●鎌倉時代(土御門天皇 北条時政)
1203(建仁3)年 〈北条時政、執権就任〉★
Hōjyō Tokimasa assumes the office of shogunal regent.
人に推される 時政ね。
1203年 比企能員 北条時政 源実朝
源頼朝の死後、その子頼家が家督を継いだが統率力に欠け、妻の実家の比企氏を重んじた。1203年、頼朝の妻政子の父北条時政は比企能員と頼家の子一幡を討ち(比企氏の乱)、頼家を幽閉して新たに実朝を将軍に立てた。そして自らは政所の長官となり、執権として幕府の実権を握った。
[ポイント]
1.北条時政は、源頼家・梶原氏・比企氏を滅し源実朝を擁立した。
1199.1 頼朝死去。源頼家、家督を継ぎ2代将軍となる。
.4 北条政子・時政が源頼家の権力を制限し、13名の有力御家人による合議制を布く。
1200.1 梶原景時(かじわらかげとき)(頼朝の側近で有力御家人)追討
1203.9 比企能員(ひきよしかず)(頼家の義父)の乱。
時政、頼家を伊豆の修禅寺に幽閉。
実朝を3代将軍に擁立。
時政、政所別当(初代執権)となる。
1204.7 頼家、修禅寺で謀殺される。
[解説]
1.北条時政(1138~1215)は、初代執権。頼朝の死後、1199年、娘政子とともに、2代将軍頼家が自ら訴訟を裁くことを禁じ、大江広元・三善康信らの貴族出身の頼朝側近と、北条時政・梶原景時・三浦義澄・比企能員・和田義盛ら有力御家人からなる13人の合議制をしいた。
2.頼朝在世中、側近として辣腕を振るっていた侍所別当・梶原景時が、下総の有力御家人結城朝光を頼家に告げ口したとして、有力御家人が連署して糾弾する事態となった。時政らは、1200年、景時を失脚させ滅ぼした(梶原景時の変)
3.時政は、1203年、頼家が重病に冒されると、後継将軍の選定をめぐって、頼家の妻の父である比企能員と対立し、能員をおびき出して殺害し、その一族を頼家の長男一幡ともども滅してしまった。
4.時政は、後継将軍を頼家の弟で12歳の実朝とし、頼家は廃され時政の本拠地である伊豆に幽閉されて、1204年、殺害された。
5.時政は、大江広元に並んで政所別当になり、さらに時政の署名で将軍の命令を伝達する「下知状」という新しい形式の命令書を作り出して幕府政治を動かすようになった。これをもって時政を初代執権とみる。
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A.源平の争乱を制し、鎌倉幕府を開いた源頼朝は1199年の正月に亡くなる。前年に相模川の橋の完成式に参加した帰途、落馬したことによるといわれている。頼朝の死後、頼家が将軍を継ぐと母の北条政子と祖父の[ ア ]は頼家の独裁をおさえ、有力御家人による[ イ ]人の合議制による政治を行おうとして頼家と対立することになる。それとともに有力な御家人の間でも幕府の主導権をめぐる争いが続き、多くの御家人が滅んで行った。頼家の後見人武蔵の豪族[ ウ ]もその1人であった。
1203年、将軍頼家を廃した[ ア ]は弟の実朝を第3代将軍とし、将軍補佐を名目として、幕府の実権を握ることになる。この[ ア ]の地位は[ エ ]とよばれ、子の義時に継承される。
問1.空欄[ ア ]に当てはまる人名を、次の1~4の中から一つ選べ。
1.北条時頼 2.北条時政
3.北条義時 4.北条時宗
問2.空欄[ イ ]に当てはまる数字を、次の1~4の中から一つ選べ。
1.9 2.11 3.13 4.15
問3.空欄[ ウ ]に当てはまる人名を、次の1~4の中から一つ選べ。
1.和田義盛 2.三浦泰村
3.八田知家 4.比企能員
問4.空欄[ エ ]に当てはまる語句を、次の1~4の中から一つ選べ。
1.別当 2.連署 3.管領 4.執権」
(答:問1→2(時政)、問2→3(13)、問3→4(比企)、問4→4(執権))〉