いつやにいざよお陀仏に。
(1282年)(十六夜(いざよい)日記)(阿仏尼(あぶつに))
[ポイント]
1.『十六夜日記』(1282年ごろ成立)の作者は阿仏尼。
[解説]
1.藤原為家の側室であった阿仏尼(?~1282)の日記で、1282年ごろ成立。夫の死後、実子(為相(ためすけ))と母違いの嫡子との間に領地相続の争いが生じ、訴訟のため鎌倉に下る。その道中および鎌倉滞在を記す紀行文日記。
〈2014立大・法・経済(経済政策)・異文化コミュ
中世は女性の権利が比較的強く、訴訟や政治に積極的に関与する女性の姿もみられた。阿仏尼は、藤原為家の側室であった。為家没後、二条家をたてた為氏、冷泉家をたてた為相とのあいだで播磨国細川荘をめぐる相続争いが発生すると、阿仏尼はその訴訟解決のために京から鎌倉に向かう。『( ロ )』はその際の紀行文である。」
(答:十六夜日記)〉
〈2013慶大・法
さてもなをあづまのかめのかゞみにうつさんば、くもらぬかげもやあらはるゝ」は、幕府訴訟による解決を求めて、1279年に京都を出発し、鎌倉に下向した女性がその際の様子をつづった[2526]の一節である。作者は、歌道家で公家の藤原為家の後妻であり、訴訟は為家の相続財産の帰属をめぐるものであった。為家は、その所領の一部である細川荘を、いったん先妻との間の嫡男為氏に譲ったが、為氏に不孝な振る舞いがあったために「悔返し」を行い、取り戻した細川荘を、作者との間の子為相に与えるという内容の遺言を作成していた。ところが、為家の死後も、為氏は細川荘を為相に渡そうとしなかった。公家法では「悔返し」を認めていなかったことも理由である。作者は、最後の望みとして、鎌倉に提訴することを決意した。当時女性が訴訟のために鎌倉下向することは珍しくはなかったが、鎌倉時代の訴訟とはどのようであったのだろうか。」
(答:十六夜日記 ※62の選択肢あり)〉
〈2012明治大・政経
遣唐使が廃止されるころになると、中国文化を消化・吸収した国風化が進み、平仮名や片仮名が広く使われるようになり、仮名文字による優れたエ文学作品があらわれた。」
問6 下線部(エ)について、この時期の日記作品として誤っているものはどれか。A~Eから一つ選べ。
A十六夜日記 B和泉式部日記 C蜻蛉日記
D更級日記 E紫式部日記
(答:A ※「トカゲの泉村さらさ」)