福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

四国八十八所の霊験・・15

2018-10-15 | 四国八十八所の霊験
18番恩山寺は眉山を右手に見ながら勝浦川を渡って小松島市へ入り中田駅から四㌔ほどの小高い山の中腹にあります。参道を登りつめると大師堂があり、本堂へはさらに石段を登ることになります。
17年の遍路ではここはすばらしい秋晴れでした。縁起によると、聖武天皇の勅願により、行基菩薩が厄除けのために薬師如来を刻み、本尊として開基、大日山密厳寺と号し、女人禁制としていましたが、創建後百年を経て、弘法大師がこの寺へこられました。そのとき母君の玉依御前が大師を慕っておいでになったが、女人禁制のため登ることができなかったため大師は仁王門の近くで秘法を修して女人開禁の祈念を成就され、母君を伴なって登山、日夜孝養をつくされ、大師は寺号を母養山恩山寺と改めたとされます。 御詠歌は「こをうめる そのちちははの おんざんじ とぶらいがたき ことはあらじな」です。

 「法性法親王四国霊場御巡行記」には「徳島の城の畔に数々の霊場なども多けれど、筆に誌すに暇なし、此の地の名物最多し、中に名高き大河を四国の三郎と(吉野川)世に唱ふ。この身を生める父母の恵みも深き恩山寺、一苦労の竹ノ下、弘法大師誕生の襁褓納めし所とや」と在ります。御大師様の襁褓を埋めているというのです。遍路地図ではちかくに釈迦庵襁褓塚というのがありますがここの事と思われます。しかし私は26年現在まだお参りできていません。

澄禅『四国遍路日記』には「恩山寺、大道より右の谷へ入る事五町ばかりにして二王門あり。夫れより二町ばかり行きて寺在り。寺より右坂を一町ばかり上りて本堂に至る。本堂南向き、本尊薬師如来。右の方に御影堂在り。其の傍ら五輪の石塔の苔むしたる在り。此れは大師の御母儀の御石塔也。地景殊勝なる霊地也。寺は真言宗也。坊主は留守也。寺より辰巳の方へ十町ばかり往きて民屋に一宿す。廿九日宿を出で、猶ほ辰巳の方へ行きて立江の地蔵寺に至る。是れ迄一里也。」とありました。
 
 17年最初の遍路の時は石段を本堂に向かって登る途中、蘇鉄の葉に頭をなぜられました。そして自分で勝手に小躍りしてしまいました。それは法華経嘱累品にいう「摩頂」に似ていると思ってしまったからです。梁塵秘抄には法華経嘱累品を引用して「一乗付属の儀式こそあはれに尊きものなれ、釈迦牟尼仏は座より下り菩薩の頂なぜたまふ」といい、江戸時代の真言宗の高僧慈雲尊者は「(摩頂は)罪障消滅のしるし」といわれました。
まことに今から思うと勝手極まる思い込みですが遍路道には本気でそう思わせてしまうなにか霊妙な雰囲気があるのです。
ここの納経所のご婦人方はいつもなにか暖かい雰囲気で遍路に接してくれます。20年に回ったときもここのご朱印の一部が漏れていたといって押しなおしてくれたこともありました。1番から歩いてくるとここらあたりで5日目となり相当疲れており、井戸寺近辺に泊まって次の日大体ここでお昼休みにすることが多いのです。25年には数人でタクシーで回ったのでここのことはほとんど覚えていません。やはり歩かなければ思い出はできません。

