小野田官房長(岸部一徳)と右京(水谷豊)が最後に交わした会話は次のようなものだった。(以下ネタバレ)
小野田「この国の警察をよくするために、もはや個人がどうのと言っているヒマはないんだから」
右京 「大局的見地というわけですか?」
小野田「わかってますよ。多少やり方が強引ってことは。当然、自覚はあるんだから。自分が全面的に正しいなんて思っていない。そもそも全面的に正しい人間なんてこの世にいない。つまりお前だって間違っている。なのにお前はそれを自覚していない分、質が悪い」
神戸 「それが官房長の正義ですか?」
小野田「正義の定義なんて立ち位置で変わるものでしょう。まさか絶対的な正義がこの世にあるなんて思ってる?」
右京 「……」
小野田の言っていることは正しい。
<正義の定義は立ち位置によって変わる>し、<この世に絶対的な正義なんてない>。
小野田がやろうとした人事一新による警察の全面改革だって、大きな歴史の流れで見たら正解なのかもしれない。
右京が真相解明をするによって、警察の改革が頓挫したら、警察はますます腐敗し、官僚的になり、機能しなくなるかもしれない。
小野田の改革が正解か不正解かは、五十年、百年経ってみないとわからないことだろうが、もし正解であった場合、右京がしたことは正しくなかったということになる。
小野田がしようとしていることは、小さなものを切り捨て、大きなものを活かすという行為である。
小さなものを<個人>、大きなものを<組織>や<国家>と言い換えてもいい。
一方、右京は逆だ。
大きなもののために小さなものが犠牲になってはいけない、と考えている。
<組織>や<国家>のために<個人>が踏みにじられ、<真実>がうやむやにされたり、ねじ曲げられたりすることを嫌う。
今回の事件でいえば、朝比奈圭子(小西真奈美)や八重樫哲也(小澤征悦)の思いだ。
右京の行動は、ひとりの警察官としては正しい。
なぜなら個人は小さな存在であり、弱いからだ。簡単に大きなものに踏みにじられる。
<組織>や<国家>は簡単に<個人>を切り捨てる。
だから、右京は小さなものを守る。警察手帳を持つ者の責任として。
権力という大きなものの持つ力には、到底かなわないかもしれないが、警察手帳もひとつの力。
その力を行使して、弱い小さなものを守らなければならない。
しかし、何が正義かということになると、小野田の言ったことが正しい。
「正義の定義なんて立ち位置で変わるものでしょう。まさか絶対的な正義がこの世にあるなんて思ってる?」
この問いかけに対して右京は何も反論しない。ただ、黙っている。
右京も<正義の定義は立ち位置によって変わる>し、<この世に絶対的な正義なんてない>ことを理解しているのだ。
そして、右京と別れて数歩歩いた所で、小野田は殺されてしまう。
殺害の動機は、左遷させられた個人的な恨み。
これは皮肉だ。
なぜなら<組織>や<大義>のために生きた男が、<個人的な恨み>で殺されてしまうのだから。
小野田にとって右京は、行動を抑制するストッパー役だったのかもしれませんね。
<組織>のために謀略を行うのを止めてくれる存在。
行き過ぎになる暴走を「ちょっと待って下さい」と抑制してくれる存在。
それが最期のせりふ、「殺されるのならお前(右京)に殺されると思っていた……」に繋がる。
そして右京も。
小野田の言葉、「正義の定義なんて立ち位置で変わるものでしょう。まさか絶対的な正義がこの世にあるなんて思ってる?」を胸に、小さなものを守る刑事の仕事をまっとうしていくのであろう。
小野田「この国の警察をよくするために、もはや個人がどうのと言っているヒマはないんだから」
右京 「大局的見地というわけですか?」
小野田「わかってますよ。多少やり方が強引ってことは。当然、自覚はあるんだから。自分が全面的に正しいなんて思っていない。そもそも全面的に正しい人間なんてこの世にいない。つまりお前だって間違っている。なのにお前はそれを自覚していない分、質が悪い」
神戸 「それが官房長の正義ですか?」
小野田「正義の定義なんて立ち位置で変わるものでしょう。まさか絶対的な正義がこの世にあるなんて思ってる?」
