片倉スズメ(上野樹里)は平凡な主婦、夫は海外赴任中で、自分を唯一必要としてくれるのはペットの亀。
そんな生活ゆえ、スズメは自分の<存在の希薄さ>を感じている。
誰にも必要とされないこと、誰にも気に掛けられないこと、これは存在していないのと同じことなのだ。
他人の中にあって、泣いたり笑ったり、心配されたり心配したり、何かを与えられたり与えたり、こららのことで人は自分が生きていると実感できる。
しかし、スズメにはそんな生きている手応えがない。亀にエサをやるだけの単調な毎日が延々と続くだけである。
この作品は、そんな現代人が感じている<存在の希薄さ>を描いている。
こう書くと、この作品は深刻な難しい映画の様に思われるかもしれない。だが、そんなことはない。
見事なコメディになっている。
さて、そんなスズメに転機が訪れる。
何とスパイになってしまうのだ。
もっともスパイとはいっても、007・ジェイムス・ボンドの様な派手なアクションをするわけではない。
命令が来るまで、目立たない普通の生活を送ることを要求される。自分がスパイであることを公安にさとられてはいけないからだ。
だからスズメは商店街のくじ引きでも一等が当たらない様に祈る。ティッシュが当たって大喜びする。
スーパーの買い物でも主婦らしい買い物を要求される。アーティチョークなどという珍しい野菜を決して買ってはならない。
公安の存在を意識して、運転していても落ち着かない。
川で溺れている子供を助けても、名前も名乗らず去っていく。
スパイ仲間もラーメン屋もすごい腕を持ちながら、店に行列が出来ることを避けるため、美味しくも不味くもない<そこそこのラーメン>を作っている(笑)。
そんなスズメのスパイ生活は、今までのスズメの生活と何ら変わりがない。ほとんど同じ生活。
だが、心は<ザワザワ>している。日々が充実している。
この違いの理由は何だろう?
スパイとしての使命・役割を与えられているからだ。
ラーメン屋や豆腐屋など他のスパイたちに仲間だと認められているからだ。
スズメの<存在の希薄さ>は、役割を与えられること(=誰かに必要とされること)、存在を認められることで解消される。
上手いですね。<存在の希薄さ>というテーマを見事な隠喩で描いている。
自分が生きていると実感したかったら何かになろう。
スズメの場合はスパイだったが、他にもきっと何かがあるはずだ。
そんな生活ゆえ、スズメは自分の<存在の希薄さ>を感じている。
誰にも必要とされないこと、誰にも気に掛けられないこと、これは存在していないのと同じことなのだ。
他人の中にあって、泣いたり笑ったり、心配されたり心配したり、何かを与えられたり与えたり、こららのことで人は自分が生きていると実感できる。
しかし、スズメにはそんな生きている手応えがない。亀にエサをやるだけの単調な毎日が延々と続くだけである。
この作品は、そんな現代人が感じている<存在の希薄さ>を描いている。
こう書くと、この作品は深刻な難しい映画の様に思われるかもしれない。だが、そんなことはない。
見事なコメディになっている。
さて、そんなスズメに転機が訪れる。
何とスパイになってしまうのだ。
もっともスパイとはいっても、007・ジェイムス・ボンドの様な派手なアクションをするわけではない。
命令が来るまで、目立たない普通の生活を送ることを要求される。自分がスパイであることを公安にさとられてはいけないからだ。
だからスズメは商店街のくじ引きでも一等が当たらない様に祈る。ティッシュが当たって大喜びする。
スーパーの買い物でも主婦らしい買い物を要求される。アーティチョークなどという珍しい野菜を決して買ってはならない。
公安の存在を意識して、運転していても落ち着かない。
川で溺れている子供を助けても、名前も名乗らず去っていく。
スパイ仲間もラーメン屋もすごい腕を持ちながら、店に行列が出来ることを避けるため、美味しくも不味くもない<そこそこのラーメン>を作っている(笑)。
そんなスズメのスパイ生活は、今までのスズメの生活と何ら変わりがない。ほとんど同じ生活。
だが、心は<ザワザワ>している。日々が充実している。
この違いの理由は何だろう?
スパイとしての使命・役割を与えられているからだ。
ラーメン屋や豆腐屋など他のスパイたちに仲間だと認められているからだ。
スズメの<存在の希薄さ>は、役割を与えられること(=誰かに必要とされること)、存在を認められることで解消される。
上手いですね。<存在の希薄さ>というテーマを見事な隠喩で描いている。
自分が生きていると実感したかったら何かになろう。
スズメの場合はスパイだったが、他にもきっと何かがあるはずだ。