The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
京都北山の三尾三山拝観―予期せず始まり予期せず終わった
“正義がねじれている”米国がシオニストのホロコーストに援助している。ロシアがこれに抗議している。一時停戦に米国が拒否権を行使した。米国はガザで大勢が命を奪われることに関与しているのだ。
そんな中でガザのキリスト教系のアル・アフリ病院が攻撃された。そして500人が虐殺された。原因はどちらの仕業なのか。そんな緻密な原因調査をして局所的問題を明らかにしても意味がない。ガザでの他の医療施設もシオニストの攻撃に晒されて破壊されている。この大本の原因はシオニストのガザ封鎖と絶え間ない空襲による。それのみが真実だ!
“パレスチナにとって抵抗あるのみ”の主張の正当性は高まっている。シオニストによる人道破壊なのだ。
シオニストは米国で蔓延っている。米政権の生殺与奪権を握っているのだ。
日大副学長にけったいな考えを持った検察OBが居ることが判明した。検察官の考え方が、このようなのかと思うと背筋がゾッとする。日本の検察官がこのような恣意的な思いで仕事をしているのかと。検察官の思考が腐っている!これは大変な問題なのだ!近代国家としてアウト!これではSDGsもいい加減になる。日本は反SDGs国家なのだ!ウソを平気でスローガンにする!
日本のプロ野球もクライマックスシリーズという仕掛けが面白い。
広島の監督と阪神の監督の舌戦も漫才みたいでオモロかった。広島・新井監督は広島で“がむしゃらに。カープの全員野球で、高校球児のように戦ってきたい”と言ったのに対し、阪神・岡田監督は“高校野球やろ?ウぉーん、金属バットはあかんで!”と返した、という。
そやけど、新井監督はシーズン前期待されていなかった。一時は金本氏を追って、阪神に移籍までしたのだが、夢破れて広島に戻った。これに地元では非難の声すら大きかった。しかしその後のカープでの功績も認められ、ようやく無事引退できた。しかし、こに来てカープの人材の世代交代が途切れたところで、適当な監督候補がいない。で、白羽の矢が当たった。球団にそんなに期待されない中、監督としてここまでよくやったと言える!素晴らしい指導者なのだ!
さて、先週は三尾三山を訪れたので紹介したい。というか、本当は神護寺に行ってみたかったので、出かけたという次第だ。う~ん、行くにしてもタイミングを選んだつもりだったが、それには見事に失敗したのだった。というのも、紅葉で有名な場所だったので、少し早いのかなと思って行ったのだが、微かな紅葉の気配しか感じられなかったのだった。
そして何故、神護寺かというと、私はご存知のように一時密教の空海に興味を持っていた。神護寺は空海が最澄に彼の大勢の弟子たちと共に灌頂を行った寺として有名であったからである。Wikipediaによれば、“灌頂(かんじょう)とは、菩薩が仏になる時、その頭に諸仏が水を注ぎ、仏の位に達したことを証明すること。密教においては、頭頂に水を灌いで諸仏や曼荼羅と縁を結び、正しくは種々の戒律や資格を授けて正統な継承者とするための儀式のことをいう。”
神護寺にはその記録が神護寺のウェッブサイトの寺宝紹介の“灌頂暦名”のところに掲載されている。曰く。
“空海が密教の入門儀式である結縁灌頂を行った手控えで、弘仁三年(812)十一月、十二月、翌年三月の三回分の記録。
結縁者の筆頭に最澄の名が記されているのも印象的である。
また、最澄、空海が決別する原因のひとつとなった泰範の名が記されているのも興味深い。”
言わば、僧としては後輩の空海が最澄に密教の“資格を授けた”ことになっているのだ。空海は京都の山奥の神護寺に居て、そこでわざわざ比叡山から大勢の弟子を引き連れてやって来た最澄に灌頂を与えたのである。それが、どんな場所だったのか、知りたいではないか。
それに、栂ノ尾高山寺には国宝・鳥獣人物戯画、神護寺には源頼朝像を含む神護寺三像がある。まぁ、そんなことで、一度は行ってみたいと思っていたのだ。
