東京に桜の名所は多いが、こんな所で花見する事になるとは、と榊はあくびをしながらその並木を見た。おぼろに霞む青空をバックにゆらゆらと花びらを散らす満開の花は、まるで夢の最中であるかのように榊をしつこく眠りに誘う。
城西大付属病院の一室。
窓際の微風に髭をなでられながら、榊は自由のきかぬ身を持て余していた。これというのも、四日前、重傷の身を押して病院を抜け出した無理が祟ったのだが、こうしてベットに縛り付けられて三日もすると、動きたくてしょうがなくなるのである。
(我ながら貧乏性だとは思うが・・・)
榊は、煙草もない手持ち無沙汰をやや深刻に憂えながら、屑篭の中の丸められた紙を見た。「辞表」と表書きされたそれは、三月三一日の朝、見舞いに来た同僚に、高木警視正へ提出するよう頼んだ物である。既に内示が公表され、誰もが四月からの榊の地位を知っていたから、同僚は何も言わずに辞表を懐に入れて帰ったのだった。その同僚が、今朝になって不可解な笑顔とともに、処分の取り消しと公傷扱いの一カ月特別休暇を携えて、辞表を持って帰ってきたのである。
「よくわからんが、何でも夢見心地が悪かったらしいぞ」
同僚は、わずか三日でげっそりと顔色悪くやせ細ってしまった高木警視正の様子をまじえながら、庁内に流布するうわさ話の断片を榊に聞かせた。その上で辞表を榊の目の前で二つに割き、丸めて屑入れに放り込んだのだった。
夢見心地・・・。榊はその言葉にある事を連想した。
(やはり教えるべきではなかったか)
榊は、四月一日のこの部屋で、自分の処遇を娘が麗夢達にばらした時の事を思い起こした。その時、榊はこちらも包帯だらけになった麗夢、鬼童、円光に問い詰められて、しぶしぶ辞める羽目に陥った事を白状させられたのである。三人はひとしきり警視庁の石頭ぶりを非難した後、結局それは自分たちの責任であると深刻に考え込んだ。榊はその時、三人がよからぬ相談を始めたように不安な予感がよぎったのだ。あれから三人が、どこで、何を、どうしたのか。ここから出られない榊にはさっぱり分からない。いや、判らない、というのは少々フェアとはいえないだろう。十分に想像はつくのだから。榊は思わずクスリと笑みをこぼしながら、恐らくは高木警視正を襲ったここ数日の悪夢のことに思いをはせた。だが、三人が次に見舞いに来た時にそれを問い正すべきかどうか、は、なかなかに難しい問題である。
(まあ、やはり礼を言うべきだろうな。みんなに)
しばらくして苦笑とともに結論を出した榊は、壁の時計を見ながら一人ごちた。
「今日は遅いな」
榊は再び窓の外の桜を見た。もうすぐあの下を通って、緑の黒髪をなびかせながらこちらに手を振る少女が、可愛らしさなら勝るとも劣らない猫と犬と、二人の眉目秀麗な男達を従えてやってくるはずなのだ。
(それまでは眠り込まないように・・・)
榊は懸命に努力しながら、気持ちよい春風に舞う桜の花びらを見つめていた。
終わり
城西大付属病院の一室。
窓際の微風に髭をなでられながら、榊は自由のきかぬ身を持て余していた。これというのも、四日前、重傷の身を押して病院を抜け出した無理が祟ったのだが、こうしてベットに縛り付けられて三日もすると、動きたくてしょうがなくなるのである。
(我ながら貧乏性だとは思うが・・・)
榊は、煙草もない手持ち無沙汰をやや深刻に憂えながら、屑篭の中の丸められた紙を見た。「辞表」と表書きされたそれは、三月三一日の朝、見舞いに来た同僚に、高木警視正へ提出するよう頼んだ物である。既に内示が公表され、誰もが四月からの榊の地位を知っていたから、同僚は何も言わずに辞表を懐に入れて帰ったのだった。その同僚が、今朝になって不可解な笑顔とともに、処分の取り消しと公傷扱いの一カ月特別休暇を携えて、辞表を持って帰ってきたのである。
「よくわからんが、何でも夢見心地が悪かったらしいぞ」
同僚は、わずか三日でげっそりと顔色悪くやせ細ってしまった高木警視正の様子をまじえながら、庁内に流布するうわさ話の断片を榊に聞かせた。その上で辞表を榊の目の前で二つに割き、丸めて屑入れに放り込んだのだった。
夢見心地・・・。榊はその言葉にある事を連想した。
(やはり教えるべきではなかったか)
榊は、四月一日のこの部屋で、自分の処遇を娘が麗夢達にばらした時の事を思い起こした。その時、榊はこちらも包帯だらけになった麗夢、鬼童、円光に問い詰められて、しぶしぶ辞める羽目に陥った事を白状させられたのである。三人はひとしきり警視庁の石頭ぶりを非難した後、結局それは自分たちの責任であると深刻に考え込んだ。榊はその時、三人がよからぬ相談を始めたように不安な予感がよぎったのだ。あれから三人が、どこで、何を、どうしたのか。ここから出られない榊にはさっぱり分からない。いや、判らない、というのは少々フェアとはいえないだろう。十分に想像はつくのだから。榊は思わずクスリと笑みをこぼしながら、恐らくは高木警視正を襲ったここ数日の悪夢のことに思いをはせた。だが、三人が次に見舞いに来た時にそれを問い正すべきかどうか、は、なかなかに難しい問題である。
(まあ、やはり礼を言うべきだろうな。みんなに)
しばらくして苦笑とともに結論を出した榊は、壁の時計を見ながら一人ごちた。
「今日は遅いな」
榊は再び窓の外の桜を見た。もうすぐあの下を通って、緑の黒髪をなびかせながらこちらに手を振る少女が、可愛らしさなら勝るとも劣らない猫と犬と、二人の眉目秀麗な男達を従えてやってくるはずなのだ。
(それまでは眠り込まないように・・・)
榊は懸命に努力しながら、気持ちよい春風に舞う桜の花びらを見つめていた。
終わり
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