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借上・問丸

2018-07-23 | Weblog

鎌倉問〇菓子あげ。

鎌倉時代)(問丸(といまる))(借上(かしあげ))


[ポイント]

1.鎌倉時代の高利貸しを借上、運送業者を問丸という。

[解説]

1.鎌倉時代に、遠隔地との商業取引も盛行し、交通の要地には、商品の中継と委託販売や運送を業とする問丸(問)が発達した。

2.遠隔地間の取引には、金銭の輸送を手形で代用する為替(かわせ)が使われ、金融機関としては高利貸業者の借上も多くあらわれた。

3.室町時代ではしだいに借上は土倉(どそう)、問丸は問屋(といや)と呼ばれるようになった。

〈2013成城大・経済

 鎌倉時代に荘園・国衙領の中心地や交通の要地、寺社の門前などに、月の一定の日になると定期市が開かれ、産物が売買された。[ 1 ]と呼ばれる月に三回開かれる定期市も珍しくなかった。また、定期市のほかに、常設の小売店である[ 2 ]もみられるようになった。遠隔地を結ぶ商業活勤も活発化し、港湾や大河川沿いの交通要地には産物の輸送や保管、委託販売を業務とする[ 3 ]が発達した。
 鎌倉時代末期から室町時代にかけて、農業と共に商業も大きく発達した。貨幣の流通が著しく増え。貨幣経済が進展するなかで、[ 3 ]から発展した卸売業者である[ 4 ]や酒屋など富裕な商工業者は、土倉と呼ばれる高利貸業を兼ねるようになっていた。」

(答:1三斎市、2見世棚、3問丸(問)、4問屋)〉

〈2013早大・文化構想

 鎌倉末から室町初期にかけて、[ A ]と呼ばれる金融業者が活勤した。
問2 空欄Aに該当する語句を漢字2字で記述解答欄紙の解答欄に記入しなさい。

(答:借上)

〈2013学習院大・経済

 年貢・公事は室町時代になると、荘園こよっては銭で納めるようになり、為替でこれを送るところも出てくる。しかし、原則は荘民が自身で運搬しなければならなかった。(7)〔イ)連雀商人 ロ)頼母子 ハ)四府駕輿丁座 ニ)借上 ホ)問(問丸)〕が、荘園から徴収した年貢や商品の保管・輸送にあたった。

(答:ホ)

〈2012大学入試センター試験・日本史B

問3 下線部b鎌倉時代の後半に関連して、このころの人々の活動について述べた文として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。

 1.幕府や荘園領主の支配に抵抗する者が、悪党とよばれた。

 2.足軽が鉄砲隊に組織され活躍した。
 3.都市鎌倉では、大原女などの女性商人が活躍した。
 4.交通の要所では、商品の中継ぎや運送を行う借上が現れた。」

(答:1 ※2足軽の活躍は室町時代以降。鉄砲の伝来は1543年、3大原女は京都の大原から出て京都市内で薪などを売り歩いた女性商人、4借上は鎌倉時代の高利貸業者。ここは問丸が正しい)〉

〈2012法政大学・文経営人間環境

問5 下線部e南宋からの輸入品は日本の社会に大きな影響を及ぼしたについて、南宋からの輸入品が日本の社会に及ぼした影響のうちもっとも重要なことがらを80字以内で説明せよ。句読点も1字に数える。算用数字は1マスに2字記入してもよい。

〔解答例〕

大量輸入された宋銭が流通し、日本の貨幣経済の発達をうながした。年貢の銭納が始まり、遠隔地間取引に為替が用いられ、高利金融業の借上も出現した。(70字)〉

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元寇

2018-07-23 | Weblog

原稿高三異国分 何ぞ弘安下つチン。 

元寇)(麗服属・別抄・国警固番役の初め・永の役)(南宋滅亡・安の役・霜月騒動・西探設置)

[ポイント]
1.元寇前後は、高麗服属(1259)→三別抄の乱(1270)→異国警固番役のはじめ(1271)→文永の役(1274)→南宋滅亡(1279)→弘安の役(1281)→霜月騒動(1285)→鎮西探題設置(1293)と推移。

[解説]
1.(1271~1368)のフビライ=ハン(位1260~94)は、高麗を服属させ、日本に対してもたびたび朝貢を強要してきた。

2.しかし、執権北条時宗(1251~84)がこれを拒否したので、元・高麗の連合軍約3万の兵で、1274(文永11)年、対馬・壱岐を侵略し、九州北部の博多湾に上陸した。幕府は、九州地方に所領を持つ御家人を動員して、これを迎え撃ち、苦戦の末、元軍を退却に追い込んだ(文永の役)。


3.幕府は再度の襲来に備えて、博多湾岸など九州北部の要地を御家人に警備させる異国警固番役を強化するとともに、博多湾沿いに石造の防塁(石築地)を構築させた。


4.元は南宋を滅ぼした後、ふたたび日本の征服をめざし、1281(弘安4)年、約14万の大軍をもって九州北部にせまった。しかし博多湾岸への上陸をはばまれているあいだに暴風雨がおこって、ふたたび敗退した(弘安の役)。この2回にわたる元軍の襲来を蒙古襲来(元寇)という。


5.高麗は服属後も、三別抄の乱などさまざまな形で抵抗を続けた。フビライは日本との交渉や、日本の攻撃に高麗を利用したが、高麗の元に対する抵抗の継続は、日本遠征の障害となった。

