愛人を作った夫に怒った妻が、夫からすべてを奪い転落させていく。
メリル・ストリープの「シーデビル」はそんな作品だ。
ただしホラーやサスペンスものではない。
ブラックユーモア。
日本ではブラックユーモアは理解されないというが、確かに夫が罠にはまって追いつめられていく過程はある意味悲惨。妻の執念も怖ろしい。
そこをコメディにするのは、「観客に感情移入させない」ということである。
観客が夫に感情移入してしまえば、ホラーになる。
嫉妬に狂った妻に感情移入してしまえば、サスペンスになる。
だから登場人物たちをすごいおバカにして、観客を突き放す。
「あらあら、あの人たち、おバカねえ」と観客に言わせるように人物を描く。
観客に感情移入させないこと。
これがコメディの鉄則だ。
ただし「男はつらいよ」の様に日本人はどこかでバカやってる寅さんに感情移入したがる。日本人がキートンでなくチャップリンが好きなのもそのせいだ。
さて、このブラックユーモアの「シーデビル」。
観客に感情移入させない人物像とはこの様なものだ。
夫の浮気相手であるメアリー・フィッシャー(メリル・ストリープ)はロマンス小説作家。
内容のない甘いだけの小説。
そんな彼女だから海辺の豪華な屋敷に住み、装飾・衣服はすべてピンク。
言うこともこんな感じ。
「私の生活はシャンパン、キャビア、華麗な男たち」
「私は美しいことしか考えないの。美が私の作品を作る」
「セックスは神聖で美しいものよ。私はそれを描いているの」
確かに感情移入できない。
おまけにこんな美しい世界に住んでいるメアリーは結構俗物だ。
・歳をごまかしている。
・若いセックスフレンドを執事として家に住まわせている。
・若い時は誰とでも寝て(セックスが大好きで)、子供をハラんだこともある。
・自由で華麗な生活を送るために母親は老人ホームに入れている。
・男を自分のものにする術を知っている。
今回は「あの人には子供がいて幸せよ。私には何もないの。空っぽよ」「私、お金に強い人って大好きなの」と言って、会計士の夫を口説く。
きれいなロマンスの世界に住んでいる人間の裏の顔。
そこには作者の冷め切った人間観があり、そのクールさが見る者を引かせる。感情移入させない。
復讐を受ける夫に関してもそうだ。
まず、こんなメアリーみたいな女に入れあげる姿に感情移入できない。
妻のことを「俺の人生の負債だ」と言って責める。
彼は段々傲慢になっていき、メアリー以外とも浮気をする。
妻に使ったのと同じ言い訳をして、メアリーに浮気をごまかす。
だから妻にひどいめに遭っても全然気の毒な気がしない。
復讐をする妻ルーサもそうだ。
その過激ぶりはもはや観客の理解を超えている。
例えば、夫の大事な財産である「家」を破壊する時。
彼女は、電気のたこ足配線を山のようにし、ガスを出しっぱなし、レンジにはスプレー缶を入れスイッチを入れ、タバコは消さないまま捨て放題、フェザーのクッションを切り裂いて空中に散布させ引火しやすい様にする。
怖ろしい。
感情移入できない。
「シーデビル」はこの様な作品。
喜劇とは何かを考える時に参考になる作品だ。
★追記
この作者の透徹した人間観は好感が持てる。
先程のロマンス作家メアリー。
浮気相手の子供や老人ホームの母親がいっしょに住むことになってロマンスの世界が書けなくなる。ロマンス小説に1章を使った洗濯のシーンが登場する。
そして浮気相手にも裏切られてすべてを失った彼女は……。
今度は地に足のついた本格小説で再び脚光を浴びる。
試練と挫折が彼女を深くしたのだ。成長させたのだ。
こんな人間観。実に深い。
こんな言葉も劇中で言わせている。
「どんなに熱くても愛人が妻の様にふるまい出すと、男は覚める」
メリル・ストリープの「シーデビル」はそんな作品だ。
ただしホラーやサスペンスものではない。
ブラックユーモア。
日本ではブラックユーモアは理解されないというが、確かに夫が罠にはまって追いつめられていく過程はある意味悲惨。妻の執念も怖ろしい。
そこをコメディにするのは、「観客に感情移入させない」ということである。
観客が夫に感情移入してしまえば、ホラーになる。
嫉妬に狂った妻に感情移入してしまえば、サスペンスになる。
だから登場人物たちをすごいおバカにして、観客を突き放す。
「あらあら、あの人たち、おバカねえ」と観客に言わせるように人物を描く。
観客に感情移入させないこと。
これがコメディの鉄則だ。
ただし「男はつらいよ」の様に日本人はどこかでバカやってる寅さんに感情移入したがる。日本人がキートンでなくチャップリンが好きなのもそのせいだ。
さて、このブラックユーモアの「シーデビル」。
観客に感情移入させない人物像とはこの様なものだ。
夫の浮気相手であるメアリー・フィッシャー(メリル・ストリープ)はロマンス小説作家。
内容のない甘いだけの小説。
そんな彼女だから海辺の豪華な屋敷に住み、装飾・衣服はすべてピンク。
言うこともこんな感じ。
「私の生活はシャンパン、キャビア、華麗な男たち」
「私は美しいことしか考えないの。美が私の作品を作る」
「セックスは神聖で美しいものよ。私はそれを描いているの」
確かに感情移入できない。
おまけにこんな美しい世界に住んでいるメアリーは結構俗物だ。
・歳をごまかしている。
・若いセックスフレンドを執事として家に住まわせている。
・若い時は誰とでも寝て(セックスが大好きで)、子供をハラんだこともある。
・自由で華麗な生活を送るために母親は老人ホームに入れている。
・男を自分のものにする術を知っている。
今回は「あの人には子供がいて幸せよ。私には何もないの。空っぽよ」「私、お金に強い人って大好きなの」と言って、会計士の夫を口説く。
きれいなロマンスの世界に住んでいる人間の裏の顔。
そこには作者の冷め切った人間観があり、そのクールさが見る者を引かせる。感情移入させない。
復讐を受ける夫に関してもそうだ。
まず、こんなメアリーみたいな女に入れあげる姿に感情移入できない。
妻のことを「俺の人生の負債だ」と言って責める。
彼は段々傲慢になっていき、メアリー以外とも浮気をする。
妻に使ったのと同じ言い訳をして、メアリーに浮気をごまかす。
だから妻にひどいめに遭っても全然気の毒な気がしない。
復讐をする妻ルーサもそうだ。
その過激ぶりはもはや観客の理解を超えている。
例えば、夫の大事な財産である「家」を破壊する時。
彼女は、電気のたこ足配線を山のようにし、ガスを出しっぱなし、レンジにはスプレー缶を入れスイッチを入れ、タバコは消さないまま捨て放題、フェザーのクッションを切り裂いて空中に散布させ引火しやすい様にする。
怖ろしい。
感情移入できない。
「シーデビル」はこの様な作品。
喜劇とは何かを考える時に参考になる作品だ。
★追記
この作者の透徹した人間観は好感が持てる。
先程のロマンス作家メアリー。
浮気相手の子供や老人ホームの母親がいっしょに住むことになってロマンスの世界が書けなくなる。ロマンス小説に1章を使った洗濯のシーンが登場する。
そして浮気相手にも裏切られてすべてを失った彼女は……。
今度は地に足のついた本格小説で再び脚光を浴びる。
試練と挫折が彼女を深くしたのだ。成長させたのだ。
こんな人間観。実に深い。
こんな言葉も劇中で言わせている。
「どんなに熱くても愛人が妻の様にふるまい出すと、男は覚める」