部の単冠湾(ひとかっぷわん)での秘匿に関する作業。水兵術課学校の生徒の大勢に東京見物をさせて、東京湾に大艦隊が寄港しているかのように偽装する話、等々だ。
この作品は1968年に書かれた。“あとがき”で“調査に快く御協力下さった多くの方々の御好意によって、この開戦記録は生まれた。私にとって、この種のものは再び書くことはないだろうが、陸海軍人230万、一般人80万の死者を生んだ太平洋戦争の開戦のかげにひそんだ事実をより明らかにする上で少しでも資することができるならば幸いである。”と書いている。やはり綿密で膨大な取材は、相当に大変な作業であったのだろうと想像できる。
しかし、著者は“この種のものを”再三再四、膨大な作品群として残している。この後には“陸奥爆沈”、“総員起シ”、“深海の使者”・・・と続いていて、吉村戦記物となっている。この作品群はいわば歴史に埋もれた戦記なのだ。嫌だ嫌だ!と一方では思いつつも、きちんとした作品を残して行くのが作家の使命なのかも知れない。宮崎駿監督も同じような気持ちを語り結局名作を残している。
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