日々季節が進み、朝晩の冷え込みも一層強くなりました。
この冷え込みは地表面から熱が放出されて冷えるためで
天気予報では「放射冷却」と言う言葉を耳にします。
日中は太陽の恩恵を受けて太陽光線を吸収して熱をもらっているので地表が温められているのですが、
夜は太陽光線がなくなり地球自体は赤外線という熱を放出し続けているため地表が冷えていく現象ということです。
これからは益々冷え込み対策をしっかりしたいと思います。
さて、今日は臨死体験に話を戻して家族に起きた実体験をお伝えします。
長くなりますが、お時間がある時最後までお読みくださると有難く存じます。
彼がはじめに「対外離脱」を体験したのは僅か4歳でした。
この年は幼児たちの間で無菌性髄膜炎が流行していました。
無菌性髄膜炎は後頚部、つまり首の後ろが硬直(項部硬直)するため仰向けにして頭だけを持ち上げようとしても上がりません。
首から肩まで硬い板のようになる髄膜刺激症状です。
その始まりは、3歳から5歳に多いといわれる「おたふくかぜ」のあと発症しました。
いったん、おたふく風邪の症状が治まった直後から40度を超える熱と脱水症状、嘔吐を繰り返しました。
かかりつけの小児科を受診して、直ぐに無菌性髄膜炎の疑いがあるため総合病院への
受診を勧められました。
その後、髄液検査によって髄液細胞数の増加を調べ、増加していることで入院になりました。
髄液検査は、体を横向きでエビのように丸くして腰部の脊髄から針を刺して、脊髄腔(骨髄と硬膜の間の空間)から髄液を採取します。
親は処置室に入れず、処置室では頭と体幹部、脚を3人の看護師に抑えられて医者によって処置が行われます。
この検査を受けたのは入院時と入院中、退院時の3回でした。異変が起きたのは2回目の髄液検査の直後でした。
1回目の処置では何度か泣き声が聞こえましたが、その後の異変はなかったものの、
2回目の時は時間も20分以上かかり、断続的に泣き声が聞こえました。
当時、公衆衛生学教室の研修生として、針麻酔などに関わり麻酔科医と共に研究していた夫に
髄液検査時に使う針や採取方法の書かれた本を見せてもらい、断続的に泣いていたのは脊髄腔を上手にとらえられず、
何度も針の刺入を繰り返していたせいではないかと思いました。
わが子の泣き声が途切れながら繰り返される間、私は何か危機的な状況を感じ取っていました。
そして、ようやく処置室から医者に抱きかかえられて出てきた姿が
1回目とは明らかに違いがあり、更に異様な強い危機感を覚えました。
看護師が先を歩きその後に医者が息子を抱きかかえたまま一番遠くの病室に向かって歩いていく間、
私はまるで金縛りにあったように身体は硬直して、
その様子を呆然と眺めていて後を続いて行くこともできませんでした。
そして、息子の病室に近づいた時、彼はまるでイキのいい魚が暴れるように体を大きく痙攣させたので
医者は「おい、大丈夫か、しっかりしろ!」と大きな声を出しました。
私はその声にはっと我に返り、息子のもとへと走っていきました。
息子の痙攣したような動きは静まり、そのままベッドに寝かされ、
「目が覚めてもしばらくは頭を起こさないように」と医師から告げられました。
処置の翌日、息子は背中がかなり深く曲がったままになり、医師に聞いてもどうしてか答えてもらえませんでした。
私はマッサージの資格を持っているので毎日背中のマッサージをする許可をもらい病院に通いました。
そんなある日、看護師が背中に貼られた大きなパットを剝がして消毒するときに、
腰に無数につけられた針の先で黒ずんだ後をたくさん目撃しました。
その後、最後の髄液検査の時は1度泣き声を聞いただけでしたが、3回とも処置をした医者が違っていました。
「おたふくかぜの合併症で難聴になることもあるので、今検査をしても年齢的にわかりづらいので、
一年後に耳鼻科を受診するように」と言われ予約して退院しました。
全てが明らかになったのはそれから一年後、
耳鼻科受診で5歳になった息子と久しぶりに入院した病院に行き、
待合スペースの長椅子に座ると息子が一年前のことを話し始めました。
あれから一年も経つのに入院中担当したの3人の医者の名前を憶えていてスラスラと言えました。
そして、いきなり語り始めました。
「2回目に髄液を採った後とても怖かったんだよ。看護婦さんの後から先生に抱っこされて
どうして僕は天井を歩いているんだと怖くなって、そうだ眼を閉じれば見えなくなると思って目を閉じたんだよ。」
この話は、私が一年前に金縛りにあったように動けないまま見た光景そのものでした。
彼は体外離脱をして、天井から自分の姿を見ていたのでしょう。
当時はまだ幼く、それが天井を歩いていたと思ったのにちがいありません。
医者が突然痙攣した息子に驚き、声をかけた時元に戻ったのでしょう。
しかし、今なら間違いなく彼はあの時いのちの危機にあった事、
そして2度目の髄液検査で腰が年寄りのように曲がってしまったのは、
あまりの痛みによる背中の筋緊張によるものが影響していたのではと想像できます。
もしあの時、息子の命が失われていたら、医療ミスを病院が認めたかどうか?わかりません。
でも幼い子供が恐怖体験としてそれまで一度も口に出さなかったことを、一年後再び病院に来たことで記憶が蘇ったのでしょうか。
母として一年前の目撃者として、あの日見たすべての事実が符号して腑に落ちました。
この事実は決して繰り返されてはならない未熟な医療従事者へ、
声にはならない幼子の体験として父になった今も彼の記憶にも残っています。
最後までお読みくださり有難う御座いました。