健康塾通信

皆様がより健康であるための情報やご家庭でお手軽にできる健康法をお伝えいたします。

いのち 人生のふりかえり

2021年12月24日 06時49分16秒 | Weblog

今年もあと一週間となりました。

皆様、この一年も「健康塾通信」をお引き立て下さいまして

誠にありがとうございました。

 

先日の冬至もあっという間に過ぎ、朝はかぼちゃのお味噌汁、夜はゆず湯と、

ならわしどおりの日を過ごしました。

さて、「いのち」の頁も今回でひと区切りにしたいと思います。

 

前回の4歳の体験から高校1年になった時、彼は薄れる意識の中で

いのちの危機、まさに恐怖体験を感じたことがありました。

 

夏休みの、アメリカンフットボールクラブでの合宿の時でした。

茨城県波崎の海岸を、防具をつけたままスイッチバックというトレーニングの最中でした。

本人には記憶がありませんが、チームメイトの証言では

『ホイッスルの合図でひたすら繰り返し走っていて、最後のホイッスルの合図で止まることなく

叫びながら違う方向に走り出して倒れた。』という事でした。

この時すでに意識障害が出ていたのではと推察されます。

 

ユニホームは切られ、氷で応急措置をされていたようですが

既に2人が救急車で運ばれていて、彼は搬送まで少し待たなくてはいけなかったようです。

私は顧問から連絡をもらい夫婦で遠く離れた病院に駆けつけ

やっと息子に面会できました。

 

その時の様子で身体は焼け付くように熱いはずなのに、救急車の中では身体が氷のようにどんどん冷たくなっていくのを感じて

「僕はこのまま死んでしまうのかもしれない」と当時を振り返り話してくれました。

原因は『熱中症』でした。

退院後地元の病院を受診して、主治医からは熱中症による意識障害が起きていてとても危険な状態だったこと、

熱中症では『多臓器不全』で死に至ることも聞き、この時もいのちが助けられたと感謝しました。

 

今年の8月の夫や4歳の息子の『幽体離脱』という臨死体験を含め私は

自らがそれに近い『不思議体験』をしているので、二人の体験をすんなり受け入れることが出来たのだと思います。

しかし、家族のこの体験をもとに私の過去の体験も含め、

『臨死体験』のことを調べてみることにしました。

 

コペンハーゲン大学の神経医学の研究者、ダニエル・コンドジエラ博士

たちの研究チームが「臨死体験」を調査して以下のようなデータを発表しています。

臨死体験(以下、NDE)を経験したと証言する人々のうち、

87%が「時空の歪み」を経験、

65%が「異常な思考速度」を、

63%が「あり得ないほど鮮明な感覚」を感知していて、

53%が「幽体離脱」のような状態を経験したと、

調査結果は表しています。

≪幽体離脱は体外離脱ともいわれる体験(Out-of-the-Body Experiences. 以下 OBE と略す)というのは、

何らか の原因で自己意識(見ている自己)が自分の身体から離脱して、上から自分の身体や周囲 の事象を見下ろすという現象である。≫

 

次は立花隆さんが、国内や海外に赴き臨死体験などをされた方々にお会いして

取材をされてきたなかで次のようなコメントがありました。

『人生の再体験というのは、臨死体験でなくても事故等から奇跡の生還を遂げた人の体験談として聞いたことがありました。

例えば高い所から落ちて行く数秒の間に、それまでの人生で体験したことが一度に通り抜けて行ったと、

時間的にはあり得ないことを話す人がしばしばいるということは知識としてありました。』

 

これは臨死体験とまでは言わないにしても、死の入り口にとても近い体験かとも思います。

私の経験した不思議体験と酷似していました。

21歳の時、下り坂の急カーブで自転車のブレーキが効かず

気づいた時は面前にバスが迫っていて。。。。このままではバスに追突するか、湖に落ちるか。。。

山中湖での早朝サイクリングで起きた当時の記憶は光景と共に

今でも鮮明に脳裏に焼き付いて忘れることはできません。

 

