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北条時頼

2018-07-22 | Weblog

時おり群れた蚊引き。
時頼)(宗尊(むねたか)親王・三浦氏滅す)(1249年)(引付衆(ひきつけしゅう))

[句意](わたしは)時により群れた蚊を恨み彼らを引きつけ(キンチョールを)シュッとすることがある、という句。「恨み」は「三浦」を倒置している。


[ポイント]

1.北条時頼は、引付衆を設け(1249年)、三浦泰村(みうらやすむら)を滅ぼし、宗尊親王(むねたかしんのう)を擁立した。

[解説]
1.合議制の採用や式目の制定など、執権政治の隆盛をもたらした泰時の政策は、孫の5代目執権北条時頼(1227~63)に受け継がれた。時頼は、1247(宝治元)年には、当時最大の力を持っていた御家人三浦泰村一族を滅ぼして(宝治(ほうじ)合戦)、北条氏の地位を不動のものとした。

2.また時頼は、前将軍の藤原頼経を京都におくり返して子の将軍頼嗣の力を弱め、1246年、頼経および泰時の甥に当たる名越光時(なごえみつとき)らの倒幕計画を抑えた。

3.時頼は、評定衆の会議である評定のもとに新たに引付をおいて引付衆を任命し(1249年)、御家人たちの所領に関する訴訟を専門に担当させ、敏速で公正な裁判の確立につとめた。

4.やがて幕府は、1252年、藤原将軍の頼嗣にかえて後嵯峨上皇の皇子で10歳の宗尊(むねたか)親王を将軍とした。この皇族将軍は以後4代続くが、いずれも実権はなく名目だけの将軍にすぎなかった。こうして執権政治は時頼のもとでさらに強化されたが、同時に北条氏独裁の傾向をつよめていった。

5.また、朝廷に政治の刷新と制度の改革を求め、これを受けて後嵯峨上皇院に評定衆をおき、幕府は朝廷の内部に深く影響力を持つようになった。

6.時頼は、から来日した蘭溪道隆(らんけいどうりゅう)を招き、建長寺を建立した。晩年、鎌倉に最明寺を建て出家し、最明寺殿(さいみょうじどの)と呼ばれた。

〈2014立大・経済(経済・会計ファイ)・コミュ福祉(スポーツウェルネス)・観光(観光)

 この人物北条時頼に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。」

 a.元から再三にわたって恭順を求められてきたが、これを拒否した

 b.評定衆の裁判実務を助けるために、その下に新たに引付衆を置いた
 c.源頼家を幽閉し、源実朝を次の将軍にすえた
 d.和田義盛を滅ぼし、侍所別当を兼務した。

(答:b ※a×時頼は1263年死去、元使の初来日は1268年、c×時政の治世のとき、d×義時の治世のとき)〉

〈2013慶大・法 

 合議制の採用や武家法の制定、公平な裁判など、執権政治の隆盛をもたらした泰時の政治は、孫の執権時頼に受け継がれた。1249年、時頼は、敏速で公正な裁判の確立のために訴訟制度の改革を行い。評定衆の会議である評定の下に訴訟機関連して[   ]を新設した。訴訟審理には「三問三答」の原則が適用された。訴人と論人による書面での主張の交換が三往復したのちに、両当事者の出頭が求められ「対決」あるいは「問答」という手続に移り、審理の結果の原案が、[   ]から評定に上程され、評定で出された結論が幕府の裁許として、勝訴者に下知状が渡された.

[   ]における裁判は、当初は、御家人の所領に関する訴訟を対象としていた。しかし、13世紀末頃には、訴訟の内容を基準とする裁判管轄に再編され、御家人訴訟以外も対象とされるようになった。いわゆる民事訴訟は、所領の知行経営(所務)に関する訴訟である所務沙汰と、所務以外の私人間の紛争にかかわる雑務沙汰があり。また、刑事訴訟である検断沙汰を含めた3つの訴訟類型について、それぞれ裁判機関が決められた。

(答:引付衆)〉