実を言うと審査報告書を携えて午前の早い内に京都の審査事務局に立ち寄って、ついでに行った。それでこのタイミングとなったのだ。その計画し実行したコースを下の図に示す。当初は神護寺から回ることにしていたが、先ず遠くに行って戻る方が合理的と思い直して高山寺からとした。始めはどっちが遠いのかの感覚すらなかった。
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そのタイミングがまずかったのではないかと思い始めたのが、バスから見る途中の景色でやはり紅葉はまだまだの観だったこと。それに大いに失敗だったと思い知ったのが、バスで現地・栂ノ尾バス停に着いてからであった。現地に着くのは、12時前。大抵の飲食店は開いているハズだったのだが、到着してみると閉店ガラガラだったのだ!結構、観光というか拝観客はいるのに、ダ!ナントイウコト?複数ある店の1軒も開いていない。京都観光にこういうエア・ポケットが存在するのは驚きだ。仕方ない食べられないのだったら、食べられる所まで突進あるノミ!と腹を据えた。このところ消化器系の体調も万全ではなく、幸い空腹ではないのでまぁイイカッ!予期しなかったことだ。
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山際から高山寺参道を登り始める。バス停に近い側からなので、裏参道になる。それでも参道途中で拝観券を売るブースが設けられていた。“少し行かれると石水亭に出ます。そこでまた入場料を払っていただけると中に入れます。”との説明に“そこで鳥獣戯画はみれるのですか?”というと“そうです。複製画が見れます。”とのことだった。ついでに飲食店の状況を聞こうかと思ったが、多分返答に困るのではと思い止めた。
やがて石垣と白壁に囲まれた一画に出る。石水院の表示がある。下足して、入場料を払う。例によって建物内部は撮影禁止。建物西側から迂回して回る。この建物は明恵上人時代の唯一の遺構とのこと。
内部に明恵上人樹上坐禅像や鳥獣人物戯画が展示されている。この鳥獣人物戯画は謎が多いと聞いている。はじめは鳥羽僧正が作者と聞かされていたが、今は作者不詳。それに甲巻のウサギ中心の絵、何故、ウサギなのかも分かっていないらしい。けったいなのは、大きさの違うカエルとうさぎで同等の大きさに描き、しかもカエルがウサギに噛みついて、投げ飛ばしている。(相撲:丁度その絵が展示)それは何を意味しているのかも謎のまま、だという。
明恵上人はWikipediaによれば、“鎌倉時代前期の中興の祖と称される。法諱は高弁(こうべん)。栂尾上人とも呼ばれる。父は平重国。母は湯浅宗重の四女。現在の和歌山県有田川町出身。”また上人は釈迦にあこがれてインドへ渡ろうとまでしたという。
石水院を出て、しばらく登って行くと左手に開山堂のある所に出る。明恵上人の座像が当初安置されていたというが今もそうなのか説明が無いので分からない。重文なので、ここに保存ということは考え難い。この建物は江戸時代に再建とのこと。左手に新しそうな聖観音像があるが何の説明もない。さらに登って行くとやがて明恵上人御廟に出る。拝。
そこから道は水平に。やがてまたしても新しそうな石の仏足跡が木造の囲いの中に展示されている。これにも何の説明もない。
さらに水平の道に沿って行くと金堂にでる。これも江戸時代に仁和寺古御堂を移築したとのこと。ここから道は下りに入る。そして、本来の参道入口に至った。
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高山寺を出ると、そこは国道162号線・周山街道。間歇的にものすごい勢いの交通がある。この山奥に何があるのか不明だが生活線でもあるようだ。しかしこの辺り開いている飲食店はない。宿泊施設も営業していない様子だ。1軒ぐらい開いていても良さそうなのだが、観光地の割に、しかもこうやって拝観者がしかも三々五々いるのに冷たい印象だ。皆はどこで食事するのだろうか。
