平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

野ブタ。をプロデュース 白岩玄

2006年11月26日 | 小説
 原作の「野ブタ。をプロデュース」。
 原作の野ブタは男の子だし、彰もいない。

 ラストもドラマ版では修二は、野ブタに関わっていくうちに他人を受け入れ変わっていくのに、原作では変わらない。
 相変わらず他人に対して演技をしている修二君だ。
 原作のラストはこう。
 まわりから拒絶された修二は転校する。
 そして初めて新しいクラスメイトのいる教室に入る時、こう決心する。
「もう一度やり直しだ。
 敏腕プロデューサー「桐谷修二」なら必ず俺を無敵のタレントにしてくれる。
 暑過ぎず、寒過ぎない、丁度いいぬくいところ。
 そんな場所に今度こそ俺を連れていってくれ」

 修二はゲーム感覚で、「桐谷修二」を演じようとしている。
 それは「桐谷修二」を人気者にするゲーム。
 「もう一度やりなおしだ」というのはゲームでいうリセット。

 誰かを演じるということ。
 他人を自分の心に踏み込ませないということ。
 ゲーム感覚。
 リセット。

 この作品は極めて現代的なテーマを描いている。
 では、原作の結末と180度違うドラマ版はどうだろうか?

 野ブタと彰はどんどん修二の心の中に入ってくる。
 修二の方も最初はゲーム感覚だったが、野ブタ・小谷信子の痛みを知って人しての心を取り戻していく。
 ラスト、信子は笑うことが出来て解放される。
 修二も「演じる」という心の囚われから解放された。
 演じる必要なく、つき合える仲間がいる。
 その喜び。
 自分を見せずに「演じる」ということは孤独なことだ。
 「演じる自分」という虚飾がなくなれば、空虚な自分しか残っていない。
 虚飾であることがわかれば、他人は離れていく。
 修二は野ブタに言う。
「気ぃ抜くなよ。おまえの人気はハリボテの人気なんだからな。映画のベイブだって一歩間違えればただのブタなんだから。おまえは中身がない分、落ちんの速いぞ。まっさかさまだ」
 この様に修二は自分が虚飾の存在であることを理解している。
 それでも演じなければならない修二。
 この孤独。

 人間なんてそんなに変われるものではなく、理解し合えるものじゃない。
 だから自分は演じ続けるという原作。
 理解し合えることを信じて、一歩踏み出してみようというドラマ版。
 どちらに共感するかは読む者・見る者の自由だが、原作をここまでアレンジされた脚本の木皿泉さんは見事。

 原作・ドラマ版、いずれも名作だ。

★追記
 原作の中で語られた修二の心象をいくつか。

 クラスに入ってくる修二。
「一人目をキレイにさばいた俺。しかし雪崩れ込むように二人目、三人目。今日も忙しい。いらっしゃませ、いらっしゃいませ」

 授業前、女の子に自分の席に座られて
「あ~頭痛い。もうどいつもこいつもホントうるせーよ。生温かいし、イス。気持ち悪い。くそっ、臭え。なんだよこの香水。安もんだ絶対。ああ~早く授業始まれ。始まれ始まれ」

 授業を受けている修二。
「誰が何を考えていようと、社会の中でそれぞれが決められた役割を演じれば、何事もなく一日は過ぎていく。俺たちは生徒として席に着き、おっさんは教師として教壇に立つ。誰がどう見ても授業をしていることが、わかれば、世の中は安心し、一日が成り立つ。大事なのは見テクレというヤツだ」

 これらモノローグの表現を読んでいると、修二の孤独がわかる。
・「キレイにさばいた俺」のさばく。
・「うるせーよ」「臭い」
 これらは他人を拒絶する言葉。
・「決められた役割を演じれば、何事もなく一日は過ぎていく」
 これはあまりにも冷めた客観的な分析。

コメント
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