無為ヒューズ当然栄光。
1861年 ヒュースケン暗殺事件・東禅寺事件)(英公使館)
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1.開港直後の主な外国人殺傷事件は、1861年・ヒュースケン暗殺事件→1862年・東禅寺事件→1863年・イギリス公使館焼打ち事件と続いた。
[解説]
1.ヒュースケン暗殺事件(1861)は、駐日アメリカ公使ハリスの通訳ヒュースケン(1832~61)が米公使館への帰途、薩摩藩士に暗殺された事件。彼はオランダ生まれの外交官で、21歳でオランダからニューヨークに渡る。日米通商条約交渉で活躍。大変な親日家で惜しまれる人材だった。
2.東禅寺事件(1862)は、水戸藩浪士14人がイギリスの仮公使館だった江戸高輪の東禅寺を襲撃した事件。イギリス外交官2人が負傷。この結果、品川御殿山に公使館が建設されることになった。
3.イギリス公使館焼打ち事件(1863)は、長州藩の高杉晋作・久坂玄瑞ら10人前後が、品川御殿山に建築中のイギリス公使館を焼打ちした事件。
和田さん多く門見よし。
和田義盛・侍所大江広元・公文所(三善康信・問注所 執事
[point]
1.鎌倉幕府の中央3機関は、侍所(別当は和田義盛)、公文所(別当は大江広元)、問注所(執事は三善康信)である。
[解説]
1.侍所は1180年設置で、鎌倉に設けられ、御家人統率、警察の任に当った。長官は別当で、初代別当は和田義盛(1147~1213)。和田氏は三浦氏の一族で、頼朝の死後北条氏と対立し和田合戦で敗死。
2.公文所は1184年設置で、鎌倉幕府の一般政務を行う機関で、頼朝が右近衛大将に任じられてのちは政所と改称される。長官は別当。初代は公家出身の大江広元(1148~1225)が源頼朝に招かれ就任。広元の献策で守護・地頭が設置された。
3.問注所も1184年設置で、鎌倉幕府の訴訟・裁判の処理機関。長官は執事で、これも源頼朝に招かれた公家出身の法律家三善康信(1140~1221)が就任。
4.なお侍所の次官は所司という。室町幕府も先例にならって侍所を置くが、その長官は(別当ではなく)所司である。
5.公文所は、頼朝が右近衛大将に任じられてのちの、1191年、政所と改称される。
〈2017関西学院大・商人間文法
問5 つぎの文章a・bについて、それぞれの正誤を判断せよ。
a.鎌倉幕府の政所の初代別当には三善康信が、問注所の初代執事には大江広元が就いたが、両名は源頼朝が京都から招いた貴族であった。×
b.永仁の徳政令は、御家人の所領の質入れや売買を禁止し、それまでに質入れ、売却した領地を無償で取り戻させることなどを命じた。」
(答:a×、b〇 ※三義康信→問注所、大江広元→政所)〉
〈2014立大・法・経済(経済政策)・異文化コミュ
下線部3鎌倉幕府が整備した支配機構でないのはどれか。次のa~dから1つ選べ。」
a.京都所司代 b.侍所
d.鎮西奉行 d.問注所)
(答:a)〉
〈2012早大・文
下線a東国武士のうち、鎌倉幕府の侍所初代長官(別当)に就任したのは誰か。その姓名を記入しなさい。」
(答:和田義盛)〉