The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
“宮本武蔵”を見た あるISO審査員の妄想
先週、久しぶりに “宮本武蔵”を時代劇テレビドラマで見た。これまで放映されたテレビドラマや映画、演劇はほとんどが吉川英治の同名の小説を下敷きにしているので、あらすじや登場人物は大筋において変わりはないのが、他の時代劇ドラマと大きく異なる。なのでどのように脚色しているか、殺陣は どうか、配役は・・・と言った点に注目してしまう。
主催したテレビ局のweb上のPRページによると、“テレビ朝日開局55周年記念ドラマスペシャル”とあり、“木村拓哉が剣豪宮本武蔵の『真』の姿に挑む”ともあり、決まり文句の“豪華キャスト”のキャッチフレーズが並ぶが、見た全体の印象は“軽薄”なものとなってしまっている。殺陣もリアルさを強調しようとして気合が入ってはいたようだが、それが返ってやくざの“喧嘩剣法”のような印象を与え、“軽薄”さを浮き彫りにしているような気がした。キムタクの動きは全般には良かったように見えるが、腰の動きが違うのではないかと思われる個所があり、武道を心得ていない人にキャスティングするのには無理があったのではないか。果たして武道の専門家はどう見たであろうか。
吉川英治の小説は、文庫本で8分冊の長編であるが これを数時間のドラマに仕立てるのに相当な無理をしていて、これも重厚感を喪失している原因ではないかと思われる。例えば、剣の道を 生きるに値しないものと思った武蔵が、その佩刀を海に捨てるが、それを思い直した時浜辺でその刀を見つけ直すというのはあり得ないことで、非常に無理な脚本になっている。
さて、とは言うものの“求道者の生き様”をテーマにしていることに、結構日本人が興味を持っており、幾度もテレビドラマや映画、演劇で、繰り返し取り上げられるというのも、さすが吉川英治が国民文学、大衆小説の作家と呼ばれる所以だと思う。最近は、国民文学と言えば、司馬遼太郎だが、司馬の小説は 自ら調べた挿話を紹介する部分が多すぎるという難がある。一方、吉川の文体は平易で読みやす過ぎて、重要な部分も意識しないうちに読み過ぎてしまっていることが多いような気がする。
私も、“求道者の生き様”のテーマには興味があるし、生死を懸けた試合に臨む緊張感は、物語としても面白い。それにしても、遊郭から 果し合いに出かけると言う強靭な精神は、どのようにすれば獲得できるものであろうか。何が キィ・ポイントになるのか、それは このドラマを見ても、小説を読んでも、残念だが ついに分かることはない。
しかし、試合に生死を懸けるのであるから、実際には恐らくは相手をできる範囲で徹底的に調べ上げるものだろうし、事前に設定された、果し合いの場所も調べるものではなかろうか。この部分も小説は丹念には語ってくれていない。だが、吉岡一門を うち滅ぼした試合場所の 三十三間堂や一乗寺下がり松、ひいては小次郎との巌流島については、入念に調べ、どの方向から何時 その場に登場するべきかまで考えたに違いないものと考えるのが普通であろう。だから、わざと遅刻する場合もある。
そう言えば、最近 私も環境マネジメント・システムの審査をする機会が増えてきたが、審査先のサイト、つまり立地上の地理的条件や、それに伴う地域特有の法規制等を調べ、さらにはその組織のホームページを検索して、業態、業容や組織沿革などを知った上で、提出されたマニュアル等の資料を見て、質問事項を考えるようにしている。場合によっては、指摘事項も想定で作り上げ、その想定に沿って質問することにしている。
面白いことに、マニュアルの記述で疑問符が付くようなところには大抵問題点があるもので、事前の想定の8割方は当たっているように思っている。そこを詮索すれば、その組織特有の悩みは何らかの形で存在しているものだ。
そこで、どのような表現で どのように是正処置をとってもらうのか、具体的イメージを持って指摘できるかが審査員の力量となる。ここでの切れ味のよい、小気味よい切り口、それが問題となる。
そうなのだ。柳生石舟斎の切った菊の花の茎の切り口なのだ。かつて ISO審査員の研修で講師が言われた“審査はアートだ!”との言葉を思い出した。それは、こういうことだったのだと、ここに至ってようやく了解できるようになった。
そう、審査は 試合なのだ。そう思えば身が引き締まる。
