茶々(宮沢りえ)を許すことが出来ない江(上野樹里)。
そんな江に様々な人が語りかける。
京極龍子(鈴木砂羽)は「いた仕方ありません」
秀勝(AKIRA)は「心安らかに」
初(水川あさみ)は「男と女は解せぬもの」
彼らは、どうにもならないことなら、それを現実として受けとめて心穏やかに生きろと暗に諭している。
怒りや憎しみに囚われて大事なもの、つまり姉の茶々を失うなと語っている。
そして、これらの発言のベースにあるのは、<現実の肯定>である。
現実を否定すればするほど、人は怒りや憎しみを募らせ、どんどん袋小路に追いやられていく。
北政所(大竹しのぶ)はこう語る。
今回のことで嫉妬する自分に「おのれの小ささ、醜さを感じた。しかし、それも女心、それも私、大事にせねばな」。
これも<現実の肯定>。
北政所は、嫉妬する自分、小さくて醜い自分、それらをすべて肯定した。
この結果、彼女は「役目の異なる豊臣の妻」という結論を見出した。
怒りや嫉妬に囚われていては、この結論にたどり着かなかったであろう。
そして江。
北政所たちとの話を通して、こんな結論を見出した。
「うらみや憎しみをひとりの赤子がぬぐい去ってくれた」
江は理解したのだ。
姉がひとつの命を宿したことは素晴らしいことだ、と。
憎しみをぶつけるより、いっしょに喜ぶことの方が幸せなのだ、と。
怒りや憎しみに囚われてしまうと大事なものが見えなくなる。
現実を肯定することによって見えてくるものがある。
今回はそんなお話。
ドラマとしては相変わらず薄味ですけどね。
江が「うらみや憎しみをひとりの赤子がぬぐい去ってくれた」という結論に至る過程の描写も今ひとつ説得力がない。
あるいは、このドラマ、何かが足りない。
何かひとつ調味料が加わることで、変わってくる気もするのだが。
それは秀忠(向井理さん)の登場なのかもしれない。
そんな江に様々な人が語りかける。
京極龍子(鈴木砂羽)は「いた仕方ありません」
秀勝(AKIRA)は「心安らかに」
初(水川あさみ)は「男と女は解せぬもの」
彼らは、どうにもならないことなら、それを現実として受けとめて心穏やかに生きろと暗に諭している。
怒りや憎しみに囚われて大事なもの、つまり姉の茶々を失うなと語っている。
そして、これらの発言のベースにあるのは、<現実の肯定>である。
現実を否定すればするほど、人は怒りや憎しみを募らせ、どんどん袋小路に追いやられていく。
北政所(大竹しのぶ)はこう語る。
今回のことで嫉妬する自分に「おのれの小ささ、醜さを感じた。しかし、それも女心、それも私、大事にせねばな」。
これも<現実の肯定>。
北政所は、嫉妬する自分、小さくて醜い自分、それらをすべて肯定した。
この結果、彼女は「役目の異なる豊臣の妻」という結論を見出した。
怒りや嫉妬に囚われていては、この結論にたどり着かなかったであろう。
そして江。
北政所たちとの話を通して、こんな結論を見出した。
「うらみや憎しみをひとりの赤子がぬぐい去ってくれた」
江は理解したのだ。
姉がひとつの命を宿したことは素晴らしいことだ、と。
憎しみをぶつけるより、いっしょに喜ぶことの方が幸せなのだ、と。
怒りや憎しみに囚われてしまうと大事なものが見えなくなる。
現実を肯定することによって見えてくるものがある。
今回はそんなお話。
ドラマとしては相変わらず薄味ですけどね。
江が「うらみや憎しみをひとりの赤子がぬぐい去ってくれた」という結論に至る過程の描写も今ひとつ説得力がない。
あるいは、このドラマ、何かが足りない。
何かひとつ調味料が加わることで、変わってくる気もするのだが。
それは秀忠(向井理さん)の登場なのかもしれない。