原作の「野ブタ。をプロデュース」。
原作の野ブタは男の子だし、彰もいない。
ラストもドラマ版では修二は、野ブタに関わっていくうちに他人を受け入れ変わっていくのに、原作では変わらない。
相変わらず他人に対して演技をしている修二君だ。
原作のラストはこう。
まわりから拒絶された修二は転校する。
そして初めて新しいクラスメイトのいる教室に入る時、こう決心する。
「もう一度やり直しだ。
敏腕プロデューサー「桐谷修二」なら必ず俺を無敵のタレントにしてくれる。
暑過ぎず、寒過ぎない、丁度いいぬくいところ。
そんな場所に今度こそ俺を連れていってくれ」
修二はゲーム感覚で、「桐谷修二」を演じようとしている。
それは「桐谷修二」を人気者にするゲーム。
「もう一度やりなおしだ」というのはゲームでいうリセット。
誰かを演じるということ。
他人を自分の心に踏み込ませないということ。
ゲーム感覚。
リセット。
この作品は極めて現代的なテーマを描いている。
では、原作の結末と180度違うドラマ版はどうだろうか?
野ブタと彰はどんどん修二の心の中に入ってくる。
修二の方も最初はゲーム感覚だったが、野ブタ・小谷信子の痛みを知って人しての心を取り戻していく。
ラスト、信子は笑うことが出来て解放される。
修二も「演じる」という心の囚われから解放された。
演じる必要なく、つき合える仲間がいる。
その喜び。
自分を見せずに「演じる」ということは孤独なことだ。
「演じる自分」という虚飾がなくなれば、空虚な自分しか残っていない。
虚飾であることがわかれば、他人は離れていく。
修二は野ブタに言う。
「気ぃ抜くなよ。おまえの人気はハリボテの人気なんだからな。映画のベイブだって一歩間違えればただのブタなんだから。おまえは中身がない分、落ちんの速いぞ。まっさかさまだ」
この様に修二は自分が虚飾の存在であることを理解している。
それでも演じなければならない修二。
この孤独。
人間なんてそんなに変われるものではなく、理解し合えるものじゃない。
だから自分は演じ続けるという原作。
理解し合えることを信じて、一歩踏み出してみようというドラマ版。
どちらに共感するかは読む者・見る者の自由だが、原作をここまでアレンジされた脚本の木皿泉さんは見事。
原作・ドラマ版、いずれも名作だ。
★追記
原作の中で語られた修二の心象をいくつか。
クラスに入ってくる修二。
「一人目をキレイにさばいた俺。しかし雪崩れ込むように二人目、三人目。今日も忙しい。いらっしゃませ、いらっしゃいませ」
授業前、女の子に自分の席に座られて
「あ~頭痛い。もうどいつもこいつもホントうるせーよ。生温かいし、イス。気持ち悪い。くそっ、臭え。なんだよこの香水。安もんだ絶対。ああ~早く授業始まれ。始まれ始まれ」
授業を受けている修二。
「誰が何を考えていようと、社会の中でそれぞれが決められた役割を演じれば、何事もなく一日は過ぎていく。俺たちは生徒として席に着き、おっさんは教師として教壇に立つ。誰がどう見ても授業をしていることが、わかれば、世の中は安心し、一日が成り立つ。大事なのは見テクレというヤツだ」
これらモノローグの表現を読んでいると、修二の孤独がわかる。
・「キレイにさばいた俺」のさばく。
・「うるせーよ」「臭い」
これらは他人を拒絶する言葉。
・「決められた役割を演じれば、何事もなく一日は過ぎていく」
これはあまりにも冷めた客観的な分析。
原作の野ブタは男の子だし、彰もいない。
ラストもドラマ版では修二は、野ブタに関わっていくうちに他人を受け入れ変わっていくのに、原作では変わらない。
相変わらず他人に対して演技をしている修二君だ。
原作のラストはこう。
まわりから拒絶された修二は転校する。
そして初めて新しいクラスメイトのいる教室に入る時、こう決心する。
「もう一度やり直しだ。
敏腕プロデューサー「桐谷修二」なら必ず俺を無敵のタレントにしてくれる。
暑過ぎず、寒過ぎない、丁度いいぬくいところ。
そんな場所に今度こそ俺を連れていってくれ」
修二はゲーム感覚で、「桐谷修二」を演じようとしている。
それは「桐谷修二」を人気者にするゲーム。
「もう一度やりなおしだ」というのはゲームでいうリセット。
誰かを演じるということ。
他人を自分の心に踏み込ませないということ。
ゲーム感覚。
リセット。
この作品は極めて現代的なテーマを描いている。
では、原作の結末と180度違うドラマ版はどうだろうか?
野ブタと彰はどんどん修二の心の中に入ってくる。
修二の方も最初はゲーム感覚だったが、野ブタ・小谷信子の痛みを知って人しての心を取り戻していく。
ラスト、信子は笑うことが出来て解放される。
修二も「演じる」という心の囚われから解放された。
演じる必要なく、つき合える仲間がいる。
その喜び。
自分を見せずに「演じる」ということは孤独なことだ。
「演じる自分」という虚飾がなくなれば、空虚な自分しか残っていない。
虚飾であることがわかれば、他人は離れていく。
修二は野ブタに言う。
「気ぃ抜くなよ。おまえの人気はハリボテの人気なんだからな。映画のベイブだって一歩間違えればただのブタなんだから。おまえは中身がない分、落ちんの速いぞ。まっさかさまだ」
この様に修二は自分が虚飾の存在であることを理解している。
それでも演じなければならない修二。
この孤独。
人間なんてそんなに変われるものではなく、理解し合えるものじゃない。
だから自分は演じ続けるという原作。
理解し合えることを信じて、一歩踏み出してみようというドラマ版。
どちらに共感するかは読む者・見る者の自由だが、原作をここまでアレンジされた脚本の木皿泉さんは見事。
原作・ドラマ版、いずれも名作だ。
★追記
原作の中で語られた修二の心象をいくつか。
クラスに入ってくる修二。
「一人目をキレイにさばいた俺。しかし雪崩れ込むように二人目、三人目。今日も忙しい。いらっしゃませ、いらっしゃいませ」
授業前、女の子に自分の席に座られて
「あ~頭痛い。もうどいつもこいつもホントうるせーよ。生温かいし、イス。気持ち悪い。くそっ、臭え。なんだよこの香水。安もんだ絶対。ああ~早く授業始まれ。始まれ始まれ」
授業を受けている修二。
「誰が何を考えていようと、社会の中でそれぞれが決められた役割を演じれば、何事もなく一日は過ぎていく。俺たちは生徒として席に着き、おっさんは教師として教壇に立つ。誰がどう見ても授業をしていることが、わかれば、世の中は安心し、一日が成り立つ。大事なのは見テクレというヤツだ」
これらモノローグの表現を読んでいると、修二の孤独がわかる。
・「キレイにさばいた俺」のさばく。
・「うるせーよ」「臭い」
これらは他人を拒絶する言葉。
・「決められた役割を演じれば、何事もなく一日は過ぎていく」
これはあまりにも冷めた客観的な分析。