夢に入るという感覚は、スカイダイビングに似ているかもしれない。
夢の中に上下がはっきりあるわけでも無し、重力が働いていると言うわけでもない。そもそも心の問題なのであるから、現実世界の物理法則などここではほとんど意味がないと言えばそう言えてしまう。だが、いかに夢があらゆる事において自由自在だと言っても、それが人間に起こる事象である以上、自ずとその制約を受けることになる。人は、まだ重力のくびきからは逃れられていない。だからこうして夢に入るときは、形として、下へ下へと落ちていくイメージを伴うのだ。
麗夢の周りを、30分も眺めていれば気が触れてしまいそうな極彩色の光の渦が、奇怪に歪みながら下から上に流れていく。ひしゃげたあぶくのような灰白色の塊が、ぶよぶよと蠢きながら堕ちていく自分の両脇を避けるように浮き上がっていく。そんな様子を見ると、これはスカイダイビングと言うよりは深海探査艇のそれに近いとも言える。
ただ違うのは、いくら潜っても圧力が増すことがないことと、多分こちらの方が重要なのだが、命綱の類がないことだろう。いつもならそんなことは百も承知で飛び込む麗夢なのだが、今回に限っては、どうもいやな予感がしてならなかった。多分、アルファ、ベータがいないことや、円光等の助力も期待できないことが、余計不安を助長しているのだろう。
でも、それよりも麗夢の心に引っかかっているのは、結局まだこのこと自体に釈然としない思いを拭えないでいることだ。今、麗夢が侵入を試みている夢。これは、黒髪のロムこと真野佐緒里嬢の夢なのである。
麗夢は正直気乗りしなかった。第一、ROMはプログラムのバグから暴走したのである。真野昇造氏はそのことを理解し、そのバグを修正してから佐緒里嬢に移したのであろうか。真野氏はその事について何も語らなかった。つまり、最悪ROMの暴走部分を、佐緒里はそのまま受け継いでいる可能性があるのだ。それでも、まさに土下座して頼み込む昇造氏の願いを、麗夢は無下にすることもできなかった。結局首を縦に振った麗夢は、ようやく降り立った佐緒里の夢にその建物を見たとき、あの苦戦した闘いのことを思い出して、嫌な予感に囚われた。
麗夢の目の前にそびえ立つ建物。それは間違いなく屋代修一の屋敷そのものに違いなかった。思わずごくりと息を呑むほどの威圧感を覚える。しかも今回は円光の助太刀はない。何かあっても、麗夢一人で切り抜けなくてはならないのだ。
(でもまあ、ここは夢の中なんだから……)
前回は現実世界での闘いだったから、自ずとこちらにも力の限界があった。だが、今いるのは間違いなく夢の中。確かに普通の人の夢とはどこか違和感を覚えるが、ジュリアンの夢に比べればはるかに自然だ。それに、麗夢の持つ本来の力を掣肘する物は何もない。麗夢は懐の拳銃を確かめると、意を決して記憶のままの扉に手をかけた。
ぎい。
古風で重厚なドアを引きあける。
中はうっすらとほこりが溜まり、調度品や天井には、ほこり塗れのくもの巣が乱雑にかかっている。
永らく生きて動く者がないまま、封じられた世界。
あの時もそうであったように、麗夢は慎重に辺りをうかがいながら、屋敷の中に足を降ろした。
ふわっと浮いたほこりが足元を舞い、そっと降ろした足音が、小さく屋敷の奥にこだましてささやきかえしてくる。そのままじっと耳を澄ましてみるが、自分の足音以外聞こえてくるものは何もない。
麗夢はそっと入口から離れて、三歩エントランス・ホールへ足を進めた。その背後で、再びぎいと音を立て、入り口のドアが閉まる。どうやら麗夢が侵入してきたことを、夢の主はご存じらしい。そしてその気配は決して友好的とは思えなかった。
「どうやら、ただの調査行ではすみそうにないかもね……」