ところが、どうやら世間にはマニュアルの事前提出無しで、審査をすることを受け入れている審査機関があると聞いた。社内情報を外部に持ち出さずに、審査をするためだという。組織とその運営の仕組みを見る限りにおいて、その運営のルールを事前に知ることは必要なことだ。それなして限られた時間内で審査をするというのは、目隠しして果し合いをしろと言うようなもの。これでは、どんな名人でも十分な動きは出来ず、切れ味の悪い審査しかできないのではないか。否、あらぬ箇所を斬ってしまうことも起こりうる。
これに対し、実は私の所属する審査機関は マニュアル以外に改善計画とその活動実施状況が分かる記録と、マネジメント・レビューの記録の事前提出も求めている。これにより、判定委員会が審査員による審査結果報告の適切性も見られる仕掛けになっている。これは、審査員の質を維持するのには重要な仕掛けだ。
つまり、“社内情報を外部に持ち出さずに審査をする”としている審査機関は、審査員お手盛りの一方的な審査結果報告で、全てを判断することになる。その上、マニュアルまたは それに準じる文書は公開が原則のはずで、それを内部情報として秘匿する意味はないはずだ。ある意味組織活動の透明性・公開性を拒んでいることになり、そのような組織に社会的責任を語る資格はないのではないか。
そんな制約があっては、適切な審査ができないばかりでなく、場合によっては審査員の“作文”によって、どのような組織も認証取得が可能となってしまう。それは、“審査の堕落”を意味し、結果的に本末転倒となってしまう。もし、このような審査実態が蔓延しているようであれば、それはISO審査の意義を失い、死を意味するのではなかろうか。
さて、話を戻したい。こうして見て来ると審査そのものが、審査員の力量を見るためのものになっていることに気付く。審査は被審査組織の 規格要求事項への習熟度を見るのが本来ではあるが、重大な不適合がない限り、また被審査側に軽微な不適合を是正する意思がある限りにおいて、認証取得が可能であるからには、後は 審査における審査員の力量を試す機会になってしまっているのは当然のことだろう。
そうなると、被審査組織は試し切りの巻き藁になってしまう。つまり、審査報告書は あの菊の茎の切り口ではなく、巻き藁の切り口だ。切れ味悪く、ギザギザになっていれば、それは審査員の刀つまり規格条項の選択の良し悪しの結果であり、それこそ斬った切り方も問題となる。
ある意味において、審査は審査員と判定委員会の 勝負の場と考えた方が良いのかも知れない。それが実態であるとすれば、被審査組織の 規格要求事項への習熟度を見るためには、どうすれば良いのであろうか。
主催したテレビ局のweb上のPRページによると、“テレビ朝日開局55周年記念ドラマスペシャル”とあり、“木村拓哉が剣豪宮本武蔵の『真』の姿に挑む”ともあり、決まり文句の“豪華キャスト”のキャッチフレーズが並ぶが、見た全体の印象は“軽薄”なものとなってしまっている。殺陣もリアルさを強調しようとして気合が入ってはいたようだが、それが返ってやくざの“喧嘩剣法”のような印象を与え、“軽薄”さを浮き彫りにしているような気がした。キムタクの動きは全般には良かったように見えるが、腰の動きが違うのではないかと思われる個所があり、武道を心得ていない人にキャスティングするのには無理があったのではないか。果たして武道の専門家はどう見たであろうか。
吉川英治の小説は、文庫本で8分冊の長編であるが これを数時間のドラマに仕立てるのに相当な無理をしていて、これも重厚感を喪失している原因ではないかと思われる。例えば、剣の道を 生きるに値しないものと思った武蔵が、その佩刀を海に捨てるが、それを思い直した時浜辺でその刀を見つけ直すというのはあり得ないことで、非常に無理な脚本になっている。
さて、とは言うものの“求道者の生き様”をテーマにしていることに、結構日本人が興味を持っており、幾度もテレビドラマや映画、演劇で、繰り返し取り上げられるというのも、さすが吉川英治が国民文学、大衆小説の作家と呼ばれる所以だと思う。最近は、国民文学と言えば、司馬遼太郎だが、司馬の小説は 自ら調べた挿話を紹介する部分が多すぎるという難がある。一方、吉川の文体は平易で読みやす過ぎて、重要な部分も意識しないうちに読み過ぎてしまっていることが多いような気がする。
私も、“求道者の生き様”のテーマには興味があるし、生死を懸けた試合に臨む緊張感は、物語としても面白い。それにしても、遊郭から 果し合いに出かけると言う強靭な精神は、どのようにすれば獲得できるものであろうか。何が キィ・ポイントになるのか、それは このドラマを見ても、小説を読んでも、残念だが ついに分かることはない。
