スッと騙されより名ダメ。
(平忠正(ただまさ)・崇徳(すとく)上皇)(源為義(ためよし)・藤原頼長(よりなが))(保元(ほうげん)の乱)
[ポイント]
1.保元の乱の貴族の敗者は崇徳(すとく)上皇・藤原頼長(よりなが) 。武士の敗者は清盛の叔父平忠正と義朝の父源為義。
[解説]
1.鳥羽上皇が死去直後の1156(保元元)年、後白河天皇、忠通、近臣の藤原通憲(みちのり)(信西(しんぜい))の政権に対して、崇徳上皇と藤原頼長は武力での反乱に踏み切った。
2.かねて皇位継承をめぐり崇徳上皇は故鳥羽上皇・後白河天皇と対立。そして摂関家の継承をめざしていた左大臣藤原頼長は兄の関白藤原忠通と対立していた。兄弟対立の原因は、兄弟の父藤原忠実(ただざね)が長子で関白の頼長と対立し、寵愛した次子頼長を氏長者にしたことにある。崇徳上皇側は、源為義(その子で弓の名手為朝も加わる)・平忠正らの武士を集めた。
3.これに対して、鳥羽法皇の立場を引き継いでいた後白河天皇、忠通や近臣の藤原通憲(信西)らは、平清盛や為義の子源義朝らの武士を動員した。
4.その結果、夜襲案を退けた上皇方が夜襲によって敗れ、乱後、崇徳上皇は讃岐に流され、為義らは処刑された(為義の8男為朝は伊豆大島配流)(保元の乱)。
〈2015早大・文
下線a保元の乱、平治の乱はずいぶん複雑な政治的対立がらみだに関連して、保元の乱、平治の乱に関する政治惰勢の説明として正しいものを1つ選べ。
ア 崇徳上皇が弟を譲位させたことは、保元の乱の一因となった。
イ 藤原忠通は保元の乱で弟頼長と敵対した。
ウ 源義朝は平治の乱で子息の義平と敵対した。
エ 平忠正は甥清盛と対立し、平治の乱後に死刑となった。
オ 信西(藤原通憲)は源義朝に従って平治の乱で挙兵したが、敗れて死去した。
(答イ ※ア崇徳天皇は弟(近衛天皇)に譲位させられた、ウ義平は味方、エ保元の乱後、オ信西は源義朝に敵対)
〈2014早大・政経
【史料】「鶏鳴、清盛朝臣・(ア)義朝・義康等、軍兵すべて六百余騎白河に発向す〈清盛の三百余騎は二条方より、義朝の二百余騎は大炊御門方より、義康の百余騎は近衛方より〉。この間、主上御輿を召し、東三条殿に遷幸す。内侍、剣璽(けんじ)を持ち出す。(中略)この間、(イ)頼政・(ウ)重政・信兼等、重ねて白河に遣わし了(おわ)んぬ。(7)かれこれ合戦すでに雌雄に及ぶ由、使者参り奏す。この間主上、御願(ごがん)を立て、臣下祈念す。辰の剋、東方に煙炎起つ。御方の軍すでに責め寄せ、火を懸け了(おわ)んぬと云々。清盛等勝ちに乗じ、逃げるを逐(お)い、上皇・(8)左府、跡を晦(くら)まし逐電す。白河御所等焼失し畢(おわ)んぬ。(中略)(エ)上皇・左府行方知れず。但し左府に於いては、已に流れ矢に中る由、多く以て称し申す。(オ)為義以下の軍卒、同じく行方知れずと云々。(9)宇治入道殿、左府の事を聞こしめし、急ぎ南部に逃げ向かわしめたまい了(おわ)んぬと云々。
A
問2 下線部(2)検非違使の役職に就いたことのある人物を、【史料】中で下線を引いたア~オの人物の中から選べ。
問7 下線部(7)かれこれ合戦すでに雌雄に及ぶ由、使者参り奏すの意味として最も近いものはどれか。
ア あちこちで合戦が起こり情勢が混乱していると、使者が来て伝えた。
イ この合戦には男女いろいろな人が加わっていると、使者が来て報告した。
ウ この合戦の勝負は既に決まったと、使者が来て伝えた。
エ 合戦がかれこれ長時間に及んでいると、使者が来て訴えた。
オ あれこれ言っているうちに合戦が始まったと、使者が来て言った。
B
問1 【史料】が描く戦乱の名称を記せ。
問2 下線部(8)左府で示された人物の姓名を漢字で記せ。
問3 下線部(9)宇治入道殿で示された人物は、この乱において摂関家内部で争いあった兄弟の父である。この人物の姓名を漢字で示せ。」
(答:A問2オ(源為義※「し」)、問7ウ、B問1保元の乱、問2藤原頼長、問3藤原忠実)〉
〈2014立大・法・経済(経済政策)・異文化コミュ
下線部10)平清盛に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。
a.摂津の大輪田泊を修築して、日宋貿易を促進した
b.保元の乱において、源為朝とともに後白河法皇の側についた
c.娘の徳子を近衛天皇の中宮にいれた
d.六波羅蜜寺を建立するなど朝廷に奉仕し、左大臣に昇り詰めた。
(答:a ※b為朝は敗者。なお為朝に関する伝説は多く、近世の滝沢馬琴『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』も為朝伝説を元にしている、c高倉天皇の中宮、d蓮華王院を寄進)〉