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奥州藤原氏

2018-07-03 | 入試問題+ゴロ合わせ

清基秀泰。

衡・衡・衡・衡)(藤原4代


[ポイント]

1.奥州藤原氏4代は、清衡→ 基衡→ 秀衡→ 泰衡である。

[解説]

1.清原氏は出羽の俘囚(ふしゅう)(帰順した蝦夷)の長。清原武則のときに前九年の役源頼義を助け、対抗勢力安倍氏を討ち、平定後その功で鎮守府将軍となり奥羽(おうう)最大の政治勢力となった。

2.初代藤原清衡(1056~1128)は大豪族清原氏の一族(母の連れ子)として育った。清衡は、武則の2代後に生じた相続争い(後三年の役、1083~87)を機に、源義家(1039~1106)に協力し異父兄弟を倒して清原氏の覇権を握り、奥州藤原氏として独立し平泉に居をかまえた。


3.以後基衡(?~1157?)・秀衡・泰衡と4代にわたってここを拠点に、豊富ななどを背景に奥羽に勢力をふるい、京風の文化を発展させた。藤原秀衡(3代、1122~87)の代に最盛期を迎える。


4.しかし藤原泰衡(4代、1155~89)の代に、源頼朝に追われた源義経(1159~89)をかくまったことを理由に、対抗勢力源頼朝(1147~99)に攻撃され、敗北・滅亡した。

5.中尊寺藤原清衡が、毛越寺藤原基衡が、無量光院(むりょうこういん)は藤原秀衡の妻が創建した。

〈2016関西学院大学・全学部

問8.下線部h平泉に関連して、奥州藤原氏の本拠地である平泉に所在しないものを、下記より選びなさい。

 ア.毛越寺跡 イ.白水阿弥陀堂 ウ.中尊寺 エ.柳之御所跡」

(答:イ ※岩手県平泉町ではなく福島県いわき市にある)〉

〈2013成城大学・経済

 次の文章を読み、下記の設問に答えよ。

 2011年の6月にA平泉はユネスコの世界文化遺産に登録された。登録名は「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」というもので、対象となったのは、[ 1 ]、[ 2 ]、観自在王院跡、[ ア ]跡、金鶏山である。これらはまさに、平安時代後期の12世紀において、ほぼ100年にわたり平泉の地に展開した奥州藤原氏による文化遺産に他ならない。

奥州藤原氏の初代清衡は11世紀末に当地における支配力を高め、金や馬などの産物によって富を築き、京都の文化を移入するとともに、北方の地との交易によって独自の文化を育てた。その繁栄は二代[ イ ]、三代[ ウ ]と続いたが、四代[ エ ]の時に[ 3 ]によって滅ぼされた。

 [ 1 ]は初代清衡、[ 2 ]は二代[ イ ]、観自在王院は[ イ ]の妻、そして[ ア ]は三代[ ウ ]によって創建された仏教寺院である。これらの寺院には多くの仏堂が造営され、多数の仏像が安置されていた。そのさまは、当時の京都の寺院に勝るとも劣らない壮麗なものであったと考えられ、まさに平泉の地に現出した仏国土であったといえよう。しかし。仏堂と仏像が当初の姿を伝えているのは[ 1 ]の[ 4 ]のみで、その多くが失われてしまった。[ 4 ]の[ オ ]や螺鈿によって荘厳され、内陣に設置された二つの須弥壇にはそれぞれ阿弥陀三尊像をはじめとする諸仏が安置され、往時の栄華のさまを今日に伝えている。


問1 空欄1~4にもっとも適当な語句を記入せよ。


(答:1中尊寺、2毛越寺、3源頼朝、4金色堂


問2 下線A平泉について、平泉の所在する都道府県名を答えよ。


問3 空欄アについて、もっとも適当な語句を以下から選べ。


 a蓮華王院 b無量光院

 c往生極楽院 d無量寿院

問4 下線B奥州藤原氏の初代清衡は11世紀末に当地における支配力を高めについて、そのきっかけとなった二つの争乱の名称を答えよ。


問5 空欄イ、ウ、エ、について、もっとも正しい組み合わせを以下から選び、記号で答えよ。


 aイ泰衡 ウ秀衡 エ基衡

 bイ秀衡 ウ基衝 エ泰衡
 cイ基衡 ウ秀衡 エ泰衡
 dイ泰衡 ウ基衡 エ秀衡
 eイ秀衡 ウ泰衡 エ基衡
 fイ基衡 ウ泰衝 エ秀衝

問6 空欄オについて、金銀粉を蒔きつけた漆工芸の名称を答えよ。」


(答:2岩手県、3b、4前九年の役・後三年の役、5c、6蒔絵)〉

〈2013大学入試センター試験:「下線部b朝廷や幕府と結びつき、多くの荘園を有していた東大寺・興福寺・延暦寺など「旧仏教」の寺院に関連して「旧仏教」と政治権力の関係について述べた文として正しいものを、つぎの1~4のうちから一つ選べ。

