一時に踊り。
(一遍(いっぺん))(時宗(じしゅう))(踊念仏(おどりねんぶつ))
[ポイント]
1.一遍は浄土教の一派で踊念仏(おどりねんぶつ)による往生を説く時宗を開いた。
[解説]
1.法然・親鸞という同じ浄土教の流れのなかから、やや遅れて出たのが一遍(1239~89)である。一遍は、善人・悪人や信心(しんじん)の有無を問うことなく、すべての人が救われるという念仏の教えを説き、念仏札を配り、踊念仏(おどりねんぶつ)によって多くの民衆に教えを広めながら各地を布教して歩いた。この教えは時宗とよばれる。
2.一遍は、各地で布教し地方の武士や農民に広く受け入れられ、遊行上人(ゆぎょうしょうにん)と呼ばれた。
〈2015関西大・文商法など
鎌倉時代に地方を行脚した一遍の生涯を描いた『一遍上人絵伝』には、東西を貫く2{(ア)山陽道(イ)南海道(ウ)東海道}に近い吉井川の河原に形成された備前国福岡の市が描かれている。道を挟んで建てられた小屋には、米・鳥・布・履物などの品物が並べられ、往来する人々の間に裸足の一遍の姿がある。」
(答:2ア)〉
〈2013早大・国際教養
問10 下線部gについて、中国に渡航した経験のない僧侶は誰か。1つ選べ。
ア重源 イ栄西 ウ道元
エ一遍 オ俊芿
(答:エ ※俊芿 1183年(寿永3年)18歳の時に出家剃髪し、翌1184年(元暦元年)大宰府観世音寺で具足戒を受けた。戒律の重要性を痛感し1199年(正治元年)中国(宋)に渡った。径山の蒙庵元総に禅を、四明山の如庵了宏に律を、北峰宗印に天台教学を学んで、12年後の1211年(建暦元年)日本に帰国して北京律(ほっきょうりつ)をおこした。俊芿に帰依した宇都宮信房に仙遊寺を寄進され、寺号を泉涌寺と改めて再興するための勧進を行った。後鳥羽上皇をはじめ天皇・公家・武家など多くの信者を得て、そこから喜捨を集め、堂舎を整備して御願寺となり、以後、泉涌寺は律・密・禅・浄土の四宗兼学の道場として栄えることとなった。)