麗夢はチラとドアをかえりみると、不敵な笑みを浮かべ、まっすぐ奥へと進み出した。
前回、屋代邸を訪れたときは、グリフィンの設置場所が判らず、闇雲にドアというドアを開けながら奥に進んだが、今回はその必要はない。
麗夢は、左右に並ぶドアの数々を無視しながら、最奥の突き当たりに歩を進めた。
その奥に目指すグリフィンがある。
そして、おそらくは夢の主、ROMのプログラムで構成された、佐緒里の精神がいるに違いない、と麗夢は確信していた。
やがて麗夢は、暖炉のある古い応接間に入り、正面にあるドアの前に立った。
本物の屋代邸では、このドアの向こうで待ちかまえる凄まじいセキュリティシステムの波状攻撃に、円光と二人危うくやられるところであった。
麗夢は左脇のホルスターから愛用の銃を取り出すと、左手をドアのノブにかけた。
その奥で待つのは友好の握手の手か、はたまた手荒い歓迎の嵐か。
がちゃり。
思いの外軽くドアが開き、麗夢は電子の神殿、グリフィンの元へと侵入した。
同じ光景。
同じ雰囲気。
唸りを上げて稼働する巨大なグリフィンが奥に鎮座し、その周囲に、かつて雨霰と弾丸を浴びせかけてきたバルカン砲の銃口が並び立つ。
ただ唯一の違いは、一人の少女が砲列に取り囲まれるようにしてグリフィンの前に立ち、無表情にこちらをじっと伺っていることだった。
その姿形は、さっき真野昇造の横に佇んでいたのと同じ、ストレートの黒髪に、清楚な白のワンピースといういでたちである。
「やっぱりここにいたわね。佐緒里さん、いえ、ROMと呼んだ方がいいかしら?」
すると佐緒里は問いかけには答えず、黙って軽く首を右に振った。
その視線の前にある壁に、突然音もなく四角い明かりが瞬いた。
見ると四〇インチはありそうなディスプレイが壁に埋め込まれている。
あの時はこんなのは見なかったな、と麗夢は興味深げにその画面に目を向けた。
夢の中に上下がはっきりあるわけでも無し、重力が働いていると言うわけでもない。そもそも心の問題なのであるから、現実世界の物理法則などここではほとんど意味がないと言えばそう言えてしまう。だが、いかに夢があらゆる事において自由自在だと言っても、それが人間に起こる事象である以上、自ずとその制約を受けることになる。人は、まだ重力のくびきからは逃れられていない。だからこうして夢に入るときは、形として、下へ下へと落ちていくイメージを伴うのだ。
麗夢の周りを、30分も眺めていれば気が触れてしまいそうな極彩色の光の渦が、奇怪に歪みながら下から上に流れていく。ひしゃげたあぶくのような灰白色の塊が、ぶよぶよと蠢きながら堕ちていく自分の両脇を避けるように浮き上がっていく。そんな様子を見ると、これはスカイダイビングと言うよりは深海探査艇のそれに近いとも言える。
ただ違うのは、いくら潜っても圧力が増すことがないことと、多分こちらの方が重要なのだが、命綱の類がないことだろう。いつもならそんなことは百も承知で飛び込む麗夢なのだが、今回に限っては、どうもいやな予感がしてならなかった。多分、アルファ、ベータがいないことや、円光等の助力も期待できないことが、余計不安を助長しているのだろう。
でも、それよりも麗夢の心に引っかかっているのは、結局まだこのこと自体に釈然としない思いを拭えないでいることだ。今、麗夢が侵入を試みている夢。これは、黒髪のロムこと真野佐緒里嬢の夢なのである。
麗夢は正直気乗りしなかった。第一、ROMはプログラムのバグから暴走したのである。真野昇造氏はそのことを理解し、そのバグを修正してから佐緒里嬢に移したのであろうか。真野氏はその事について何も語らなかった。つまり、最悪ROMの暴走部分を、佐緒里はそのまま受け継いでいる可能性があるのだ。それでも、まさに土下座して頼み込む昇造氏の願いを、麗夢は無下にすることもできなかった。結局首を縦に振った麗夢は、ようやく降り立った佐緒里の夢にその建物を見たとき、あの苦戦した闘いのことを思い出して、嫌な予感に囚われた。
