18番恩山寺はすばらしい秋晴れでした。石段を本堂に向かって登る時に蘇鉄の葉に頭をなぜられ、自分で勝手に小躍りしてしまいました。
それは法華経嘱累品にいう「摩頂」に似ていると思ってしまったからです。
梁塵秘抄には法華経嘱累品を引用して「一乗付属の儀式こそあはれに尊きものなれ、釈迦牟尼仏は座より下り菩薩の頂なぜたまふ」といい、江戸時代の真言宗の高僧慈雲尊者は「罪障消滅のしるし」といわれました。まことに今から思うと勝手な思い込みですが遍路の途中では本気でそう思ってしまうなにかがあるのです。
18番から19番立江寺の途中ではライトバンが私の前に止まり、初老の男の人が降りてきて、「お接待させて欲しい」といいます。
運転席には初老の女性が、後ろには若い男性が乗っています。
父親らしい男の人は「この子が生まれる時に、難産で頭を産道で圧迫されて知恵遅れになりました。四国を回れないのでこうしてお遍路さんに親子三人でお接待してます。」という。
私は錫杖でこの人の頭を加持してあげ「よくなりますよ」と思わず言ってしまいました。ご両親とも白髪になっており行く末を案じていることは痛いほど良く分かりました。
白髪の母親を見てなぜか中川宋淵禅師の「たらちねの生まれる前のうすあかり」という句が思い出されました。
現在の苦楽を生じている原因の原因の原因と原因を次々と、どこまでもどこまでも辿っていくとついに空空寂幕とした、でも何か明るい世界があるということでしょうか。現在の苦もいつまでも続くものではなくまさに空です。
この方々のことを、88箇所の最後までお祈りしました。同時にこういう人々を助ける力が欲しいと改めて強く思いました。今では、何故か、この男性はよくなっているような気がしています。