しかし、試合に生死を懸けるのであるから、実際には恐らくは相手をできる範囲で徹底的に調べ上げるものだろうし、事前に設定された、果し合いの場所も調べるものではなかろうか。この部分も小説は丹念には語ってくれていない。だが、吉岡一門を うち滅ぼした試合場所の 三十三間堂や一乗寺下がり松、ひいては小次郎との巌流島については、入念に調べ、どの方向から何時 その場に登場するべきかまで考えたに違いないものと考えるのが普通であろう。だから、わざと遅刻する場合もある。
そう言えば、最近 私も環境マネジメント・システムの審査をする機会が増えてきたが、審査先のサイト、つまり立地上の地理的条件や、それに伴う地域特有の法規制等を調べ、さらにはその組織のホームページを検索して、業態、業容や組織沿革などを知った上で、提出されたマニュアル等の資料を見て、質問事項を考えるようにしている。場合によっては、指摘事項も想定で作り上げ、その想定に沿って質問することにしている。
面白いことに、マニュアルの記述で疑問符が付くようなところには大抵問題点があるもので、事前の想定の8割方は当たっているように思っている。そこを詮索すれば、その組織特有の悩みは何らかの形で存在しているものだ。
そこで、どのような表現で どのように是正処置をとってもらうのか、具体的イメージを持って指摘できるかが審査員の力量となる。ここでの切れ味のよい、小気味よい切り口、それが問題となる。
そうなのだ。柳生石舟斎の切った菊の花の茎の切り口なのだ。かつて ISO審査員の研修で講師が言われた“審査はアートだ!”との言葉を思い出した。それは、こういうことだったのだと、ここに至ってようやく了解できるようになった。
そう、審査は 試合なのだ。そう思えば身が引き締まる。
ところが、どうやら世間にはマニュアルの事前提出無しで、審査をすることを受け入れている審査機関があると聞いた。社内情報を外部に持ち出さずに、審査をするためだという。組織とその運営の仕組みを見る限りにおいて、その運営のルールを事前に知ることは必要なことだ。それなして限られた時間内で審査をするというのは、目隠しして果し合いをしろと言うようなもの。これでは、どんな名人でも十分な動きは出来ず、切れ味の悪い審査しかできないのではないか。否、あらぬ箇所を斬ってしまうことも起こりうる。
これに対し、実は私の所属する審査機関は マニュアル以外に改善計画とその活動実施状況が分かる記録と、マネジメント・レビューの記録の事前提出も求めている。これにより、判定委員会が審査員による審査結果報告の適切性も見られる仕掛けになっている。これは、審査員の質を維持するのには重要な仕掛けだ。
つまり、“社内情報を外部に持ち出さずに審査をする”としている審査機関は、審査員お手盛りの一方的な審査結果報告で、全てを判断することになる。その上、マニュアルまたは それに準じる文書は公開が原則のはずで、それを内部情報として秘匿する意味はないはずだ。ある意味組織活動の透明性・公開性を拒んでいることになり、そのような組織に社会的責任を語る資格はないのではないか。
そんな制約があっては、適切な審査ができないばかりでなく、場合によっては審査員の“作文”によって、どのような組織も認証取得が可能となってしまう。それは、“審査の堕落”を意味し、結果的に本末転倒となってしまう。もし、このような審査実態が蔓延しているようであれば、それはISO審査の意義を失い、死を意味するのではなかろうか。
さて、話を戻したい。こうして見て来ると審査そのものが、審査員の力量を見るためのものになっていることに気付く。審査は被審査組織の 規格要求事項への習熟度を見るのが本来ではあるが、重大な不適合がない限り、また被審査側に軽微な不適合を是正する意思がある限りにおいて、認証取得が可能であるからには、後は 審査における審査員の力量を試す機会になってしまっているのは当然のことだろう。
そうなると、被審査組織は試し切りの巻き藁になってしまう。つまり、審査報告書は あの菊の茎の切り口ではなく、巻き藁の切り口だ。切れ味悪く、ギザギザになっていれば、それは審査員の刀つまり規格条項の選択の良し悪しの結果であり、それこそ斬った切り方も問題となる。
ある意味において、審査は審査員と判定委員会の 勝負の場と考えた方が良いのかも知れない。それが実態であるとすれば、被審査組織の 規格要求事項への習熟度を見るためには、どうすれば良いのであろうか。
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