散歩の途中でのスナップ。携帯替えてから普段の写真はiPhoneXs。 CanonEOS6D FUJI X70はサブに
散歩の途中で… お腹がすいたよ~♪
五山送り火
葵祭・祇園祭・時代祭の京都三大祭に加えて京都四大行事と呼ばれる 五山送り火。
8月16日夜、夏の夜空にくっきりと浮かび上がる、「五山の送り火」は京の夏の終わりを告げる風物詩として全国的にも有名ですが、地元の人々にとっては祖先の精霊を送るという意味をもつお盆の行事という性格を忘れてはいけません。
荒神橋のたもとの河原でも、お爺ちゃん・お婆ちゃんからお孫さん等が並んで送り火を待つ傍らで、学生風の一団がお酒を飲みながら騒いでいて顰蹙をかっていました。
さて、送り火そのものは、お盆に冥府から帰ってきた祖霊を、再び冥府に送るという意味をもつ盆行事の一形態で、この行事が一般に広く行われるようになったのは、仏教が庶民の間に深く浸透した中世-室町時代以降であるといわれています。
記録を紐解くと、慶長8年(1603)の『慶長日件録』という古文書の7 月16日に、「晩に及び冷泉亭に行く、山々灯を焼く、見物に東河原に出でおわんぬ」という記述が初めて見られ、「山々灯を焼く」とあるのが鴨の河原から見られる大文字などの送り火であったと考えられています。
ところで、「送り火」の前につく、「五山」は東山如意ヶ嶽の「大文字」がもっともよく知られていますが、ほかに松ヶ崎西山・東山の「妙・法」、西賀茂船山の「船形」、金閣寺付近大北山(大文字山)の「左大文字」及び嵯峨仙翁寺山(万灯籠山・曼荼羅山)の「鳥居形」の五つを指します。
以前は「い」(市原野)、「一」(鳴滝)、「竹の先に鈴」(西山)、「蛇」(北嵯峨)、「長刀」(観音寺村)なども点されていたようですが、早くに途絶えたといわれています。
送り火の代表格といわれている「大文字」のはじまりは、平安初期・室町中期・江戸初期などの諸説がありますが、地元では銀閣寺から発見された古文書により室町中期に始められたという説も根強いようです。
この「大文字」。東山如意ケ嶽(にょいがたけ)の支峰大文字山(466メートル)の中腹にある「弘法大師堂」では、地元の浄土院のご住職が、大文字の点火と同時に、大の字中心部の火床「金尾(かなわ)」の近くで、すさまじい火勢の中で読経を続けるそうです。
こうして歴史を振り返れば、「送り火」にも自然と手を合わせられるようになりますね!
8月16日夜、夏の夜空にくっきりと浮かび上がる、「五山の送り火」は京の夏の終わりを告げる風物詩として全国的にも有名ですが、地元の人々にとっては祖先の精霊を送るという意味をもつお盆の行事という性格を忘れてはいけません。
荒神橋のたもとの河原でも、お爺ちゃん・お婆ちゃんからお孫さん等が並んで送り火を待つ傍らで、学生風の一団がお酒を飲みながら騒いでいて顰蹙をかっていました。
さて、送り火そのものは、お盆に冥府から帰ってきた祖霊を、再び冥府に送るという意味をもつ盆行事の一形態で、この行事が一般に広く行われるようになったのは、仏教が庶民の間に深く浸透した中世-室町時代以降であるといわれています。
記録を紐解くと、慶長8年(1603)の『慶長日件録』という古文書の7 月16日に、「晩に及び冷泉亭に行く、山々灯を焼く、見物に東河原に出でおわんぬ」という記述が初めて見られ、「山々灯を焼く」とあるのが鴨の河原から見られる大文字などの送り火であったと考えられています。
ところで、「送り火」の前につく、「五山」は東山如意ヶ嶽の「大文字」がもっともよく知られていますが、ほかに松ヶ崎西山・東山の「妙・法」、西賀茂船山の「船形」、金閣寺付近大北山(大文字山)の「左大文字」及び嵯峨仙翁寺山(万灯籠山・曼荼羅山)の「鳥居形」の五つを指します。
以前は「い」(市原野)、「一」(鳴滝)、「竹の先に鈴」(西山)、「蛇」(北嵯峨)、「長刀」(観音寺村)なども点されていたようですが、早くに途絶えたといわれています。
送り火の代表格といわれている「大文字」のはじまりは、平安初期・室町中期・江戸初期などの諸説がありますが、地元では銀閣寺から発見された古文書により室町中期に始められたという説も根強いようです。
この「大文字」。東山如意ケ嶽(にょいがたけ)の支峰大文字山(466メートル)の中腹にある「弘法大師堂」では、地元の浄土院のご住職が、大文字の点火と同時に、大の字中心部の火床「金尾(かなわ)」の近くで、すさまじい火勢の中で読経を続けるそうです。
こうして歴史を振り返れば、「送り火」にも自然と手を合わせられるようになりますね!
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