清滝川を横切ってしばらくして、目の前に“うどん”と書いたのぼりが目に入った。目を疑ったが間違いなかった。店に入ったが店主がいない。客か店の人かわからぬ爺さんが、眠っているのか起きているのか分からないような状態で出入り口付近に座っているだけ。店の奥、居室に向かって“コンニチワ”と言うが甲斐なく反応なし。困って、店の出口に行きかけると、御婆さんが寝ぼけまなこで出て来たよう。“スンマセン。何ご注文?”と。
そこで、ようやく親子丼にありつけた。料理は意外に早く出て来た。
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店を出る時、“三明寺へはここを下るの?” “そう!赤い橋が目印”と言われた。
たった1軒の飲食店。若い人は居ないのか。日本のここかしこの問題かも知れぬが今後が心配。
店から下って、楽に直ぐ赤い橋に到達した。西明寺らしき表示の石柱が立っていた。ここからは登りだが、直ぐに表門に出る。
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本堂に入り込んでようやく拝観受付。ここは仏像がご自慢のようで、灯明の結界の前に出ても構わないからよく見てくれとのことだったが、この場合大抵覗き込んでも暗くて見難くてよく分からないことが多いものだ。それに写真撮影禁止なので味気ないから殆どスキップ。
本堂東側にお庭があった。後からウェッブサイトには苔庭とあったが、それがあれなのか。それより、本堂と鐘楼に囲まれた広場に大きな楓の木があった。紅葉すれば見事なハズ。
客殿から西に出る道を進んだ。また川を渡る。何の変哲もない灌頂橋。平坦な道を神護寺に向かって歩く。あずま屋があって川にせり出している。もみじの木であろう緑の枝がさらに川向うにかかるほどせり出ていて先が良く見えないが、また赤い橋があった。どうやら高雄橋。
ならば、ここから神護寺に登る口。宿泊施設があった。そこには喫茶室もある。だが、ここはもうひと頑張りとばかり、登頂の石段にアタック開始。一旦登り切ってヘアピン折り返し点で仕事の連絡電話を受ける。これ幸いと休憩。息を切らせながらの応答、スーハ―スーハ―に相手はどう思っているかナ。
左手に茶店・高雄茶屋があるが、一部だけ洋モノ・レシピだけのようで“営業中”とあったが、そのようには見えない。さらに上り詰めると、硯石亭に出た。ここは行ってみるつもりだったが、帰りに寄ろうと。
ここで折り返すと、やがて神護寺楼門に至る。しかし、これが少々辛かった。入口で拝観料、他より100円高く600円。楼門を出ると、視界が開け山上には稀な台地があって驚いた。右手に書院とある建物群があるが、非公開のようだ。和気公霊廟と明王堂が続く。
神護寺は和気清麻呂*が開基。“真言宗の古刹。もとは和気氏の氏寺。809年(大同4)から14年間空海(弘法大師)が住持、その後、荒廃したが、平安末期、文覚上人が再興。国宝の薬師如来像をはじめ平安、鎌倉時代の仏像、絵画、書跡などが多く残る。梵鐘(国宝)は日本三名鐘の一つ。紅葉の名所。建立:781(天応元)年(奈良時代)”
*和気清麻呂[733~799]奈良末期・平安初期の公卿。備前の人。道鏡が皇位に就こうと企てたとき、宇佐八幡の神託によりこれを阻止して怒りを買い、大隅に配流。道鏡の失脚後、光仁・桓武天皇に仕え、平安遷都に尽力した。
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広場が尽きるところに五大堂がある。左にその毘沙門堂がある。この毘沙門堂に周り込んで南側から山を見上げれば、石段の上に金堂が見える。伽藍配置は南から、毘沙門堂、五大堂、金堂、多宝塔となっている。
さぁ、石段を登れば金堂。立て札に次のように書かれている。“大阪の豪商・山口玄洞氏のご寄進により昭和十年に建立された金堂は、入母屋造本瓦葺、内陣には一本造の本尊国宝薬師如来立像を安置、左右に重要文化財日光月光両菩薩と、室町時代の四天王・十二神将の諸像が並び立つ。また脇壇にも如意輪観音・地蔵・大黒天・弁財天の座像を祀る。”(本尊薬師三尊は、延暦年間[782年~806年]の造立とされる)
