汐見茂思が死んだ。
結核が死病であった時代。サナトリウムで療養していた彼は肺葉の摘出手術を受け、死んだのだ。
その死は「自殺」と思えるような死であった。というのは当時、摘出手術は困難なものとされていたのだが、それを汐見は強引に受けたいと言い、執刀を受けている時も手術の中止を主張する医師に「やってくれ」と言い張って続行させたのだ。
やがて死んだ汐見の枕の下から2冊のノートが発見される。
「僕の愛した者たちは何故に去ったか。僕のどこが間違っていたのか」
こう書かれた彼のノートには、彼が18歳と24歳の恋とその挫折が書き綴られていた。
福永武彦の「草の花」は、理知にとらわれ過ぎたがゆえに愛する人を失い、人生に挫折した青年を描いた青春文学の傑作である。
18歳。旧制高等学校の学生であった汐見は後輩である藤木忍に想いをよせる。
「人生は憧憬にあふれ、生きるに値するもので、魂を美しくすることをひたすら求めた」という理想と熱情に燃える若き汐見は、藤木の中に「美しい魂」を見たのだ。
汐見は藤木について先輩に語る。
「藤木の魂を理解しているのは僕だけなんです。僕は美しいもの、純粋なものを(藤木の中に)一度発見した以上、僕自身の魂、この汚れた魂をも美しくし、また他人をも美しい眼で見ていくことができると思うんです」
藤木を限りなく美しいものとしてとらえ、汐見はふたりの魂のつながりを求めるが、「僕は下らない、平凡な人間です」と考える藤木は、汐見の気持ちに応えることが出来ない。
藤木には自分を理想化する汐見の気持ちが重荷だったからだ。汐見はこの時期の青年にありがちな哲学青年であり、完全な魂のつながりを説くプラトンの哲学を理想としている。そしてその哲学から藤木を見ている。見ているのは藤木本人ではない。
それは24歳の恋も同じだった。
相手は藤木の妹の千枝子。
藤木はその後病気で亡くなり、藤木の面影を残す千枝子に惹かれる様になる。千枝子も兄の所に出入りしていた汐見をよく知っており、汐見に好意を寄せているが、現実を見ない汐見に自分との隔たりを感じている。
「汐見さんは呑気な人ね。だってあなたの頭の中にあるのは古典とか文学とかあたしたちに縁のないものばかりでしょう」
一方、汐見は千枝子の信仰するキリスト教を戦争に無力だったとして否定する。ふたりの関係はすれ違い、やがて傷つけ合うばかりになり、終わりを迎える。
汐見は藤木や千枝子を愛したのではなく、自分の理想を愛したのだ。
相手を自分の理想に投影して、その幻影を愛した。理想と現実は違うからいずれは裏切られる。自分の理想は自分自身に他ならないから、結局汐見の愛は自分を愛することでしかない。だから自分とは違う異質な人間(例えばクリスチャンの千枝子)が心の中に踏み込んでくると、それを否定してしまう。汐見は愛を求めていながら、結局は誰も愛せなかった孤独な人間だった。
作品中、汐見が千枝子とショパンの演奏会に行って、千枝子が大喜びする場面があるが、ここで描かれたふたりは本当に心の通った恋人どうしの様に見える。汐見もこのことが忘れられず、他の男と婚約した千枝子に再び演奏会のチケットを送るが、こうしたことに幸せを見出せなかった所に汐見の悲劇がある。
「僕の愛した者たちは何故に去ったか。僕のどこが間違っていたのか」
汐見はこのふたつの恋をノートに書きながら、自分の挫折の理由を自問する。その理由を問いながら孤独に死んでいく汐見の姿はとてもせつない。
タイトル「草の花」は聖書の「人はみな草のごとく、その光栄はみな草の花のごとし」から来ている。
草である人はいずれ花を咲かすために生きている。
汐見が「草の花」となった時期はいつなのだろう。
若き日、「愛を信じ、人生の美しさを信じていた」頃のことを言うのだろうか。 その頃は何もかもが輝き、生命力に溢れていた。