私は迫っているバスの運転手のこちらを見る怖い目をはっきりとらえていました。

しかし、次の瞬間にはまるで映画のスクリーンのようなものが

目の前に広がって、そこにいたのは幼い自分の姿でした。

大好きな大きなフリルの襟の白いブラウスとタータンチェックのスカートを着てしゃがみながらこちらを振り向きました。

おそらくアルバムの1枚であったと思います。

それから、次々自分の姿が変わり最後には高校生のセーラー服姿の自分が映りました。

同時に頭が最高に研ぎ澄まされフル回転しているのを感じ

「このままバスに追突して死ぬかもしれない。」そう思いました。

そして、「神様、わたしはまだ死にたくありません。これまでの行いが悪くて

このような罰を与えられるなら、いい子になりますから許してください。」

心の中で叫びました。私はこのころ神仏に対しての信仰は持たず

なぜこのように『神』に懺悔したのかもわかりません。

さらに続いて、

「そうだ!助かる方法があるはず!」そう思って

確か3つ浮かび「自転車から飛び降りるんだ!」という

指示なのか考えが浮かんだ瞬間、身体が動いていました。

 

一緒にサイクリングをしていて私の後ろを走っていた友人の証言によると

間違いなくバスに突進していた私が、急にハンドルを切って

バスにぶつかることなく、自転車は坂道を転がり私はバスのすぐ横に

倒れこんだということでした。

打撲と擦過傷ですみました。

わずか数分?いえ数秒の事だったと思います。

 

まさに、人生を振り返った21歳の『人生の再体験』です。

今でもあの時の自分は最も頭がさえわたっていたことは確かで、

68歳になった現在もあの時の脳の思考速度は超えたことはありません。

 

実はだいぶ前、立花隆さんのNHKの番組で臨死体験をテーマにしたことがあり、たまたまその番組を見ていました。

登山家が遭難して山を転げ落ちる時に

人生を走馬灯のように振り返るとコメントされていたのを聞いて、

私の体験と近いと思いました。

こういう体験はなかなか話しても受け入れてもらえなかったので、

はじめて同じ体験を共有できる場面に遭遇し私はNHKに電話をしていました。

「問い合わせを頂いた方に立花さんから参考にしたい旨、お便りかお電話をしたいので連絡先をお聞きしたい。」

とのことでこの時は了承しました。

かなりしばらくして立花隆さんから封書が届きましたが、残念ながらその時は子育ての忙しさもあって

自分の貴重な体験を静かに温めていたいという願望が強く働き、折角のご希望にお答えできませんでした。

立花さん亡き後、残ってしまった後悔です。

 

「私の人生再体験」はまさに死を直感した瞬間に働いた脳の不思議体験として、

あの時の体験が今の自分を作り上げていると深く確信しています。

 

それは、毎年事故の8月29日に「今年も生きていてよかった」と感謝すること。

そして、その日から「助けられたいのち、この先の人生は人に役に立つことをさせてもらいたい。」

そう誓い、人生観が変わり今日まで前向きに生きてこられたことです。

 

長くなりましたが、最後に

文部科学省 私たちの道徳 中学校 活用のための指導資料より「生 命 」 を 捉 え る 三 つ の 観 点』の追記をします。

偶然性…自分が今ここにいることの神秘性 ⇒自己の存在についてプラス思考で捉えるようにしたい。

有限性…一つの生命には終わりがあるもの 一度失っては取り返しがつかないもの ⇒生きていることを大切にする心情を引き出し、

かけがえのない貴重な一日を精一杯生きてい こうとする思いを養いたい。

連続性…過去から現在へ、そして未来へと連綿と受け継がれていく生命 ⇒家族との結びつきを再認識し、

自分も脈々と続くであろう生命の環の一つであることに気づ かせたい。 

 

それでは2021年を健やかに締めくくりたいと思います。

 