中は赤い柱が立ち並んでいて北側の壁に諸像が並んでいる。西側の隅に例の大きな頼朝の像*が立てかけてあった。
*縦143cm、横112.8cm。神護寺三像の一幅。Wikipediaによれば、“通説では、源頼朝・平重盛・藤原光能の肖像画とされ、12世紀末の似絵の名手藤原隆信の作とされてきた。しかし、1995年に頼朝像は足利直義、重盛像は足利尊氏、光能像は足利義詮の肖像画であるとする新説が発表され、以後、像主・成立時期などをめぐって論争が続いている。”
堂内をうろついている内に、おみくじがあり、百円玉を置いて勝手にみくじ筒を振り回し中の棒を一本取り出したが、五番だったので、引出から中の短冊状の紙を取り出した。何だか五番がやたら多いな!と思って、内容を見始めるとロクでもないことが書かれていて、よく見ると一番上に“凶”とあって驚いた。あ~ぁやってしまった!一瞬、疲労が増した。こんな経験は初めてだった。が、それを知った瞬間から、それまで“凶”だった状態から変化するものだと思った。そう思って逆に少々愉快になった。金堂からおりて、下にあった縄張りにみくじを縛り付けて、せいせいした。
多宝塔を見ようと、さらに金堂の左横の石段を登る。ところが返って宝塔が見難くなった。まぁいいか。
今来た経路を逆にたどって楼門に戻り、石段をおりて途中の茶屋・硯石亭にたどり着く。ここにもまた店主がいない。朝からこの拝観に先行していた学生風の青年が先着していた。なので、いずれ店主が現れるのだろうとタカをくくっていた。
やっぱり高齢者が現れた。冷たい抹茶フラッペと名物もみじ餅を頼む。この頃、京都市バスの四条烏丸行きが出ているハズ。次は1時間後。何だか中途半端。だが、高雄バス停への道は谷底から上る登り路なのだ。気が重い。
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意を決して硯石亭を出て高雄バス停にたどり着くが、ここでも喫茶店もなくバス停にとどまるよりは外ない。
やがて、突然バスが現れた。JRバスだった。市バス以外にJRバスが通っていたのは知ってはいたが、経路を知らない。運転手にJR京都駅行きなら、四条通を必ず通るハズだと聞いたが“通らない。市バスに乗ってくれ”と意地悪を言う。“なら京都市内どこを通るのか”と訊くと“四条大宮は通る”と言うのだ。ウソをついてまでの乗車拒否。ビックリしたな~ぁ!!バスは仁和寺あたりから込み始め、堂本印象美術館前でかなりの混雑。これで市バスとの競合で230円。だからJRとしては出来るだけ乗せたくなかったのか?とにかく予期しないコトだった。
まぁとにかく阪急・大宮から帰神できた。
お蔭で神護寺の様子がそれなりに肌感覚で分かったような気がした。それにしても昔はこの辺りにどのようにアクセスしていたのだろうか。普通は清滝川に沿ってと考えられるのだが、それでは嵐山経由となり、大幅に遠回りになる。
森林植物園以来普段使いにしていたハイキング・シューズを履いていたが、これが役立った。今回は履きなれていたせいか、足にダメージは全くなかった。
全体として残念だが、何だか時代に取り残された観光地といった印象だった。シーズンオフとは言え、三尾三山の観光地として全く飲食店が開いていないのは問題ではないのか。かなり著名な古刹にとっては、大勢が押し寄せないのはオーバー・ツーリズムに巻き込まれることなく好都合なことなのかも知れないのだが・・・・。
そんな中でガザのキリスト教系のアル・アフリ病院が攻撃された。そして500人が虐殺された。原因はどちらの仕業なのか。そんな緻密な原因調査をして局所的問題を明らかにしても意味がない。ガザでの他の医療施設もシオニストの攻撃に晒されて破壊されている。この大本の原因はシオニストのガザ封鎖と絶え間ない空襲による。それのみが真実だ!
