The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
帆船・日本丸の見学
細田博之衆院議長は13日、議長公邸内のホールで記者会見を開き、議長辞任を正式に公表した。 統一教会との関係、安倍首相に報告したのか、へらへら言い逃れてハイ、オワリ!国民を外交勢力に売っていた?こんなのが日本の衆院議長とは何とも情けない限り!国会議員であることすら情けない!島根県の皆さん、もっとしっかりして欲しい!
日本の検察はどうしてこういう疑惑にメスを入れないのか。悪の総本山には手を付けないのが検察なのか?小者ばかり捕まえて、適当にお茶を濁しているのではないのか。“巨悪を眠らせない!” は最早ウソか?
“たたけばホコリの出る男” “誇り高いオトコ?”こんな古臭い漫才の台詞が未だに通用しそうなオッサン!エエカゲンにセィ!未だ害悪を振り撒く気か?早う消えてしまえ!
ユダヤ人がホロコーストを計画している!
現在のイスラエル領からアラブ人を追い出してガザという360 km2(大阪市202.2 km2と堺市149.8 km2を足した面積;東京都区部626.7 km2の約6割)の狭い所に押し込められ人口密度が過密の3,823 人/km2とされている。(但し、大阪や東京都区部の甚句密度は1~2万人/km2)イスラエルとの国境には高さ20mの分離壁や検問所による封鎖を受けている。そこで「天井のない監獄(牢獄open-air prison)」とも呼ばれる。
このように日頃からもユダヤ人にいじめられているアラブ人が我慢に我慢を重ねていても、しかも最近アラブ諸国はこぞってイスラエルに接近してきている。そんな中でガザの政権を握っているハマスが我慢の限界とばかり、今月約2000発のミサイルをイスラエル領に向けて発射した訳である。この理不尽を欧米社会はイスラエル寄りにハマスを非難してるのだ。それはこれまで歴史的にユダヤ人を排斥してきた経緯があるからだ。シェークスピアの“ベニスの商人”を見れば分かる話だが、特にドイツはユダヤ人を標的にホロコーストを引起した。
日本のマスコミはこれらの歴史的事実を伏せて欧米寄りの報道やコメントを行い、岸田政権の対ハマス声明の軟弱を責めるが、それは日本独自の国際的立場を毀損することにしかならないのだ。ところが一方、かつて田中角栄がパレスチナ寄りの外交政策を推進しようとして米国の逆鱗に触れ、ローッキード事件が恣意的に引き起こされ、田中氏が政治的に抹殺されたという見方もある中で、日本の中東への関与は非常に微妙な話ではある。
さて、先週は横浜での仕事の前日に小田原を観光したことを報告した。今回はその翌日つまり仕事当日の午前に横浜桜木町で帆船・日本丸(初代)を見学したので、報告したい。仕事は午後1時からだったのだ。
午後1時前に仕事先の最寄り駅に到着すれば間に合う訳だ。それまでの時間をどう過ごすかが問題だった。当初はホテルから11時頃に出て、中華街に寄って昼食を食べられれば結構だなぁと思っていた。ところがである、ホテルのチェック・アウトは10時だとチェック・イン時に念を押された。
ところで大半のレストランは11時半開店。この1時間半の空白をどう埋めるかが問題となる。ホテルから歩いて行けば埋まるかと思いきや、歩いても30分程度で行き着いてしまう。それにもう一つ食べ終わってからが問題。最寄りのみなとみらい線元町・中華街駅から目的の駅はブルーライン駅なので、横浜駅で乗り換えなければならない。右も左も分からない初めてで、横浜駅に出てブルーラインにたった10分程度で上手く乗り換えられるとは思えない。どうやら時間的に、食べ終わるのが11時40分頃でなければならないことになるようだ。たとえ11時開店のレストランを見つけたとしても、間に合わないリスクがかなりある。それで、中華街での昼食を断念せざるを得ないことになった。