どうぞ皆様も良いお年をお迎えくださいませ。

大変ありがとうございました。

       今年の12月玄関飾りから

健康塾 古賀公子


いのち 4歳の記憶

2021年12月16日 07時14分05秒 | Weblog

日々季節が進み、朝晩の冷え込みも一層強くなりました。

この冷え込みは地表面から熱が放出されて冷えるためで

天気予報では「放射冷却」と言う言葉を耳にします。

日中は太陽の恩恵を受けて太陽光線を吸収して熱をもらっているので地表が温められているのですが、

夜は太陽光線がなくなり地球自体は赤外線という熱を放出し続けているため地表が冷えていく現象ということです。

これからは益々冷え込み対策をしっかりしたいと思います。

さて、今日は臨死体験に話を戻して家族に起きた実体験をお伝えします。

長くなりますが、お時間がある時最後までお読みくださると有難く存じます。

 

彼がはじめに「対外離脱」を体験したのは僅か4歳でした。

この年は幼児たちの間で無菌性髄膜炎が流行していました。

無菌性髄膜炎は後頚部、つまり首の後ろが硬直(項部硬直)するため仰向けにして頭だけを持ち上げようとしても上がりません。

首から肩まで硬い板のようになる髄膜刺激症状です。

その始まりは、3歳から5歳に多いといわれる「おたふくかぜ」のあと発症しました。

いったん、おたふく風邪の症状が治まった直後から40度を超える熱と脱水症状、嘔吐を繰り返しました。

 

かかりつけの小児科を受診して、直ぐに無菌性髄膜炎の疑いがあるため総合病院への

受診を勧められました。

 

その後、髄液検査によって髄液細胞数の増加を調べ、増加していることで入院になりました。

 

髄液検査は、体を横向きでエビのように丸くして腰部の脊髄から針を刺して、脊髄腔(骨髄と硬膜の間の空間)から髄液を採取します。

 

親は処置室に入れず、処置室では頭と体幹部、脚を3人の看護師に抑えられて医者によって処置が行われます。

 

この検査を受けたのは入院時と入院中、退院時の3回でした。異変が起きたのは2回目の髄液検査の直後でした。

1回目の処置では何度か泣き声が聞こえましたが、その後の異変はなかったものの、

2回目の時は時間も20分以上かかり、断続的に泣き声が聞こえました。

 

当時、公衆衛生学教室の研修生として、針麻酔などに関わり麻酔科医と共に研究していた夫に

髄液検査時に使う針や採取方法の書かれた本を見せてもらい、断続的に泣いていたのは脊髄腔を上手にとらえられず、

何度も針の刺入を繰り返していたせいではないかと思いました。

 

わが子の泣き声が途切れながら繰り返される間、私は何か危機的な状況を感じ取っていました。

そして、ようやく処置室から医者に抱きかかえられて出てきた姿が

1回目とは明らかに違いがあり、更に異様な強い危機感を覚えました。

 

看護師が先を歩きその後に医者が息子を抱きかかえたまま一番遠くの病室に向かって歩いていく間、

私はまるで金縛りにあったように身体は硬直して、

その様子を呆然と眺めていて後を続いて行くこともできませんでした。

 

そして、息子の病室に近づいた時、彼はまるでイキのいい魚が暴れるように体を大きく痙攣させたので

医者は「おい、大丈夫か、しっかりしろ!」と大きな声を出しました。

 

私はその声にはっと我に返り、息子のもとへと走っていきました。

 

息子の痙攣したような動きは静まり、そのままベッドに寝かされ、

「目が覚めてもしばらくは頭を起こさないように」と医師から告げられました。

 

処置の翌日、息子は背中がかなり深く曲がったままになり、医師に聞いてもどうしてか答えてもらえませんでした。

私はマッサージの資格を持っているので毎日背中のマッサージをする許可をもらい病院に通いました。

そんなある日、看護師が背中に貼られた大きなパットを剝がして消毒するときに、

腰に無数につけられた針の先で黒ずんだ後をたくさん目撃しました。

 

その後、最後の髄液検査の時は1度泣き声を聞いただけでしたが、3回とも処置をした医者が違っていました。

「おたふくかぜの合併症で難聴になることもあるので、今検査をしても年齢的にわかりづらいので、

一年後に耳鼻科を受診するように」と言われ予約して退院しました。

 

全てが明らかになったのはそれから一年後、

耳鼻科受診で5歳になった息子と久しぶりに入院した病院に行き、

待合スペースの長椅子に座ると息子が一年前のことを話し始めました。

 