“パレスチナにとって抵抗あるのみ”の主張の正当性は高まっている。シオニストによる人道破壊なのだ。
シオニストは米国で蔓延っている。米政権の生殺与奪権を握っているのだ。
日大副学長にけったいな考えを持った検察OBが居ることが判明した。検察官の考え方が、このようなのかと思うと背筋がゾッとする。日本の検察官がこのような恣意的な思いで仕事をしているのかと。検察官の思考が腐っている!これは大変な問題なのだ!近代国家としてアウト!これではSDGsもいい加減になる。日本は反SDGs国家なのだ!ウソを平気でスローガンにする!
日本のプロ野球もクライマックスシリーズという仕掛けが面白い。
広島の監督と阪神の監督の舌戦も漫才みたいでオモロかった。広島・新井監督は広島で“がむしゃらに。カープの全員野球で、高校球児のように戦ってきたい”と言ったのに対し、阪神・岡田監督は“高校野球やろ?ウぉーん、金属バットはあかんで!”と返した、という。
そやけど、新井監督はシーズン前期待されていなかった。一時は金本氏を追って、阪神に移籍までしたのだが、夢破れて広島に戻った。これに地元では非難の声すら大きかった。しかしその後のカープでの功績も認められ、ようやく無事引退できた。しかし、こに来てカープの人材の世代交代が途切れたところで、適当な監督候補がいない。で、白羽の矢が当たった。球団にそんなに期待されない中、監督としてここまでよくやったと言える!素晴らしい指導者なのだ!
さて、先週は三尾三山を訪れたので紹介したい。というか、本当は神護寺に行ってみたかったので、出かけたという次第だ。う~ん、行くにしてもタイミングを選んだつもりだったが、それには見事に失敗したのだった。というのも、紅葉で有名な場所だったので、少し早いのかなと思って行ったのだが、微かな紅葉の気配しか感じられなかったのだった。
そして何故、神護寺かというと、私はご存知のように一時密教の空海に興味を持っていた。神護寺は空海が最澄に彼の大勢の弟子たちと共に灌頂を行った寺として有名であったからである。Wikipediaによれば、“灌頂(かんじょう)とは、菩薩が仏になる時、その頭に諸仏が水を注ぎ、仏の位に達したことを証明すること。密教においては、頭頂に水を灌いで諸仏や曼荼羅と縁を結び、正しくは種々の戒律や資格を授けて正統な継承者とするための儀式のことをいう。”
神護寺にはその記録が神護寺のウェッブサイトの寺宝紹介の“灌頂暦名”のところに掲載されている。曰く。
“空海が密教の入門儀式である結縁灌頂を行った手控えで、弘仁三年(812)十一月、十二月、翌年三月の三回分の記録。
結縁者の筆頭に最澄の名が記されているのも印象的である。
また、最澄、空海が決別する原因のひとつとなった泰範の名が記されているのも興味深い。”
言わば、僧としては後輩の空海が最澄に密教の“資格を授けた”ことになっているのだ。空海は京都の山奥の神護寺に居て、そこでわざわざ比叡山から大勢の弟子を引き連れてやって来た最澄に灌頂を与えたのである。それが、どんな場所だったのか、知りたいではないか。
それに、栂ノ尾高山寺には国宝・鳥獣人物戯画、神護寺には源頼朝像を含む神護寺三像がある。まぁ、そんなことで、一度は行ってみたいと思っていたのだ。
実を言うと審査報告書を携えて午前の早い内に京都の審査事務局に立ち寄って、ついでに行った。それでこのタイミングとなったのだ。その計画し実行したコースを下の図に示す。当初は神護寺から回ることにしていたが、先ず遠くに行って戻る方が合理的と思い直して高山寺からとした。始めはどっちが遠いのかの感覚すらなかった。
