福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

坂東十、十一番の由来について

2013-10-21 | 定例会のお知らせ
第十番 巌殿山正法寺(岩殿観音)真言宗智山派

本尊は千手観世音菩薩。真言は「おんばざらたらまきりく」(相好端正な坐像、鎌倉初期。)
開基、逸海上人、養老二年(七一八)。
ご詠歌「後の世の 道を比企見の 観世音 この世を共に 助け給へや」
坂東霊験記には「詣くる浮世のひとを漏らさじと、ちかひの網をひきの岩殿」とある。

歴史
坂東霊験記によると「養老年間逸海上人が修行中 に千手観音、不動、毘沙門天を感得し、以降岩殿山正法寺としてにぎわう。」とある。
その後 源頼朝の命により比企能員が復興(坂東記には平政子が再興したとある。)能員が北條氏にせめられて死去、その嫡子時員は出家、当寺を護った。
のち室町時代には、「袖をつき踵をめぐらして現当二世の道をねがふ」(河越軍記)者が多く大いに栄えた。
だが永禄十年(一五六七)松山城合戦の兵火で焼亡、一山の僧徒は離散。天正二年(一五七四)僧栄俊が中興。
のち寛永年間及び明治十年に失火。
現在のお堂は明治十二年高麗村から移築したもの。
江戸時代末期の『山吹日記』に「仏殿に馬の古画の額をかゝげたり。寺僧の説に古法眼の筆なりと。昔はぬけ出て、夜な夜な麦をくひけるを、ある画師の筆をそへて撃ぎとめしより、出ることなくなりし」という(「抜け絵馬」)。

霊験
その昔、比企の山中に悪龍が住み、村人たちに害を加えていた。たまたま奥州征討に向かう坂上田村麻呂将軍の一行が通りかかったので助けを求めた。そこで田村麻呂はこの岩殿山の観世音に冥助を乞う祈願をこめたところ、時ならぬに大雪が降り、そのため山頂より一カ所だけ雪の消えている所を発見し、観音より拝授の矢で討ちとった(坂東霊験記)。

つい最近のブログには「観音信仰とそのご利益」として正法寺住職中嶋政海氏のはなしがある。
「当山住職となって十年ほどたったある日、本堂裏と北の切りたった崖に生えている木々の枝を伐採、清掃していた時のことだった。三時の休憩を終え、立ち上って二、三歩進み出したその時、それまで座っていた場所めがけて三十センチぐらいの岩が三つばかり、がらがらと崖の上から転がり落ちてきたのだ。
一瞬、肝をつぶす思いがした。わずか数秒の差で生死を分けたのだ。慈悲深い観音さまのご利益に、合掌して深く頭を垂れずにはいられなかった。」


第十一番 岩殿山安楽寺(吉見観音)真言宗智山派

本尊は聖観世音菩薩。真言は 「おんあろりきゃそわか」 
開基 坂上田村麻呂、大同元年(八〇六)。 
ご詠歌「吉見よと 天の岩戸を 押し開き 大慈大悲の 誓いたのもし」

歴史
坂東観音霊験記に「坂上田村麻呂が東征途上比企より吉見にでる途中、観音様の霊夢を見、吉見が城跡、異香薫ずる岩殿で行基菩薩の刻まれた聖観音様を感得する。
のち奥州で合戦のおりこの観音47眷属が加勢し賊を滅ぼす。これに感じ入った田村麻呂が帰路堂をたて霊場とした」とある。
のち源範頼が平治の乱で助命された後、この寺の稚子僧となるが、ついに領主となり、所領を寄進、三重塔、大講堂を建立している。
天文年間の合戦では堂舎を失い、住僧は離散という衰運を迎えたがのち下総国印旛郡出身の僧杲鏡が法華経読誦千日、別時念仏の行を積み、復興に精進、五間四面の観音堂と現存の朱塗りの三重塔を再建(県指定文化財)。
さらに杲鏡の弟子秀慶が七間四面の観音堂を寛文元年(一六六一)に完成。
ついで元禄に仁王門力士像、宝永に地蔵尊、薬師、十二神将像の造立、享保に御拝欄干の擬宝珠荘厳、宝暦に宝筐印塔等が完成。
特に本堂前の寛政二年 (一七九〇)鋳造の露座の阿弥陀如来は「吉見の大仏」と称される。
本堂の外陣には江戸初期の西国・坂東・秩父の百観音の「奉納額」が四十余枚あり、史料価値が高い。

霊験
門前では「厄除け団子」が売られている。これは昔、疫病が流行した時にダンゴをつくって観音さまへお供えし、難を逃れた故事によるものであるとされている。
坂東観音霊験記には「 元禄の中頃、細谷村の某氏なりわい不如意なため「自分は過去世で慳貪邪見にて布施行の善因を積まぬためこのような境遇にあるのではなかろうか」と反省し観世音に千日の祈願をする。 
ようやく千日成満の夜、夢の中に須弥壇のうしろより香衣の老僧が出現、「汝の願い浄心なればこの摩尼珠を与える」と黒色の玉を賜わる。
某氏は驚き、これは観音さまが自分の願いをあわれみ福聚の宝珠を賜わったのであろうと喜び、住僧の教えに従って観音さまを造立、胎内に感得の宝珠を納め朝夕祈念した。その後家業は繁昌、子孫繁栄し「近国に聞ゆる富豪となりぬ、黒色の球はけだし佛舎利なるか。法苑珠林にいわく舎利に三種あり一には骨舎利白色なり。二には髪舎利、黒色なり。三には肉舎利、赤色なり。悲華経、智度論等にいわく佛舎利は如意宝珠なりと。」」とある。
また同じ坂東記に「延享4年3月、石段敷石建立供養として近隣の僧侶が集まり土砂加持供養を修したがそのおりお堂の中より一陣の風が吹き出し十四,五町四方に霜の如くなる白砂を降らせた。なかには舎利に変じたものもあった。」とある。
 
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 明日、22日は坂東札所巡礼... | トップ | 今朝も心経で瞑想 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

定例会のお知らせ」カテゴリの最新記事