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阪大サステナビリティ・デザイン学セミナー最終講“ものづくりのサステナビリティ”

先週、大阪大学サステナビリティ・デザイン学エクステンション・セミナーの今年度の最終講義があった。これは不特定多数に公開されたオープン・セミナーである。この冬季開催分は昨年11月10日から10回にわたって阪大中之島センターで開催実施された。このセミナーのPRパンフレットに曰く“持続可能性に関する活動のエクステンション・セミナーを10名の阪大教授と10名のゲストスピーカが実施する知的総力戦”とある。
考えてみれば、森羅万象あらゆるものが持続可能性サステナビリティに関する研究対象となる。いやこの世のあらゆる研究が全てサステナビリティに関わる研究であると言って良い。第1回は“地域”、第2回“都市システム”、第3回“世界の中の日本”、第4回“企業”、第5回“高齢社会”、第6回“郊外住宅”、第7回“健康生活”、第8回“安心快適に暮らせるまち”、第9回“都市交通”、そして最終第10回“ものづくり”となっていた。

私にとって非常に印象が強かったのは、第7回の“健康生活”という標題だが、内容は睡眠時無呼吸症候群SASについてであった。多くの人が自動車を運転し、交通機関が高速化、大量化している現代にあっては、都市の安全性に関わる重要な要因である。SASは意外に多くの人が罹患しており、ある調査ではプロのトラック運転手の約7%が そうであったという。そして、講師はJR西日本の尼崎脱線事故に言及し、運転手の体格や状況から見て明らかにSASであり、事故調査がその点に及んでいないのは、真の問題解決には至らない可能性があり 不適切であると指摘していた。

さて、今回の話題は最終第10回“ものづくりのサステナビリティ”の講義についての内容と感想についてである。“ものづくり”こそは、現代文明の基礎を構成している重要な要素であり、その点において この講義内容は重要であると見ている。

(1)循環型社会における設計:大阪大学大学院教授 梅田 靖 氏
(2)サスティナブルなものづくりの事例と成立要件:産業技術総合研究所 研究員 松本光祟 氏

要は、社会の持続可能な発展のために“広い俯瞰的視野”からの可能性の追求が必要であり、大量生産、大量消費、大量廃棄から脱却した“ものづくりビジネス”を目指す必要がある。それは、“製造業こそが「持続可能社会」を実現する鍵を握っている”からである。
そのためには 製品の製造から廃棄にいたるまでのライフサイクル設計(拡大生産者責任と汚染者負担の原則の遵守) を十分に検討する必要がある。低炭素社会(筆者は“省資源社会”と捕らえている)、循環型社会、自然共生社会の調和実現の中で成立する“ものづくりビジネス”の姿はどんなものなのか追求して行く必要がある。
リサイクル化している製造業の現状や、適量生産・高付加価値・最小化による“ムダレス化”を実現するために物理的寿命ばかりでなく、価値寿命も考慮する必要がある。
ビジネスにおけるリサイクル、リユースのための制度設計には回収にエネルギーを要してしまう点をカバーする工夫が必要であるが、困難な課題である。
以上のような 講義概要であった。

そして聴講者からの質問の時間となった。質問者の意図は ほんの少しテーマからずれているような気がしたのだが、そこには世相の本質を反映しているようで、面白い。
曰く“こんな話、30~40年前に聞いたように思う。ローマ・クラブだかが、資源がなくなると言い、宇宙船地球号を適切に運営操縦しなければならないなどと言っていたが、いつのまにか、そんなことは忘れてしまい、バブルに踊った。そしてまた、最近 こういった資源を大切にしようという話が盛んになって来た。こういう研究や学問のサステナビリティそのものは一体どうなっているのか。そもそも、今 言われているようなことは本気で考えて間違いないことなのだろうか。”
講演者にとっては 予想外の質問だったようで、質問内容の一部は肯定しつつ、資源有効利用は必要なことだと答えていたように思う。私なら、次のように答えてみせるつもりだった。
“そうなったは、日本のせいでもある。石油資源の限界性が分かって、石油ショックが起きたが、日本は省エネを徹底することでこの困難を克服し、世界第二の経済大国の地位を不動にした。また、石油資源そのものも、海洋での掘削技術の開発もあり、経済的に採掘可能な石油資源の範囲も広がり、資源不足の危機感が薄れた。しかし、その後も地球人口は増加し続け、90年代には崩壊した旧社会主義経済諸国や、特に中国やASEANの経済発展は著しく拡大し、世界の経済規模はさらに拡大して行った。このため、地球の持続可能性は着実に低下して行った。そして、今やこの低下した持続可能性について どうすれば良いのか議論している、というのが実態なのだ。”
この見解には多くの検証が必要かも知れぬが、大筋はほぼ間違っていないと思う。