しかたないので、10時にチェック・アウトして桜木町界隈で過ごすことにした。これならば、ホテルに重いバッグを一時預けもできる。翌朝の算段を考えてから眠った。
朝は7時過ぎに目覚めた。モーニング・コールを8時にしていたにもかかわらずである。一晩明けて、窓から見える景色が下記の写真だ。
前の晩買った食糧を見慣れぬテレビ番組を見ながら食べる。とにかく、ゆっくりとテレビを頼りに10時前までゆっくりと過ごした。
チェック・アウトして、荷物を預けて一旦ホテルを出た。ま、見るもの何かあるだろう。ホテルの窓から帆船も見えていたし・・・、の軽い気持ちで歩き始めて、いよいよ係留されている帆船が目の前に入って来た。近付くと、どうやら見学ができるようなのだ。入場券を売っているらしい小さな売り場が見えたので、たどり着いて入場券を購入し、案内のまま乗船した。
矢印に沿って歩くうちに、ボランティアで案内しているというオジサンが現れた。しかし、昼食も考慮すると1時間程度しか余裕がないので、残念だが断った。まぁ出来れば来年も来るハズだし、イイカっ。
帆船・日本丸の実物屋外展示なのだ。日本丸の経歴と要目はWikipediaによれば次の通り。
帆船日本丸・横浜みなと博物館のウェッブ・サイトには次のような説明がある。
帆船日本丸が係留されている、旧横浜船渠株式会社第一号船渠は国指定重要文化財です。係留されている帆船日本丸も2017年9月15日国指定重要文化財となりました。
このドックは、横浜船渠会社が船の修繕用に建設したものです。1859(安政6)年の横浜開港後、貿易の拡大と入出港船舶の増加に伴い、本格的な港湾施設の建設が必要となっていました。港に必要な施設の一つとして船の修繕用ドックの建設が計画されました。イギリス人技師H.S.パーマーの計画に基づき海軍技師恒川柳作が設計・監督、1898(明治31)年12月に竣工しました。建設当初の長さは約168mでしたが、横浜港に入港する船舶の大型化にともない、1918(大正7)年にドックの渠頭部を内陸方向に延長し長さ約204mとなりました。幅は約39m、深さは約11mです。ドック建設には神奈川県真鶴産の小松石(安山岩)を使用しました。
・・・・
日本丸は昭和5(1930)年に建造された練習帆船です。昭和59(1984)年まで約54年間活躍し、地球を45.4周する距離(延べ183万km)を航海し、11,500名もの実習生を育ててきました。昭和60(1985)年4月より、みなとみらい21地区の石造りドックに現役当時のまま保存し、一般公開をしています。船の生活を体験する海洋教室やすべての帆をひろげる総帆展帆などを行い、帆船のすばらしさ、楽しさを伝えています。
矢印に沿って観覧。そのルートはほぼウェッブ・サイトにあった通りだった。
乗船タラップから乗り込むと、先ずは左手に第一教室があった。そこは凹甲板と呼ぶらしいが、そこから上の甲板へ。日本丸船首部分の楼甲板に出る。帆船の突端をパうスプリットと呼ぶらしい。
そこから一気に第二甲板へ。下の甲板に入る前に、各甲板からの赤い通気口があった。大きい鋼管が邪魔だがその裏が空洞になっている。行き着いた第二甲板が実習生の居室になっている。見れる最下層の甲板で2段ベッドだ。その同じ甲板から下に機関室が見える。同じ甲板に操機長室や看護長室、病室、診察室、機関部食堂などがある。機関士はエンジンが最下層にあるので、下の方の甲板で過ごすことになるのだろう。
一階上の甲板は先ほど見た第一教室があり、船長公室、船長私室、船長浴室があった。そういえば、第一教室はあっても第二教室は見かけなかったし、船長以外の浴室も見かけなかった。公開していない部分にあるはずだ。一等航海士室、士官サロン等もこの甲板にある。
