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的場昭弘・著“マルクスだったらこう考える”を読んで

東京の感染者数が一向に減らず、20人台で推移している。
東京都内では6月2日、新たに34人の感染が確認され、同日東京アラートが発せられた。その後の新規感染者は2桁を下回ることなく推移しており、2週間前には結構自粛緩和が進んでいた傾向から、恐らく1週間後の来週には今よりかなりの悪化が見込まれる。そうなれば、新たに緊急事態への逆戻りも容易に想起される。
そこで、関西から東京へ越境して“環境システム審査員のためのCPD”のお勉強することは、相当無理な受講と見做される懸念が出てきた。そこで受講を断念し、教育機関に予約したプログラムのキャンセルを連絡した。

余計なことだが、都内区部では未だにPCR検査を絞っている保健所があると信頼できる人からの情報を得ている。又あるTV番組で、感染症専門家がPCR検査をもっと積極的にしてほしいと何度も訴えていたのは、暗にその情報と平仄が合うものと理解したものだった。
これでは東京都の発表している陽性率をはじめとするデータは信頼できないものと思われる。又このままでは隔離処置も不十分で、今後も感染者のかなり大きな増加が見込めるのではないかとも考えられる。
一方、私の地元・京阪神ではこのところ、新規感染者はない。事実6月に入って陽気がよくなり、既に治まった雰囲気すらある。そういう所からの上京移動は、不安と恐怖が先立ってしまう。どうして、東京都官僚の対応は、頑として修正されないのだろうか。無用の“屋形船”騒動も引き起こすような、酷い官僚群の印象だ。

米国と香港での暴動が、マスコミを賑わしている。この両者は全く異なるシチュエーションだが、同時期発生の事件としていることにおいて現代的である。
米国では依然として人種差別が無くならない。黒人大統領を選出した後になお、この状況である。現大統領がそれを煽っている問題があるのだろう。米国では大統領は“国民統合の象徴”であるにもかかわらず、トランプ氏は分断を積極的に煽っている。米国民はそれに踊らされているように見えるし、人の意識はなかなか変わらないものだ、とつくづく思うのだ。

香港は、“「一国二制度」は2049年まで約束されている”はずだったのを、少しづつ事実上壊して行こうとする、中国共産党の政策による、騒動だ。2049年頃には、今の中国共産党の政権が潰れているか、中国共産党自体が民主的に変化しているハズ、との英国の読みが外れた結果だ。その中共は、トランプの様々なイジメに耐えて、悪を極めてますます隆盛するかのようだ。そう考えると、香港市民の戦いはほぼ絶望的に見えるが、それにもかかわらずよく頑張っている。
本来は中国本土の虐げられた人民との連帯があって然るべきだが、中共政権のITを駆使しての強権維持が非常に有効に作用している。近未来社会の独裁体制を現実化させているのだ。間の反民主の政治体制である。恐ろしい現実が、そこにある。“今の香港、明日の台湾、将来の尖閣・沖縄”は計画通りに実現するのであろうか。実に、恐怖でしかない。

ついに“北朝鮮による拉致被害者家族連絡会”の創始者が亡くなった。拉致被害者奪還がライフ・ワークと胸を張った、首相の胸の内は果たしていかが、であろうか。政権にまで就いていながら、なおいったい何を為したのか。政権としてのレガシーが無い、と今更焦っているようだが、終始“やってるフリ”でやり過ごしてきた。そんなことで、何かを為せる程、世の中は甘くない。被害者とその家族を侮辱した結果になってはいないのだろうか。

この新型肺炎騒動で政府補助金を食い物にしようとしている企業が明らかになった。その企業はグループで徹底的に甘い汁を吸おうとしている。先ずは実体のないトンネル企業に受注させ20億を濡れ手で粟、次に本体が下請けて中抜き、子会社グループに丸投げしている。この企業たブラックで“勇名をはせた” 企業であり、マスコミにも大きな影響力を持っている。だから報道も及び腰だ。ブラック企業はどこまで行っても、あくまでもブラックなのだ。(トンネル会社には人材派遣の会社[口入屋]も出資しており、そこには小泉政権で御活躍の怪しい学者が役員で居る。)
この怪しい政権による政府のすることも、どこまで行っても姑息で怪しい。腐敗が徹底している印象だ。その政権をまだまだ支持する人が多いのには驚く。国民は自分以上の立派な政権を選べない、とはよく言ったものだ。
ブラックだからこそ生き残るのか。SDGSかまびすしい中での姑息な悪行、この国のうわべだけの真の姿、これが“美しい国”だろうか。もういい加減でそのマゾヒズムを止めようではないか。