18番から19番立江寺までは4キロです。17年のときは、途中狭い道筋でライトバンが私の前に止まりました。初老の男の人が降りてきて、「お接待させて欲しい」といいます。運転席には初老の女性が、後ろには若い男性が乗っています。私はつかれていたので次の札所まで接待で乗せていただけるのかと勝手に思い込みそれでも「歩いているのでいいです」といいましたが何か様子が違います。どうも乗せてやると云っているのではなさそうでした。
そのうち後ろの席にいた青年が降りてたどたどしい足取りでパンとジュースを持ってきてくれました。父親らしい男の人は「この子が生まれる時に、難産で頭を産道で圧迫されて知恵遅れになりました。四国を回れないのでこうしてお遍路さんに親子三人でお接待してます。」というのです。 わたしはわれながら早とちりを恥ずかしくなりましたがそれでも気を取り直し、錫杖でこの人の頭を加持してあげ「よくなりますよ」と思わず言ってしまいました。しかしこの青年は必ずしも満足した様子ではありませんでした。ご本人は手で直接頭にさわってほしかったようです。こちらの自身のなさも見抜いているかのようでした。父親のほうは「この子は今必ずしも機嫌よくはなっていません。もとしっかり加持してください。」と青年の気持ちを代弁されました。私は自信のないまま何度か錫杖で加持しましたが、気持ちを汲んで、手で直接触ってあげるべきだったと後で後悔しました。ご両親とも白髪になっており青年の行く末を案じていることは痛いほど良く分かりました。死んでも死に切れぬ思いでこうして遍路に次々とお接待をしておられるのでしょう。
白髪の母親を見てなぜか中川宋淵禅師の「たらちねの生まれる前のうすあかり」という句が思い出されました。この苦悩を生じた原因の原因の原因と原因を次々と、どこまでもどこまでも辿っていくとついに空空寂幕とした、でも何か明るい世界があるということでしょうか。現在の苦も永遠に続くものではなくまさに空です。
しかし一茶も幼な子をつぎつぎと亡くして詠んだように「露の世は露の世ながらさりながら」です。この方々のことを、88箇所の最後までお祈りしました。同時にこういう人々を助ける力が欲しいと改めて強く思いました。
「日本仏教学会年報 通号 64」には「共生の関係論、高石伸人」という論文がありました。一部引用します。
「今まで私たちは障害や病気を体の一部が損傷されること,正常でなくなることと考えてきたのではなかろうか。そうではなく「病気や障害はその人に何かが欠けていることではなく何かをもたらしている」のではないか。・・
Ⅰ、多様性、一人一人の個としての差異の世界を分らせてくれる。まさに障害者一般などとはとても括れない個別性に満ちていて
2、人はそう簡単には分らないということを分らせてくれる。交換(感)不可能ということから尊厳性という世界が立ち上ってくる。
3、、ゴールとは何か、どこにあるかを立ち止まって考えさせてくれる。彼らはとても地位や名誉や金銭などといった安手のゴールには収まってくれない。
4、今日的価値に対抗している。「早く・ゆっくり」「しっかり・ぶらぶら」「がんばる・ぼちぼち」「わすれない・わすれることもある」等。「無形態、無方向、無時間性、無用性、無効性、無力性、無限性、非日常性、非現実性,誌的世界」を生きているともいえる。
5、競争より助け合うことに関心が深い。「智慧遅れの人たちはお互いに競争するより助け合いたいのです。スタイデル八重子氏」
6、居心地よい関係をもたらしてくれる。かれらはいつも自然体であり、ユーモアに充ちていて、そのぬくもりが辺りの空気を柔らかく包む。
7、「いのち」の平等性について考えさせてくれる。彼らのシンプルさを真似て私たちの身に貼り付いたものを剥ぎ取っていけばその芯にある「いのち」に突き当たる。何とも豊かさに充ちた世界がここにある。・・つまり彼らは「智慧遅れ=悪智慧遅れ」を生きることでわれわれにもう一つの価値を教えてくれる。すなわち「智慧遅れ」の世界から照射されることで私たちの依って立つ価値が如何にあてにならないものかを教えられるのである。そのような真実の智慧を佛教は説いてきたのではなかったか。]