もう一層上に階段を上がって、船尾楼甲板へ。無線室にFaxの受信設備があった。おそらく80年代にでも設置したのであろう。最船尾に大きな手動舵輪があった。船橋から大声で指示するのだろうか。それとも伝声管だろうか。それらしいものは気付かなかった。そこからあっさり下船。
下船して、改めて周囲を一周した。船尾後方では旧横浜船渠株式会社第一号船渠の水門も見れたが、地味な印象だったので写真に撮らなかった。今思えば少々残念。まぁ、ドッグ・ヤードも重要文化財だとは知らなかったもので、仕方ない。帆船そのものは珍しく、面白かった。
しかし、20世紀に入ってなお、帆船で練習船を作る意義がどこにあるのか疑問であったが、その疑問はこの見学を終えても残念ながら残った。調べてみると、わざわざこの日本丸を初代と呼んでいる。ということは2世号があるということで、さらに日本丸ばかりでなく海王丸にもあるということで、さらに驚いた次第である。普通のエンジン船を練習船にするものではないのか。どうやら普通のエンジン船の練習船もあるようなのである。どうしてわざわざそういうことをするのか知りたいものである。そういう意味でも、次はボランティア・ガイドに案内をお願いするのが良いのかも知れない。
実は、日本丸は東京商船大学のもの(海王丸は神戸商船大)と誤解していた。正確には所管は(両者共)文部省航海練習所とのことであるようだ。
さぁて、昼食だが中華街での食事をあきらめたのだが、桜木町には幸い中華街の名店・重慶飯店の出店・重慶厨房 シァル桜木町店があった。そこへ飛び込んで、ウェイトレスの持ってきたメニュー表を見ると冷麺があって、暑さにまいっていたので飛びついた次第だ。餃子を付けたが、これがチョット変わっていて、全てが美味かった。
昼食にも満足して、ホテルに戻ってバッグを引き取り、ブルーラインに乗って、一気に目的地に無事行けた次第であった。良い午前中の過ごし方だった。
仕事帰りには新幹線の売店で、勿論、崎陽軒の焼売を買って帰った。これも癖が無く素直に美味かった。
日本の検察はどうしてこういう疑惑にメスを入れないのか。悪の総本山には手を付けないのが検察なのか?小者ばかり捕まえて、適当にお茶を濁しているのではないのか。“巨悪を眠らせない!” は最早ウソか?
“たたけばホコリの出る男” “誇り高いオトコ?”こんな古臭い漫才の台詞が未だに通用しそうなオッサン!エエカゲンにセィ!未だ害悪を振り撒く気か?早う消えてしまえ!
ユダヤ人がホロコーストを計画している!
現在のイスラエル領からアラブ人を追い出してガザという360 km2(大阪市202.2 km2と堺市149.8 km2を足した面積;東京都区部626.7 km2の約6割)の狭い所に押し込められ人口密度が過密の3,823 人/km2とされている。(但し、大阪や東京都区部の甚句密度は1~2万人/km2)イスラエルとの国境には高さ20mの分離壁や検問所による封鎖を受けている。そこで「天井のない監獄(牢獄open-air prison)」とも呼ばれる。
このように日頃からもユダヤ人にいじめられているアラブ人が我慢に我慢を重ねていても、しかも最近アラブ諸国はこぞってイスラエルに接近してきている。そんな中でガザの政権を握っているハマスが我慢の限界とばかり、今月約2000発のミサイルをイスラエル領に向けて発射した訳である。この理不尽を欧米社会はイスラエル寄りにハマスを非難してるのだ。それはこれまで歴史的にユダヤ人を排斥してきた経緯があるからだ。シェークスピアの“ベニスの商人”を見れば分かる話だが、特にドイツはユダヤ人を標的にホロコーストを引起した。