さて、今回も読後感想への投稿である。的場昭弘・著“マルクスだったらこう考える”についてである。久しぶりのマルクス主義文献、と言いたいところだが、実は昨秋、同じ著者の“マルクスを再読する―主要著作の現代的意義”を読んでいて、今回はその読み直し版になるのか。というのは、実は両方とも2004年の刊行で、前者が12月で後者の単行本が2月の刊行。だから読み直し、というが出版とは順序が逆。いずれも似たような内容だが、結構読み応えがあるので、著作には結構エネルギーが要ったのではないかと思われる。昨秋読んだ“再読する”は、角川ソフィア文庫所収で、“こう考える”を参考文献として挙げていたので、今回追加的に読んだ次第だ。
本来は、“再読する”を読み終えたところで、ブログ投稿するべきであったが、付いて行くには内容的になかなかのものだったので、一旦、見送ったものだった。また今にして“こう考える”は入門編と思われるので、読む順序は“こう考える”から“再読する”へとする方が良かったように思う。著者もそのつもりで、この2冊を上梓したのではなかろうか。

若い頃、読んだマルクス文献では一般的に次のように書かれていた。マルクス主義は、フォイエルバッハの唯物論とヘーゲルの弁証法を合体させた弁証法的唯物論が哲学的な根幹となっている、と。だから、“弁証法的唯物論”という表題の本も読んだものだった。しかし、これらの的場氏の本では、フォイエルバッハなどはワードとして全く登場して来ない。“ヘーゲル弁証法”は方法論として取り上げなければならないので少しは登場するが、扱いはほとんどかすかだ。

それよりここで取り上げられる哲学者は、“スピノザ”だった。誰?それ?聞いたことあるような、ないような名前。そこで、“再読する”の読後、スピノザ解説本をこの自粛期間にも読んだ。しかし、浅学菲才につき消化不良で、このブログでも取り上げなかった。スピノザはユークリッド幾何学を美しい論理体系として、それをモデルに自らの哲学を構築した。したがって、その論理は簡明のはずと勝手に思い込んだのが間違いで、結構難しく全く歯が立たなかったのだ。
いずれ、もう少し読んで理解が進めば、これも紹介したい。そんな次第で、そういう背景を積み上げて、ようやく“マルクスだったらこう考える”に今回たどり着かせたのだ。お蔭で、著者・的場氏の思考の輪郭は理解できたつもりだ。
では何故、昔のマルクス思想紹介ではスピノザに触れられなかったのか、となるがどうやらマルクスの著作文献には、それが明示されなかったためのようだ。この辺りのことは第1章の末尾エピソード・ノート1に詳しい。その後に主に欧州の学者らによってこうした発掘があったようだ。マルクス学も進化しているのだ。

この本の序章には次の記述がある。少々長いが、これがこの本の概要と考えられるので引用する。
“マルクスは世界中に資本主義が行きわたる時代を前提にし、その頂点にある国(当時は大英帝国でした)が崩壊すると予言していたわけです。その意味で、アメリカがイギリスにとって代わろうと、資本主義を牽引している先進国、今のことばでいえば《帝国》(アメリカを中心としたヨーロツパ、日本といった先進国による資本の帝国の意味)でしょうが、それが社会主義へ変化すると考えたわけです。これは外れているわけではありません。『共産党宣言』の第一節の中で、「労働者は当面は国家の中で闘争する」としながら、本質的には「国際的な連帯が必要である」と述べている件がありますが、まさにそうした国際的な連帯の可能性が今出てきているといえるのです。
そう考えれば、マルクスは古くなったのでなく、今やっとマルクスが「読める」時代になったのかもしれません。とはいえ現在、彼の時代にはなかったさまざまな問題が存在します。だから今彼が出現するとしたら、おそらくフーコー、ドゥルーズといった構造主義やポスト構造主義の理論、そして新しい経済学の方法論を勉強するでしよう。昔のままの形で、マルクスが理論を展開することはないと思います。
それでも、基本的なモチーフである、資本主義社会はやがて行きづまる、搾取すべき労働を外部に求められなくなれば崩壊せざるをえない、という視点はまちがつてはいません。それを誰が崩壊させるか、新しい社会とはどんな社会であるか、などといつた問題を、新たに展開せざるをえないでしよう。”

