平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

「小心者的幸福論」 雨宮処凛~生きることは、条件つきで誰かに認められたりするものではない

2016年09月17日 | エッセイ・評論
 デモなどに参加していると、時折、雨宮処凛さんを目撃する。
 僕はミーハーなので「おおっ、雨宮さんだ!」と感動したりする。
 でも、〝小心者〟なので、話しかけたり、本にサインを求めるなんてことは絶対に出来ない。

 そんな雨宮処凛さんの著書の中で、僕が愛読しているのが、『小心者的幸福論』(ポプラ社)だ。
 とても心にやさしい本で、落ち込んだ時や迷った時に読むと、癒やされる。

 たとえば、次のような文章。
 雨宮さんは、〝何も生み出していない〟自分のダラダラした生活を振り返って、こう語る。

『このように、昨日から今日にかけての行動を列挙しただけで、少なくとも1円にもなっていないし、何も生み出していないし、社会や人の役に立つようなことは何もしていない。
 そんな日々が続くことを人は「ダメ」というわけだが、私は「ダメ」な自分も「ダメ」な他人も心の底から肯定したいと思っている。
 なぜなら、今の世の中は「とにかく常に競争に勝ち抜いた上に生産性が高く、いつもスキルを磨く努力を怠らず即戦力になれる人間であれ」的な、市場原理に過剰適応しろというメッセージを発しているわけで、そんな圧力こそが「生きづらさ」のひとつの原因になっていると思うからだ』

 社会に入れば「生産性が高い」ことが要求される。
「生産性が低い」人は「ダメ」の烙印を押される。
 その烙印を押されたくなくて、人はがんばる。
 雨宮さんはそれが人を「生きづらくしている」と説き、こう展開する。

『誰も「「常に生産性が高い」状態なんかで生きられない。
 というか、競争に勝ち抜いて勝ち続けないと「生きる」ことさえ認められないなんてこと自体がおかしい。
「生きること」とか「ここにいること」は条件つきで誰かに認められたりする種類のものではない。
 なのに、なんとなく「ダメ」だったり「役に立っていない」と思うと「こんな自分が生きてちゃいけないのでは?」なんて思いが頭をもたげてしまう。
 しかし、当たり前だが生きることは無条件に肯定されるべきものだ。
「生存」は「褒美」であってはならないし、「許可制」であってもいけない』

 すごい主張だ。
 やさしいメッセージだ。

★「生きること」とか「ここにいること」は条件つきで誰かに認められたりする種類のものではない。
★当たり前だが、生きることは無条件に肯定されるべきものだ。
★「生存」は「褒美」であってはならないし、「許可制」であってもいけない。

 以前、神奈川で障がい者の方が連続殺傷される事件が起こったが、これらのメッセージをそのまま犯人に伝えたい。
 その他にも、『小心者的幸福論』には、生きていることを肯定する、やさしいメッセージがいっぱい書かれている。
 日々の生活で生きづらさを感じている方、疲弊している方に、この本をお薦めします。


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