結核が死病であった時代。サナトリウムで療養していた彼は肺葉の摘出手術を受け、死んだのだ。
その死は「自殺」と思えるような死であった。というのは当時、摘出手術は困難なものとされていたのだが、それを汐見は強引に受けたいと言い、執刀を受けている時も手術の中止を主張する医師に「やってくれ」と言い張って続行させたのだ。
やがて死んだ汐見の枕の下から2冊のノートが発見される。
「僕の愛した者たちは何故に去ったか。僕のどこが間違っていたのか」
こう書かれた彼のノートには、彼が18歳と24歳の恋とその挫折が書き綴られていた。
福永武彦の「草の花」は、理知にとらわれ過ぎたがゆえに愛する人を失い、人生に挫折した青年を描いた青春文学の傑作である。
18歳。旧制高等学校の学生であった汐見は後輩である藤木忍に想いをよせる。
「人生は憧憬にあふれ、生きるに値するもので、魂を美しくすることをひたすら求めた」という理想と熱情に燃える若き汐見は、藤木の中に「美しい魂」を見たのだ。
汐見は藤木について先輩に語る。
「藤木の魂を理解しているのは僕だけなんです。僕は美しいもの、純粋なものを(藤木の中に)一度発見した以上、僕自身の魂、この汚れた魂をも美しくし、また他人をも美しい眼で見ていくことができると思うんです」
藤木を限りなく美しいものとしてとらえ、汐見はふたりの魂のつながりを求めるが、「僕は下らない、平凡な人間です」と考える藤木は、汐見の気持ちに応えることが出来ない。
藤木には自分を理想化する汐見の気持ちが重荷だったからだ。汐見はこの時期の青年にありがちな哲学青年であり、完全な魂のつながりを説くプラトンの哲学を理想としている。そしてその哲学から藤木を見ている。見ているのは藤木本人ではない。
それは24歳の恋も同じだった。
相手は藤木の妹の千枝子。
藤木はその後病気で亡くなり、藤木の面影を残す千枝子に惹かれる様になる。千枝子も兄の所に出入りしていた汐見をよく知っており、汐見に好意を寄せているが、現実を見ない汐見に自分との隔たりを感じている。
「汐見さんは呑気な人ね。だってあなたの頭の中にあるのは古典とか文学とかあたしたちに縁のないものばかりでしょう」
一方、汐見は千枝子の信仰するキリスト教を戦争に無力だったとして否定する。ふたりの関係はすれ違い、やがて傷つけ合うばかりになり、終わりを迎える。
汐見は藤木や千枝子を愛したのではなく、自分の理想を愛したのだ。
相手を自分の理想に投影して、その幻影を愛した。理想と現実は違うからいずれは裏切られる。自分の理想は自分自身に他ならないから、結局汐見の愛は自分を愛することでしかない。だから自分とは違う異質な人間(例えばクリスチャンの千枝子)が心の中に踏み込んでくると、それを否定してしまう。汐見は愛を求めていながら、結局は誰も愛せなかった孤独な人間だった。
作品中、汐見が千枝子とショパンの演奏会に行って、千枝子が大喜びする場面があるが、ここで描かれたふたりは本当に心の通った恋人どうしの様に見える。汐見もこのことが忘れられず、他の男と婚約した千枝子に再び演奏会のチケットを送るが、こうしたことに幸せを見出せなかった所に汐見の悲劇がある。
「僕の愛した者たちは何故に去ったか。僕のどこが間違っていたのか」
汐見はこのふたつの恋をノートに書きながら、自分の挫折の理由を自問する。その理由を問いながら孤独に死んでいく汐見の姿はとてもせつない。
タイトル「草の花」は聖書の「人はみな草のごとく、その光栄はみな草の花のごとし」から来ている。
草である人はいずれ花を咲かすために生きている。
汐見が「草の花」となった時期はいつなのだろう。
若き日、「愛を信じ、人生の美しさを信じていた」頃のことを言うのだろうか。 その頃は何もかもが輝き、生命力に溢れていた。