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そのタイミングがまずかったのではないかと思い始めたのが、バスから見る途中の景色でやはり紅葉はまだまだの観だったこと。それに大いに失敗だったと思い知ったのが、バスで現地・栂ノ尾バス停に着いてからであった。現地に着くのは、12時前。大抵の飲食店は開いているハズだったのだが、到着してみると閉店ガラガラだったのだ!結構、観光というか拝観客はいるのに、ダ!ナントイウコト?複数ある店の1軒も開いていない。京都観光にこういうエア・ポケットが存在するのは驚きだ。仕方ない食べられないのだったら、食べられる所まで突進あるノミ!と腹を据えた。このところ消化器系の体調も万全ではなく、幸い空腹ではないのでまぁイイカッ!予期しなかったことだ。
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山際から高山寺参道を登り始める。バス停に近い側からなので、裏参道になる。それでも参道途中で拝観券を売るブースが設けられていた。“少し行かれると石水亭に出ます。そこでまた入場料を払っていただけると中に入れます。”との説明に“そこで鳥獣戯画はみれるのですか?”というと“そうです。複製画が見れます。”とのことだった。ついでに飲食店の状況を聞こうかと思ったが、多分返答に困るのではと思い止めた。
やがて石垣と白壁に囲まれた一画に出る。石水院の表示がある。下足して、入場料を払う。例によって建物内部は撮影禁止。建物西側から迂回して回る。この建物は明恵上人時代の唯一の遺構とのこと。
内部に明恵上人樹上坐禅像や鳥獣人物戯画が展示されている。この鳥獣人物戯画は謎が多いと聞いている。はじめは鳥羽僧正が作者と聞かされていたが、今は作者不詳。それに甲巻のウサギ中心の絵、何故、ウサギなのかも分かっていないらしい。けったいなのは、大きさの違うカエルとうさぎで同等の大きさに描き、しかもカエルがウサギに噛みついて、投げ飛ばしている。(相撲:丁度その絵が展示)それは何を意味しているのかも謎のまま、だという。
明恵上人はWikipediaによれば、“鎌倉時代前期の中興の祖と称される。法諱は高弁(こうべん)。栂尾上人とも呼ばれる。父は平重国。母は湯浅宗重の四女。現在の和歌山県有田川町出身。”また上人は釈迦にあこがれてインドへ渡ろうとまでしたという。
石水院を出て、しばらく登って行くと左手に開山堂のある所に出る。明恵上人の座像が当初安置されていたというが今もそうなのか説明が無いので分からない。重文なので、ここに保存ということは考え難い。この建物は江戸時代に再建とのこと。左手に新しそうな聖観音像があるが何の説明もない。さらに登って行くとやがて明恵上人御廟に出る。拝。
そこから道は水平に。やがてまたしても新しそうな石の仏足跡が木造の囲いの中に展示されている。これにも何の説明もない。
さらに水平の道に沿って行くと金堂にでる。これも江戸時代に仁和寺古御堂を移築したとのこと。ここから道は下りに入る。そして、本来の参道入口に至った。
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高山寺を出ると、そこは国道162号線・周山街道。間歇的にものすごい勢いの交通がある。この山奥に何があるのか不明だが生活線でもあるようだ。しかしこの辺り開いている飲食店はない。宿泊施設も営業していない様子だ。1軒ぐらい開いていても良さそうなのだが、観光地の割に、しかもこうやって拝観者がしかも三々五々いるのに冷たい印象だ。皆はどこで食事するのだろうか。
清滝川を横切ってしばらくして、目の前に“うどん”と書いたのぼりが目に入った。目を疑ったが間違いなかった。店に入ったが店主がいない。客か店の人かわからぬ爺さんが、眠っているのか起きているのか分からないような状態で出入り口付近に座っているだけ。店の奥、居室に向かって“コンニチワ”と言うが甲斐なく反応なし。困って、店の出口に行きかけると、御婆さんが寝ぼけまなこで出て来たよう。“スンマセン。何ご注文?”と。