さて本論に戻ろう。地球のサステナビリティのためには、つまるところ、資源をムダに使用せず、廃棄すら効率的にゼロ・エミッションを目指すような極限の製造業を目標とすることが、必要なことなのである、というのが結論であろう。
それは、よく了解したが、だがそれは経済を収縮させるベクトルを効かせることにしかなっていないのではないか。経済の収縮は 社会のサステナビリティにとっては脅威を引き起こすことになるのではないか。つまり、地球のサステナビリティを維持改善しようとして、その手前で 社会のサステナビリティが維持できなくなる可能性があるのではないか、という疑問である。そして その主旨で質問をした。
再び、講演者は困ったようだが、この点は講演者自身も問題であると認識していたようではあった。だが、適切な回答は用意できていなかったようだ。

私自身は その後 この疑問には 製造業に経済発展の全ての活力源を期待することが 間違っているのではないかと思い至ったのだ。人類社会史的に見て、狩猟、採掘や農業の第一次産業から 産業革命を経て本格的な第二次産業が人類社会の経済を支えるようになったため、どうやら製造業が規模収縮を起こせば、社会のサステナビリティが維持できなくなると思い込んでしまっているのではないか、と思い始めたのだ。
もちろん、規模縮小と言っても 経済活動結果のアウト・プットの量的な絶対的規模縮小を引き起こすことは大問題ではあるが、究極の効率改善による外形的規模縮小や、雇用の縮小であれば、地球の持続可能性には それこそ目的とするところなのであろう。だが、外形的規模縮小はともかく、雇用の縮小は社会のサステナビリティにとって問題となる。それには、第三次産業の発展による雇用の吸収ということが課題となるのであろう。ここに かつて読んだビル・エモット氏の“変わる世界、立ち遅れる日本”の主旨に沿った結論に至ることができるのであろうか。
これこそ、あのローマ・クラブの提言が出る前に話題になった“脱工業化社会”というコンセプトが 現実のものとなる社会なのだろう、と気付いたのだった。(そう言えば、当時話題になった“未来学”は その後どうなったのか。私自身は、そのようなものが“学”としては成立しないと思ってはいたが。) 考えて見れば、古代では第一次産業や第二次産業における“労働”は、奴隷や それに近い身分の下層階級の人々が担う“苦役”であったが、現代ではそれは高度にIT化された機械が担うように進歩したのであり、その結果、第一次、第二次産業の労働生産性は究極にまで高められている。これが文明の進歩と言うものだろう。従って、現代日本において第二次産業がいかに隆盛を極めたとしても、雇用が増えないのは当然であろう。
90年代に言われた3つの過剰を日本の製造業は克服した。その内の過剰雇用をようやく克服した日本の製造業に 無理矢理“雇用”を再度要求するのは間違ったことなのである。日本政府が、製造業重視の観点で景気回復を図るのは間違っているのであり、正しい政策はビル・エモット氏の言うように第三次産業へのテコ入れ、投資なのである。様々なサービス業、金融、教育、医療等々の産業育成である。
特に、大阪は“オモロイ大阪”を目指す 文化的、社会的基盤は整っているのであり、この観点で 特に大阪府はサービス業中心の投融資に乗り出すべきであると思っているが、どうであろうか。

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