ここでの《帝国》とは、“アントニオ・ネグリとマイケル・ハートとの共著『〈帝国〉』によるものであり、重要なキィ・ワードである。グローバリゼーションの進展に伴い出現しているこれまでとは異なる主権の形態を〈帝国〉と言うようだ。〈帝国〉の特徴は、その脱中心性かつ脱領域性にあり、アメリカが現代世界で特権的地位を占めているという「アメリカが帝国である」論ではなく、グローバリゼーションの究極のシステム”であるという。的場氏は“再読する”でこれを“一種の機械装置”であると言っている。(ところでネグリもスピノザ研究者という。)

資本主義の成熟の結果、世界はこの《帝国》に収斂され、その内部での階級分化、資本とプロレタリアートの2極化がさらに進展することで、マルクスの想定した社会情勢が醸成されるという見通しなのだ。だから、“マルクスは古くなったのでなく、今やっとマルクスが「読める」時代になった”と言っているのだ。現に、日本の階級分化はどんどん進展している。

ここではロシア革命の結果成立した、ソヴィエト政権をも巨大国家独占資本主義であり、資本主義の亜種だとしている。ならば、社会主義市場経済と称している中共も、資本主義の亜種であることは明白だ。
そうであれば、それが正しい考え方だとは思うのだが、人類社会は歴史的にレーニンや毛沢東に騙されていたことになる。彼らはいわば、遅れた経済社会だったのを、偽の“マルクス主義革命”によって、巨大国家独占資本主義を形成し何とか現代資本主義社会に“追いつき”、中共は主要部で“追い越した”ことになる。
しかしこの本では、残念ながらその脅威が未だ希薄だった中共についてのコメントが全くないことだ。この本が2004年の刊行であったことによるものであろう。時代の変化というか、中共台頭の速度には驚かされる。
絶対主義のような権威主義政権は、王権の維持にコストがかかり過ぎて、持続性が乏しいとの評価がこの本では示されているが、こういう考え方からは、前段で述べたように中共政権は権力維持コストがかかり過ぎている。それがどうやら弱点と思われるが、残念ながら彼らはITの活用によって巧みにカバーしている。従って、彼らのシステムを打ち破るウィルスが持ち込めれば、彼らは崩壊するはずなのだが。

この本では、先述のネグリの〈帝国〉、実存主義と構造主義から、サバルタン論、ポストコロニアル論、クイア理論からフェミニズム論までと、マルクス思想と関連する思想が、“ヒューマニズム”の観点から多く紹介されている。そうだ、“ヒューマニズム”と言えば昔は“疎外”という言葉もこういった場面では頻出したものだが、この本では“他者”が使われていて、“ヒューマニズム”や“疎外”というワードは一切登場しない。
また、各章の末尾のエピソードでは、マルクスの人となりも紹介されていて面白い。若い頃、記憶違いかもしれないが岩波新書のある1冊で紹介されていたマルクス像とこれも少々異なる印象である。その本は絶版のようだ。これも研究の成果であろうか。そこではマルクス自身を神格化することなく、ヴィクトリア朝時代に生きる人物の限界を率直に解説してくれている。こうしたことから、逆に著者・的場氏の人柄の暖かさも伝わってくるような気がした。
マルクスは“貧しかった”という印象が強く、一時的にエンゲルスの援助が途絶えた時には食にも困ったとの話だったように思っていたのだが、中産階級としては“貧しかった”というもので、“食に困ることは無かった”ようだ。女性には少々だらしなく、“自信家で傲慢で、人の意見に耳を貸さない男”だったという定評は変わっていない。

マルクスは“共産党宣言”の最後で“万国の労働者、団結せよ”と言っていると昔から私は理解していたが、この本の最後にはそれを“正確”に表現して、“あらゆる地域の労働者よ、団結せよ”と言ったとしている。著者はさらにそれを修正して“今マルクスが生きていたら、たぶんこう変えるでしょう。「すべての地域の『他者』よ、団結せよ」と。”で終わっている。
何故、“万国の”→“あらゆる地域の”であり、“労働者”→“他者”と変わっているのかは、この本を読んで頂きたい。 

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