あれから一年も経つのに入院中担当したの3人の医者の名前を憶えていてスラスラと言えました。

 

そして、いきなり語り始めました。

「2回目に髄液を採った後とても怖かったんだよ。看護婦さんの後から先生に抱っこされて

どうして僕は天井を歩いているんだと怖くなって、そうだ眼を閉じれば見えなくなると思って目を閉じたんだよ。」

 

この話は、私が一年前に金縛りにあったように動けないまま見た光景そのものでした。

 

彼は体外離脱をして、天井から自分の姿を見ていたのでしょう。

当時はまだ幼く、それが天井を歩いていたと思ったのにちがいありません。

医者が突然痙攣した息子に驚き、声をかけた時元に戻ったのでしょう。

 

しかし、今なら間違いなく彼はあの時いのちの危機にあった事、

そして2度目の髄液検査で腰が年寄りのように曲がってしまったのは、

あまりの痛みによる背中の筋緊張によるものが影響していたのではと想像できます。

 

もしあの時、息子の命が失われていたら、医療ミスを病院が認めたかどうか?わかりません。

でも幼い子供が恐怖体験としてそれまで一度も口に出さなかったことを、一年後再び病院に来たことで記憶が蘇ったのでしょうか。

 

母として一年前の目撃者として、あの日見たすべての事実が符号して腑に落ちました。

 

この事実は決して繰り返されてはならない未熟な医療従事者へ、

声にはならない幼子の体験として父になった今も彼の記憶にも残っています。

 

最後までお読みくださり有難う御座いました。

 


いのち 日野原先生の言葉から

2021年12月13日 07時24分38秒 | Weblog

おはようございます。

今日も暖かい日差しに恵まれるようで有難いですね。

旧暦では師走、「師匠の僧が仏事のために走る程忙しい月から」と言われるように、年の瀬は気ぜわしく忙しい時期ではあります。

師走の他にも陰暦などでは別の言い方が幾つもあるのですが、

梅初月(うめはつづき)はこのころより梅が咲き始めるので、

 春待月(はるまちづき)は新春を待つ月。

三冬月は初冬・仲冬・晩冬の3か月(陰暦の10~12月)

どれも趣があっていいと感じますが、やはり 春待月が最も好きな異名です。

  

さて、今回も「いのち」について書いていきたいと思います。

ご心配おかけしています夫は、電車の移動や同じ動作の維持などはだんだんと時間を延ばせるようになっています。

しかし、頸部の骨折が完全に治癒しておらず、装具をまだ外せないため頸の筋力も衰え、頭痛や肩こり、腰痛を引き起こしています。

そんな中でもお陰様で歩けることによって、通院以外の世間との繋がりが徐々に広がってきています。

このまま後遺症が続いたり新たな症状が出ないことを祈る日々です。

救急搬送された聖路加国際病院には大変お世話になり、今後も頸部の画像診断を

定期的に受けることになっています。

ところで、この病院の理事長をされていて105歳で人生を全うされた、日野原重明先生のことは多くの方がご存知かと思います。

私は先生のご講演をお聞きする機会がありましたがご高齢の身になっても

長時間のご講演をご自身の脚でしっかり立って最後まで熱演されていたお姿は目に焼き付いています。

お亡くなりになる数か月前まで患者さんを診ることも続けられ、生涯現役を貫いた医師でした。

 

また、日野原先生は小学生たちにも「いのちの授業」の中で多くの言葉を発信していました。

いのちの大切さ」のご講演から

 

『いのちは見えないもの。

それは風のように、その影としての梢のゆらぎや、雲の流れていることの本体は頭では分かるが

その本体を心で感じることは難しいものです。

いのちは自分でどうにでも使える自分が持っている時間なのです。・・・・・・』

 

日野原先生は絶えず5年先のことを考えて行動され、毎日が「今日も目が覚めて良かった」と

おしゃっていたとお聞きしました。

 

私もいのちの大切さをかみしめながら、この先も心と身体の健康を基盤に日々育んでいきたいと思います。

 

さあ、この1週間も目標をかかげ、計画をして過ごして行こうと思います。

皆様もどうか無事故ですてきな日々になりますように❤