麗夢の目の前にそびえ立つ建物。それは間違いなく屋代修一の屋敷そのものに違いなかった。思わずごくりと息を呑むほどの威圧感を覚える。しかも今回は円光の助太刀はない。何かあっても、麗夢一人で切り抜けなくてはならないのだ。
(でもまあ、ここは夢の中なんだから……)
前回は現実世界での闘いだったから、自ずとこちらにも力の限界があった。だが、今いるのは間違いなく夢の中。確かに普通の人の夢とはどこか違和感を覚えるが、ジュリアンの夢に比べればはるかに自然だ。それに、麗夢の持つ本来の力を掣肘する物は何もない。麗夢は懐の拳銃を確かめると、意を決して記憶のままの扉に手をかけた。
ぎい。
古風で重厚なドアを引きあける。
中はうっすらとほこりが溜まり、調度品や天井には、ほこり塗れのくもの巣が乱雑にかかっている。
永らく生きて動く者がないまま、封じられた世界。
あの時もそうであったように、麗夢は慎重に辺りをうかがいながら、屋敷の中に足を降ろした。
ふわっと浮いたほこりが足元を舞い、そっと降ろした足音が、小さく屋敷の奥にこだましてささやきかえしてくる。そのままじっと耳を澄ましてみるが、自分の足音以外聞こえてくるものは何もない。
麗夢はそっと入口から離れて、三歩エントランス・ホールへ足を進めた。その背後で、再びぎいと音を立て、入り口のドアが閉まる。どうやら麗夢が侵入してきたことを、夢の主はご存じらしい。そしてその気配は決して友好的とは思えなかった。
「どうやら、ただの調査行ではすみそうにないかもね……」
麗夢はチラとドアをかえりみると、不敵な笑みを浮かべ、まっすぐ奥へと進み出した。
前回、屋代邸を訪れたときは、グリフィンの設置場所が判らず、闇雲にドアというドアを開けながら奥に進んだが、今回はその必要はない。
麗夢は、左右に並ぶドアの数々を無視しながら、最奥の突き当たりに歩を進めた。
その奥に目指すグリフィンがある。
そして、おそらくは夢の主、ROMのプログラムで構成された、佐緒里の精神がいるに違いない、と麗夢は確信していた。
やがて麗夢は、暖炉のある古い応接間に入り、正面にあるドアの前に立った。
本物の屋代邸では、このドアの向こうで待ちかまえる凄まじいセキュリティシステムの波状攻撃に、円光と二人危うくやられるところであった。
麗夢は左脇のホルスターから愛用の銃を取り出すと、左手をドアのノブにかけた。
その奥で待つのは友好の握手の手か、はたまた手荒い歓迎の嵐か。
がちゃり。
思いの外軽くドアが開き、麗夢は電子の神殿、グリフィンの元へと侵入した。
同じ光景。
同じ雰囲気。
唸りを上げて稼働する巨大なグリフィンが奥に鎮座し、その周囲に、かつて雨霰と弾丸を浴びせかけてきたバルカン砲の銃口が並び立つ。
ただ唯一の違いは、一人の少女が砲列に取り囲まれるようにしてグリフィンの前に立ち、無表情にこちらをじっと伺っていることだった。
その姿形は、さっき真野昇造の横に佇んでいたのと同じ、ストレートの黒髪に、清楚な白のワンピースといういでたちである。
「やっぱりここにいたわね。佐緒里さん、いえ、ROMと呼んだ方がいいかしら?」
すると佐緒里は問いかけには答えず、黙って軽く首を右に振った。
その視線の前にある壁に、突然音もなく四角い明かりが瞬いた。
見ると四〇インチはありそうなディスプレイが壁に埋め込まれている。
あの時はこんなのは見なかったな、と麗夢は興味深げにその画面に目を向けた。
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