そこで、ようやく親子丼にありつけた。料理は意外に早く出て来た。
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店を出る時、“三明寺へはここを下るの?” “そう!赤い橋が目印”と言われた。
たった1軒の飲食店。若い人は居ないのか。日本のここかしこの問題かも知れぬが今後が心配。
店から下って、楽に直ぐ赤い橋に到達した。西明寺らしき表示の石柱が立っていた。ここからは登りだが、直ぐに表門に出る。
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本堂に入り込んでようやく拝観受付。ここは仏像がご自慢のようで、灯明の結界の前に出ても構わないからよく見てくれとのことだったが、この場合大抵覗き込んでも暗くて見難くてよく分からないことが多いものだ。それに写真撮影禁止なので味気ないから殆どスキップ。
本堂東側にお庭があった。後からウェッブサイトには苔庭とあったが、それがあれなのか。それより、本堂と鐘楼に囲まれた広場に大きな楓の木があった。紅葉すれば見事なハズ。
客殿から西に出る道を進んだ。また川を渡る。何の変哲もない灌頂橋。平坦な道を神護寺に向かって歩く。あずま屋があって川にせり出している。もみじの木であろう緑の枝がさらに川向うにかかるほどせり出ていて先が良く見えないが、また赤い橋があった。どうやら高雄橋。
ならば、ここから神護寺に登る口。宿泊施設があった。そこには喫茶室もある。だが、ここはもうひと頑張りとばかり、登頂の石段にアタック開始。一旦登り切ってヘアピン折り返し点で仕事の連絡電話を受ける。これ幸いと休憩。息を切らせながらの応答、スーハ―スーハ―に相手はどう思っているかナ。
左手に茶店・高雄茶屋があるが、一部だけ洋モノ・レシピだけのようで“営業中”とあったが、そのようには見えない。さらに上り詰めると、硯石亭に出た。ここは行ってみるつもりだったが、帰りに寄ろうと。
ここで折り返すと、やがて神護寺楼門に至る。しかし、これが少々辛かった。入口で拝観料、他より100円高く600円。楼門を出ると、視界が開け山上には稀な台地があって驚いた。右手に書院とある建物群があるが、非公開のようだ。和気公霊廟と明王堂が続く。
神護寺は和気清麻呂*が開基。“真言宗の古刹。もとは和気氏の氏寺。809年(大同4)から14年間空海(弘法大師)が住持、その後、荒廃したが、平安末期、文覚上人が再興。国宝の薬師如来像をはじめ平安、鎌倉時代の仏像、絵画、書跡などが多く残る。梵鐘(国宝)は日本三名鐘の一つ。紅葉の名所。建立:781(天応元)年(奈良時代)”
*和気清麻呂[733~799]奈良末期・平安初期の公卿。備前の人。道鏡が皇位に就こうと企てたとき、宇佐八幡の神託によりこれを阻止して怒りを買い、大隅に配流。道鏡の失脚後、光仁・桓武天皇に仕え、平安遷都に尽力した。
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広場が尽きるところに五大堂がある。左にその毘沙門堂がある。この毘沙門堂に周り込んで南側から山を見上げれば、石段の上に金堂が見える。伽藍配置は南から、毘沙門堂、五大堂、金堂、多宝塔となっている。
さぁ、石段を登れば金堂。立て札に次のように書かれている。“大阪の豪商・山口玄洞氏のご寄進により昭和十年に建立された金堂は、入母屋造本瓦葺、内陣には一本造の本尊国宝薬師如来立像を安置、左右に重要文化財日光月光両菩薩と、室町時代の四天王・十二神将の諸像が並び立つ。また脇壇にも如意輪観音・地蔵・大黒天・弁財天の座像を祀る。”(本尊薬師三尊は、延暦年間[782年~806年]の造立とされる)