〈2014同志社大・文

( i )では、(元の襲来に対し)3隊に組織された特別編成の部隊が、済州島を本拠として頑強に抵抗したが、1273年に平定された。この部隊は何とよばれたか。その名称を漢字で記せ。」

(答:i高麗、k三別抄)〉

〈2013早大・法

 中国大陸の支配のためにaフビライは南宋の支配を目指しつつ、未征服国である日本も支配下に置こうとする動きをはじめた。
 フビライは、b1268年以後、数次にわたって日本に朝貢を求める国書を送ってきた。しかし、この間、高麗ではモンゴル支配に抵抗する[ A ]の乱がおき、その影響で日本への攻撃は遅れることになった。[ A ]の乱の平定後、cと高麗の兵からなる大軍が来襲してきた。d日本は苦戦したが、暴風雨もあって、元軍は退却した。この元による侵寇を文永の役と呼ぶ。
 文永の役の後も、フビライは、1275年に杜世忠を[ B ]に派遣するなど、日本征服を断念していなかった。元は、e1279年に南宋を滅ぼし、その後、弘安の役と呼ばれる2度目の日本遠征を行った。しかし、このときも暴風雨により敗退することになった。
 2度にわたる蒙古襲来に際しては、f得宗の北条時宗を中心に鎌倉幕府の意思決定が行われた。これ以降、得宗の勢力が強大になるとともに、得宗家の被官である御内人とその代表である[ C ]が幕府で権力を握るようになるなど、幕府の合議制は形骸化した。gこの蒙古襲来は、日本の政治や社会のあり方に様々な影響を及ぼすことになったのである

問1 下線部aについて。フビライに謁見したことがあり、「黄金の国ジパング」として日本を紹介した人物の名を記述解答欄に記入しなさい。

問2 下線部b(1268年以後、数次にわたって日本に朝貢を求める国書を送ってきた)について。1268年の国書送付から文永の役に関連する出来事として正しいものを1つ選べ。
 1 1268年に最初の国書が送られた時、北条時宗はまだ執権になっていなかった。
 2 鎌倉幕府は、フビライの要求を拒否しつつも、国書に対する返書は送った。
 3 モンゴルによる南宋への攻撃が計画、着手されていた当時、日宋貿易はすでに行われなくなっていた。
 4 文永の役後に、九州北部に異国警固番役が編成された。
 5 竹崎季長は蒙古襲来絵巻を文永の役の戦勝祈願のために奉納した。

問3 空欄Aに入る語を記述解答欄紙に漢字3字で記入しなさい。

問4 下線部cについて。1268年の国書送付から文永の役までの間に、フビライは国号を元と定めた。国号を元と定めた年として正しいものを1つ選べ。
 あ1269年 い1270年 う1271年
 え1272年 お1273年

問5 下線部dについて。日本軍の苦戦の原因の1つとなった元軍の火器の名を、記述解答欄紙に平仮名4字で記入しなさい。

問6 空欄Bには地名が入る。1275年にこの地の防衛のため異国警固番役が編成されたが、その地名として正しいものを1つ選べ。
 あ越前 い能登 う美作
 え長門 お播磨

問7 下線部eについて。南宋滅亡後の1279年に北条時宗に招かれ、円覚寺を開山した僧の名前として正しいものを1つ選べ。
 あ蘭渓道隆 い無学祖元 う兀庵普寧
 え東巌慧安 お一山一寧」

問8 下線部fについて。得宗の名の由来になった法名をもつ執権の名前として正しいものを1つ選べ。
 あ北条時政 い北条義時 う北条泰時
 え北条時頼  お北条長時

問9 空欄Cに入る語を記述解答欄に漢字3字で記入しなさい。

問10 下線部gについて。蒙古襲来前後の日本の状況として正しいものを2つ選べ。

 1 得宗専制政治の下でも、諸国の守護職の過半数は有力御家人が任命された。

 2 御家人は貨幣経済に対応できずに窮乏していたが、荘園の年貢の銭納はまだ行われていなかった。
 3 朝廷は、蒙古襲来に際して、敵国降伏の祈願を行ったが、暴風雨による元軍の敗退を受けて神国思想が広がることになった。
 4 3度目の襲来に備え、鎌倉幕府は異国警固番役を継続するとともに、鎮西奉行の権限強化をはかった。
 5 蒙古襲来後も日本と元との間の緊張関係が続いたが、経済関係はさらに深まった。」

(答:問1マルコ=ポーロ、問2→1 ※2返書していない、3行われていた、4文永の役の前から始まった、5執権貞時のときの1293年に奉納、問3三別抄、問4う(1271)、問5てつはう、問6え(長門)、問7い(無学祖元)※難読僧名は読みだけ示しておく。う兀庵普寧(ごつたんふねい)、え東巌慧安(とうがんえあん)、お一山一寧(いつさんいちねい)、問8い(義時)、問9内管領、

問10→3・5 ※1過半数が北条氏一門へ、2荘園の一部では年貢の銭納もおこってきた、4鎮西奉行(1185~)は鎮西探題(1293~)の設置で実質的機能は失われた)〉

〈2013早大・国際教養:「下線部f元寇に関連して述べた文として誤っているものはどれか。1つ選べ。

 ア 元軍の兵士のなかには、高麗の人々も多く含まれていた

 イ 恩賞の不足から、御家人は鎌食幕府への不満を募らせた
 ウ 元からの使者を鎌倉で斬り殺した
 エ 文永の役の後、御家人を異国警固番役に動員するようになった
 オ 高麗では、三別抄が元に対して抵抗を続けた」

(答:エ ※文永の役の前に始まる)〉

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