日本のマスコミはこれらの歴史的事実を伏せて欧米寄りの報道やコメントを行い、岸田政権の対ハマス声明の軟弱を責めるが、それは日本独自の国際的立場を毀損することにしかならないのだ。ところが一方、かつて田中角栄がパレスチナ寄りの外交政策を推進しようとして米国の逆鱗に触れ、ローッキード事件が恣意的に引き起こされ、田中氏が政治的に抹殺されたという見方もある中で、日本の中東への関与は非常に微妙な話ではある。
さて、先週は横浜での仕事の前日に小田原を観光したことを報告した。今回はその翌日つまり仕事当日の午前に横浜桜木町で帆船・日本丸(初代)を見学したので、報告したい。仕事は午後1時からだったのだ。
午後1時前に仕事先の最寄り駅に到着すれば間に合う訳だ。それまでの時間をどう過ごすかが問題だった。当初はホテルから11時頃に出て、中華街に寄って昼食を食べられれば結構だなぁと思っていた。ところがである、ホテルのチェック・アウトは10時だとチェック・イン時に念を押された。
ところで大半のレストランは11時半開店。この1時間半の空白をどう埋めるかが問題となる。ホテルから歩いて行けば埋まるかと思いきや、歩いても30分程度で行き着いてしまう。それにもう一つ食べ終わってからが問題。最寄りのみなとみらい線元町・中華街駅から目的の駅はブルーライン駅なので、横浜駅で乗り換えなければならない。右も左も分からない初めてで、横浜駅に出てブルーラインにたった10分程度で上手く乗り換えられるとは思えない。どうやら時間的に、食べ終わるのが11時40分頃でなければならないことになるようだ。たとえ11時開店のレストランを見つけたとしても、間に合わないリスクがかなりある。それで、中華街での昼食を断念せざるを得ないことになった。
しかたないので、10時にチェック・アウトして桜木町界隈で過ごすことにした。これならば、ホテルに重いバッグを一時預けもできる。翌朝の算段を考えてから眠った。
朝は7時過ぎに目覚めた。モーニング・コールを8時にしていたにもかかわらずである。一晩明けて、窓から見える景色が下記の写真だ。
前の晩買った食糧を見慣れぬテレビ番組を見ながら食べる。とにかく、ゆっくりとテレビを頼りに10時前までゆっくりと過ごした。
チェック・アウトして、荷物を預けて一旦ホテルを出た。ま、見るもの何かあるだろう。ホテルの窓から帆船も見えていたし・・・、の軽い気持ちで歩き始めて、いよいよ係留されている帆船が目の前に入って来た。近付くと、どうやら見学ができるようなのだ。入場券を売っているらしい小さな売り場が見えたので、たどり着いて入場券を購入し、案内のまま乗船した。
矢印に沿って歩くうちに、ボランティアで案内しているというオジサンが現れた。しかし、昼食も考慮すると1時間程度しか余裕がないので、残念だが断った。まぁ出来れば来年も来るハズだし、イイカっ。
帆船・日本丸の実物屋外展示なのだ。日本丸の経歴と要目はWikipediaによれば次の通り。
帆船日本丸・横浜みなと博物館のウェッブ・サイトには次のような説明がある。
帆船日本丸が係留されている、旧横浜船渠株式会社第一号船渠は国指定重要文化財です。係留されている帆船日本丸も2017年9月15日国指定重要文化財となりました。
このドックは、横浜船渠会社が船の修繕用に建設したものです。1859(安政6)年の横浜開港後、貿易の拡大と入出港船舶の増加に伴い、本格的な港湾施設の建設が必要となっていました。港に必要な施設の一つとして船の修繕用ドックの建設が計画されました。イギリス人技師H.S.パーマーの計画に基づき海軍技師恒川柳作が設計・監督、1898(明治31)年12月に竣工しました。建設当初の長さは約168mでしたが、横浜港に入港する船舶の大型化にともない、1918(大正7)年にドックの渠頭部を内陸方向に延長し長さ約204mとなりました。幅は約39m、深さは約11mです。ドック建設には神奈川県真鶴産の小松石(安山岩)を使用しました。