中は赤い柱が立ち並んでいて北側の壁に諸像が並んでいる。西側の隅に例の大きな頼朝の像*が立てかけてあった。
*縦143cm、横112.8cm。神護寺三像の一幅。Wikipediaによれば、“通説では、源頼朝・平重盛・藤原光能の肖像画とされ、12世紀末の似絵の名手藤原隆信の作とされてきた。しかし、1995年に頼朝像は足利直義、重盛像は足利尊氏、光能像は足利義詮の肖像画であるとする新説が発表され、以後、像主・成立時期などをめぐって論争が続いている。”
堂内をうろついている内に、おみくじがあり、百円玉を置いて勝手にみくじ筒を振り回し中の棒を一本取り出したが、五番だったので、引出から中の短冊状の紙を取り出した。何だか五番がやたら多いな!と思って、内容を見始めるとロクでもないことが書かれていて、よく見ると一番上に“凶”とあって驚いた。あ~ぁやってしまった!一瞬、疲労が増した。こんな経験は初めてだった。が、それを知った瞬間から、それまで“凶”だった状態から変化するものだと思った。そう思って逆に少々愉快になった。金堂からおりて、下にあった縄張りにみくじを縛り付けて、せいせいした。
多宝塔を見ようと、さらに金堂の左横の石段を登る。ところが返って宝塔が見難くなった。まぁいいか。
今来た経路を逆にたどって楼門に戻り、石段をおりて途中の茶屋・硯石亭にたどり着く。ここにもまた店主がいない。朝からこの拝観に先行していた学生風の青年が先着していた。なので、いずれ店主が現れるのだろうとタカをくくっていた。
やっぱり高齢者が現れた。冷たい抹茶フラッペと名物もみじ餅を頼む。この頃、京都市バスの四条烏丸行きが出ているハズ。次は1時間後。何だか中途半端。だが、高雄バス停への道は谷底から上る登り路なのだ。気が重い。
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意を決して硯石亭を出て高雄バス停にたどり着くが、ここでも喫茶店もなくバス停にとどまるよりは外ない。
やがて、突然バスが現れた。JRバスだった。市バス以外にJRバスが通っていたのは知ってはいたが、経路を知らない。運転手にJR京都駅行きなら、四条通を必ず通るハズだと聞いたが“通らない。市バスに乗ってくれ”と意地悪を言う。“なら京都市内どこを通るのか”と訊くと“四条大宮は通る”と言うのだ。ウソをついてまでの乗車拒否。ビックリしたな~ぁ!!バスは仁和寺あたりから込み始め、堂本印象美術館前でかなりの混雑。これで市バスとの競合で230円。だからJRとしては出来るだけ乗せたくなかったのか?とにかく予期しないコトだった。
まぁとにかく阪急・大宮から帰神できた。
お蔭で神護寺の様子がそれなりに肌感覚で分かったような気がした。それにしても昔はこの辺りにどのようにアクセスしていたのだろうか。普通は清滝川に沿ってと考えられるのだが、それでは嵐山経由となり、大幅に遠回りになる。
森林植物園以来普段使いにしていたハイキング・シューズを履いていたが、これが役立った。今回は履きなれていたせいか、足にダメージは全くなかった。
全体として残念だが、何だか時代に取り残された観光地といった印象だった。シーズンオフとは言え、三尾三山の観光地として全く飲食店が開いていないのは問題ではないのか。かなり著名な古刹にとっては、大勢が押し寄せないのはオーバー・ツーリズムに巻き込まれることなく好都合なことなのかも知れないのだが・・・・。
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