 1.白河天皇(上皇)は、のちに六勝寺と総称される寺院の一つである法勝寺を建立した。

 2.源平の争乱(治承・寿永の内乱)の際に、平氏により延暦寺が焼き討ちされた。
 3.後鳥羽上皇による倒幕計画が進むなか、天皇家出身の慈円はそれを諫める書物を著した。
 4.平泉に中尊寺金色堂を建立した奥州藤原氏は、秀衡が源頼朝に討たれ、滅亡した。」

(答:1 ※2延暦寺ではなく南都寺院、3慈円は摂関家の出身、4秀衡ではなく泰衡)〉

〈2012明大・文

10 下線部(力)後三年合戦以後の出来事として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。

 1.戦乱などの社会不安を背景に、末法思想が民衆の間に急速に広まった。

 2.後三条天皇は、荘園の乱立をおさえるため、延久の荘園整理令を発した。
 3.東北地方は、清原(藤原)清衡やその子孫が支配する地となった。
 4.武士の実力が認められ、宮中を警護する滝口の武士がはじめておかれた。」

(答:3 ※1後三年合戦は1083~87年。末法思想は1052年を末法元年とする思想でありその前後に流行、2延久の荘園整理令は1069年、4滝口の武士設置は宇多天皇が10世紀においた)〉


1159(平治元)年 〈平治の乱〉★★

2018-07-03 | Weblog

 

●平安時代(二条天皇 後白河上皇)

Heiji disturbance; Fujiwara Nobuyori and Minamoto no Yoshitomo opposed Taira no Kuiyomori and Fujiwara Michinori.

人々(ひとびと)困窮 平治の世。

         1159年        平治の乱 藤原信頼 源義朝

 

保元の乱で父為義の斬首を余儀なくされた源義朝は恩賞に対する不満を高じさせていた。1159年、後白河院の近親藤原信頼と結んだ義朝は藤原通憲(信西)を殺し、平治の乱を起こしたが平清盛に敗れ、平氏政権への道が開かれた。


[ポイント]

1.平治の乱の負け組が源義朝藤原信頼で、勝ち組が平清盛藤原通憲(みちのり)(信西)である。

[解説]
1.保元の乱後まもなく(2年後)院政をはじめた後白河上皇の近臣間の対立から、1159(平治元)年には、清盛と結ぶ藤原通憲(信西)に反感をいだいた近臣の一人藤原信頼が、源義朝と結んで兵をあげ、通憲を自殺に追い込んだ。

2.源義朝(1123~60)側は、清盛が熊野参詣で留守中に乱(平治の乱)を起すが、武力にまさる清盛の反撃にあい、敗走中に尾張で殺された。乱後、義朝の子の頼朝伊豆に流された。


3.藤原信頼(1133~59)は、後白河天皇に愛されたが、権勢を振るっていた藤原通憲に昇進を邪魔されて恨み、源義朝とともに平治の乱を起し、敗れて斬殺された。


4.藤原通憲(1106~59)は、妻が後白河天皇の乳母だった関係で側近となる。法号を信西(しんぜい)という。平清盛と結び権勢を振う。勝ち組だが、乱の初めに殺される。史書『本朝世紀』などの著作がある。


5.この二つの乱に動員された兵士の数はわずかであったが、貴族社会内部の争いも武士の実力で解決されることが明らかとなり、武家の棟梁としての清盛の地位と権力は急速に高まった。

〈2015関西学院大・文法商人間

 下線部g保元・平治・治承の時代に起きた出来事として、誤っているものを下記より選びなさい。

 ア.藤原通憲・平清盛に反感を抱く藤原頼長が、源為義と結んで兵を挙げた。

 イ.皇位をめぐる後白河天皇と崇徳上皇の対立を原因の一つとして乱が起こった。
 ウ 源義朝は天皇方につき、父の為義と敵対した。
 エ、藤原成親や僧の俊寛らが平氏打倒の陰謀をめぐらせたが、失敗した。」

(答:ア※保元の乱の対立(兄藤原頼通×弟藤原頼長)と平治の乱の対立(院近臣藤原通憲×同藤原信頼)が混同されている)〉

〈2014明大・政経(政治・経済・地域行政)

 下線部(イ)保元および平治の乱について、保元の乱では平清盛と同じ陣営についたが、平治の乱では対立した人物はだれか。A~Eから一つべ。

 A源為義 B源義朝
 C平忠正 D平重盛
 E藤原通憲


(答:B)〉