今朝の奈良市アメダスの最低気温は7.8℃、最高気温は16.6℃、五條市アメダスの最低気温は5.9℃、最高気温は15.5℃でした。今日は朝のうちは雲が多く、晴れとはいい難い空模様でしたが、午後には雲もとぎれとぎれになり、合間に青空が広がりました。明日は更にもう少しすっきりした青空になってくれることでしょう。
さて、高校と大学の教員らで作る「高大連携歴史教育研究会」が、大学受験で 高校の歴史の授業が暗記中心になっているのは問題だとして、覚えるべき項目を現在の3400−3800(日本史と世界史合計)から約半分に減らすという精選案を発表したそうです。高校・大学教員を対象にしたアンケート調査でも、高校の歴史教育が「大学入試のための用語の暗記中心の授業になっている」という意見が7割を超えているともいわれ、記憶偏重が問題視されているらしいですが、では精選されて落魄した項目にはどういうものがあるかというと、「武田信玄」、「上杉謙信」、「吉田松陰」、「坂本龍馬」などなどが削られているのだとか。
これらの人物などは、知名度はともかく、実際の歴史上の役割や意味は大きくない、ということで削る対象になっているのだそうです。その一方で「共同体」のような概念の用語や「グローバル化」といった現代的課題につながる語句を加えるとのこと。
うーん、個人的には、学生の頃はもっともっと詳細に歴史を教えてもらいたかった、特に中国古代と日本の戦国時代と明治から昭和の戦争の歴史については、と思っていたので、この簡素化すればよい、という考え方には賛同いたしかねます。歴史が記憶中心になるのは多少はしょうがない部分もありますが、歴史とは結局人と人のドラマであり、それぞれの人々の機微をとらえ、何をどう人々が観て判断し、それがどう世界に影響してきたのか、という、ダイナミックな時代の流れ、うねり、といったものを理解させてくれるような授業・講義があれば、歴史好きはもっと増えてくれるんじゃないかと思います。年号を念仏のようにただ唱えて覚えるよりも、大きな流れの中で事象を捉えれば、自然と頭に入ってくる分もあるでしょう。そんな歴史の面白さを捨象して、つまらない部分のみを精選したのが今の歴史教育であるという主張ならまだ理解できますが、単に半分に減らせ、というのは受け入れられません。そもそも半分が正しい量なのかどうかも判りません。そんな意味があるかどうかわからない数合わせよりも、歴史の醍醐味、面白さを理解しているかを問うような問題を入試で大学なり文部科学省なりが用意すればよろしいのではないでしょうか? それが出来ないから記憶偏重になっている事を思えば、それこそ大学や国側の怠慢と言われてもしょうがない気が致します。
さて、高校と大学の教員らで作る「高大連携歴史教育研究会」が、大学受験で 高校の歴史の授業が暗記中心になっているのは問題だとして、覚えるべき項目を現在の3400−3800(日本史と世界史合計)から約半分に減らすという精選案を発表したそうです。高校・大学教員を対象にしたアンケート調査でも、高校の歴史教育が「大学入試のための用語の暗記中心の授業になっている」という意見が7割を超えているともいわれ、記憶偏重が問題視されているらしいですが、では精選されて落魄した項目にはどういうものがあるかというと、「武田信玄」、「上杉謙信」、「吉田松陰」、「坂本龍馬」などなどが削られているのだとか。
これらの人物などは、知名度はともかく、実際の歴史上の役割や意味は大きくない、ということで削る対象になっているのだそうです。その一方で「共同体」のような概念の用語や「グローバル化」といった現代的課題につながる語句を加えるとのこと。
うーん、個人的には、学生の頃はもっともっと詳細に歴史を教えてもらいたかった、特に中国古代と日本の戦国時代と明治から昭和の戦争の歴史については、と思っていたので、この簡素化すればよい、という考え方には賛同いたしかねます。歴史が記憶中心になるのは多少はしょうがない部分もありますが、歴史とは結局人と人のドラマであり、それぞれの人々の機微をとらえ、何をどう人々が観て判断し、それがどう世界に影響してきたのか、という、ダイナミックな時代の流れ、うねり、といったものを理解させてくれるような授業・講義があれば、歴史好きはもっと増えてくれるんじゃないかと思います。年号を念仏のようにただ唱えて覚えるよりも、大きな流れの中で事象を捉えれば、自然と頭に入ってくる分もあるでしょう。そんな歴史の面白さを捨象して、つまらない部分のみを精選したのが今の歴史教育であるという主張ならまだ理解できますが、単に半分に減らせ、というのは受け入れられません。そもそも半分が正しい量なのかどうかも判りません。そんな意味があるかどうかわからない数合わせよりも、歴史の醍醐味、面白さを理解しているかを問うような問題を入試で大学なり文部科学省なりが用意すればよろしいのではないでしょうか? それが出来ないから記憶偏重になっている事を思えば、それこそ大学や国側の怠慢と言われてもしょうがない気が致します。