右京 「……」
小野田の言っていることは正しい。
<正義の定義は立ち位置によって変わる>し、<この世に絶対的な正義なんてない>。
小野田がやろうとした人事一新による警察の全面改革だって、大きな歴史の流れで見たら正解なのかもしれない。
右京が真相解明をするによって、警察の改革が頓挫したら、警察はますます腐敗し、官僚的になり、機能しなくなるかもしれない。
小野田の改革が正解か不正解かは、五十年、百年経ってみないとわからないことだろうが、もし正解であった場合、右京がしたことは正しくなかったということになる。
小野田がしようとしていることは、小さなものを切り捨て、大きなものを活かすという行為である。
小さなものを<個人>、大きなものを<組織>や<国家>と言い換えてもいい。
一方、右京は逆だ。
大きなもののために小さなものが犠牲になってはいけない、と考えている。
<組織>や<国家>のために<個人>が踏みにじられ、<真実>がうやむやにされたり、ねじ曲げられたりすることを嫌う。
今回の事件でいえば、朝比奈圭子(小西真奈美)や八重樫哲也(小澤征悦)の思いだ。
右京の行動は、ひとりの警察官としては正しい。
なぜなら個人は小さな存在であり、弱いからだ。簡単に大きなものに踏みにじられる。
<組織>や<国家>は簡単に<個人>を切り捨てる。
だから、右京は小さなものを守る。警察手帳を持つ者の責任として。
権力という大きなものの持つ力には、到底かなわないかもしれないが、警察手帳もひとつの力。
その力を行使して、弱い小さなものを守らなければならない。
しかし、何が正義かということになると、小野田の言ったことが正しい。
「正義の定義なんて立ち位置で変わるものでしょう。まさか絶対的な正義がこの世にあるなんて思ってる?」
この問いかけに対して右京は何も反論しない。ただ、黙っている。
右京も<正義の定義は立ち位置によって変わる>し、<この世に絶対的な正義なんてない>ことを理解しているのだ。
そして、右京と別れて数歩歩いた所で、小野田は殺されてしまう。
殺害の動機は、左遷させられた個人的な恨み。
これは皮肉だ。
なぜなら<組織>や<大義>のために生きた男が、<個人的な恨み>で殺されてしまうのだから。
小野田にとって右京は、行動を抑制するストッパー役だったのかもしれませんね。
<組織>のために謀略を行うのを止めてくれる存在。
行き過ぎになる暴走を「ちょっと待って下さい」と抑制してくれる存在。
それが最期のせりふ、「殺されるのならお前(右京)に殺されると思っていた……」に繋がる。
そして右京も。
小野田の言葉、「正義の定義なんて立ち位置で変わるものでしょう。まさか絶対的な正義がこの世にあるなんて思ってる?」を胸に、小さなものを守る刑事の仕事をまっとうしていくのであろう。
小野田の言葉
今週の小美門が黛に言った言葉と近いですね
内容の深さはともかく
台詞として似ていますね
小野田さんがいつの間にか居ないので
不思議に思っていましたが
映画で死んでるなんて
テレビ視聴者を舐めてませんか?
「テレビ朝日の常套手段だ」と息子は言いますが・・・
いつもありがとうございます。
小野田官房長が言ったことは、テレビシリーズでも一貫して語られていたことですよね。
・大きな正義と小さな正義。
・正義は立場によって変わる。
テレビシリーズでしばしば繰り広げられた右京さんと官房長の対立関係は、まさにこれだったわけで、それが今回、最期の言葉として集約された形ですよね。
>テレビ視聴者を舐めてませんか?
別に舐めているとは思いませんけど、ちょっと不親切だなとは思います。
ごめんなさい。
僕も時間がないので、この映画の脚本の輿水泰弘さんなどだと思いますが、小野田絡みの作品で調べてみて下さい。
奥が深い台詞
大切な事を述べてる。
コメントありがとうございます。
改めて読み返してみましたが、確かに、小野田の台詞、深いですよね。
僕は『大きなものより小さなもの』『国家より個人』の立場なので異論があるのですが、小野田官房長の考え方を突き詰めていくと国家主義・全体主義になるんですよね。