・・・・
日本丸は昭和5(1930)年に建造された練習帆船です。昭和59(1984)年まで約54年間活躍し、地球を45.4周する距離(延べ183万km)を航海し、11,500名もの実習生を育ててきました。昭和60(1985)年4月より、みなとみらい21地区の石造りドックに現役当時のまま保存し、一般公開をしています。船の生活を体験する海洋教室やすべての帆をひろげる総帆展帆などを行い、帆船のすばらしさ、楽しさを伝えています。
矢印に沿って観覧。そのルートはほぼウェッブ・サイトにあった通りだった。
乗船タラップから乗り込むと、先ずは左手に第一教室があった。そこは凹甲板と呼ぶらしいが、そこから上の甲板へ。日本丸船首部分の楼甲板に出る。帆船の突端をパうスプリットと呼ぶらしい。
そこから一気に第二甲板へ。下の甲板に入る前に、各甲板からの赤い通気口があった。大きい鋼管が邪魔だがその裏が空洞になっている。行き着いた第二甲板が実習生の居室になっている。見れる最下層の甲板で2段ベッドだ。その同じ甲板から下に機関室が見える。同じ甲板に操機長室や看護長室、病室、診察室、機関部食堂などがある。機関士はエンジンが最下層にあるので、下の方の甲板で過ごすことになるのだろう。
一階上の甲板は先ほど見た第一教室があり、船長公室、船長私室、船長浴室があった。そういえば、第一教室はあっても第二教室は見かけなかったし、船長以外の浴室も見かけなかった。公開していない部分にあるはずだ。一等航海士室、士官サロン等もこの甲板にある。
もう一層上に階段を上がって、船尾楼甲板へ。無線室にFaxの受信設備があった。おそらく80年代にでも設置したのであろう。最船尾に大きな手動舵輪があった。船橋から大声で指示するのだろうか。それとも伝声管だろうか。それらしいものは気付かなかった。そこからあっさり下船。
下船して、改めて周囲を一周した。船尾後方では旧横浜船渠株式会社第一号船渠の水門も見れたが、地味な印象だったので写真に撮らなかった。今思えば少々残念。まぁ、ドッグ・ヤードも重要文化財だとは知らなかったもので、仕方ない。帆船そのものは珍しく、面白かった。
しかし、20世紀に入ってなお、帆船で練習船を作る意義がどこにあるのか疑問であったが、その疑問はこの見学を終えても残念ながら残った。調べてみると、わざわざこの日本丸を初代と呼んでいる。ということは2世号があるということで、さらに日本丸ばかりでなく海王丸にもあるということで、さらに驚いた次第である。普通のエンジン船を練習船にするものではないのか。どうやら普通のエンジン船の練習船もあるようなのである。どうしてわざわざそういうことをするのか知りたいものである。そういう意味でも、次はボランティア・ガイドに案内をお願いするのが良いのかも知れない。
実は、日本丸は東京商船大学のもの(海王丸は神戸商船大)と誤解していた。正確には所管は(両者共)文部省航海練習所とのことであるようだ。
さぁて、昼食だが中華街での食事をあきらめたのだが、桜木町には幸い中華街の名店・重慶飯店の出店・重慶厨房 シァル桜木町店があった。そこへ飛び込んで、ウェイトレスの持ってきたメニュー表を見ると冷麺があって、暑さにまいっていたので飛びついた次第だ。餃子を付けたが、これがチョット変わっていて、全てが美味かった。
昼食にも満足して、ホテルに戻ってバッグを引き取り、ブルーラインに乗って、一気に目的地に無事行けた次第であった。良い午前中の過ごし方だった。
仕事帰りには新幹線の売店で、勿論、崎陽軒の焼売を買って帰った。これも癖が無く素直に美味かった。
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