18番から一時間くらい歩いて19番立江寺につきます。近くと参道に九ツ橋(自鷺橋)が見えます。やっと着いたとほっとするところです。この橋はいかにも札所の橋という風情で、欄干は擬宝珠です。19番立江寺は関所といわれ、罪深い遍路はここより先はいけないとされています。
 立江寺でいただいた略縁起です。『当山は人皇45代聖武天皇の勅願寺という格式をもった名刹であり、天平19年(747)に行基菩薩が光明皇后のご安産の念持仏として勅命により閻浮壇金の1寸八分の本尊「延命地蔵尊」(世にこれを子安の地蔵尊と称し奉る)をお作りになり伽藍を建立開基されました。伽藍建立の地を卜するにあたり、一羽の自鷺が何処ともなく飛んできまして九ツ橋(現在の自鷺橋)の上に止まり、行基菩薩に仏天の暗示として霊域を示したと伝えられています。以来この橋に白鷺が止まっているときに橋を渡ると、仏罰を受けるといわれています。弘仁6年(815)に弘法大師が四国八十八ケ所霊場をご開創時に、ここの行基菩薩のお作りになりました一寸八分の小像では後世になって紛失してしまうおそれがあるとお考えになり、御自ら一刀三礼、六尺に余る大像を刻まれ、かの小像をその御胸に秘収安置されまして当山を「立江寺」と号し、第19番の霊場とされたということです。この当時は、現在地より西へ400mはなれた現在の奥の院のあるところに、境内地3町四方を有する巨刹であったと伝えられています。天正年間に四国制覇をめざした長曽我部氏の兵火にあい、ご本尊を残して灰燼に帰しましたが、阿波藩主蜂須賀家初代蓬庵公の藩命により現在の地に移転再興されています。当山は「子安の地蔵尊」あるいは「立江の地蔵さん」との俗称で古くより霊験のあらたかなことで知られ、西国巡礼御詠歌集に高野山、善光寺などとならんで取り上げられている程に全国の善男善女の信仰の篤い名刺です。ご詠歌は「いつかさて西の住居のわが立江 弘誓の舟に乗りて到らん」です。
また「四国の総開所」として四国八十八ケ所の根本道場としても有名であります。昭和49年10月28日未明本堂他諸堂を焼失しましたが、奇蹟的に焼失をまぬがれましたご本尊のご威光と有縁の方々の浄業により昭和52年12月に復興事業が完成し、旧にましてすこぶる壮厳な昭和を代表する名寺院建築という評価を得た見事な聖堂に生まれかわり、わけても内陣の絵天井の豪華絢爛さは比類ないものとして有名であります。』 とありました。

「空性法親王四国霊場御巡行記」では「立江の地蔵伏拝、次に渡せる石橋に、白鷺居ると見得し日は、過失その身に降りかかる、其の知らせぞと言い伝ふ」とあります。白鷺のことは昔からのいいつたえだったのです。自分はいつも幸いこの白鷺の留まっている姿にはお目にかかりることはありませんでした。「四国霊験記」には「此立江寺の御本尊地蔵菩薩ハ四国第一等の御尊体成れば御霊現の多き故恐れざる者一人もなし。四国の札所七八回廻りて札を納めて此立江寺より一寸もさきへ行れずして亦跡へ戻る者数多是れあり。毎年いざりは足が立つ、盲は眼が開らき唖者ハ言語り、癩病の業人も此寺にて平癒して帰るもあり。亦聾は耳が聞へしも数多是れあり。亦々鉦の緒の髪に纏い付て髪の毛が根元よりきれたるもあり。亦さんげをして離るヽもあり。此立江寺のあらた成る霊験は一々筆にて記する事あたわず。」とあります。余程霊験が多かったのでしょう。
その一つ、肉付鐘の緒の由来 (四国の総関所と呼ばれる由縁について)という説明も寺にありました。
「石州浜田(現在の島根県浜田市)城下通町3丁目桜井屋銀兵衛にお京という娘あり、16歳の時大阪新町へ芸妓に売られ勤めるうち、要助という者と契りそめ、22歳の時大阪を脱走し生国浜田へ立ち帰り親に頼みて要助と夫婦になりしが、お京心様最も悪しく馴れるにつれ我儘増長し、鍛冶屋長蔵という密夫をつくり、之れを夫要助に嗅ぎ付けられ、二人とも散々に打ち擲されければ、邪見のお京は長蔵を手引きして、夫安助を打ち殺し、讃岐丸亀へ渡り自害せんとするも気おくれし、後生のため四国巡拝をなさんものと当山まで来たり。地蔵尊を伏し拝まんとするや忽ちお京の黒髪逆立ち鐘の緒に巻きあげられ苦痛の体に長蔵狼狽し、院主へ救いを請いければ、院主は罪の次第を問いただし、お京懺悔すれば、不思議にも、お京の黒髪もろともに肉はぎて鐘の緒に残り辛じて命はたすかりける。
生国にて自害の時おくれ、当山まで来りて大罪をこうむるは天の然らしむところと両人改悛の心を起し発心出家して、当村田中山(当山より北へ500メートル・現在のお京塚)というところに庵をむすび一心に地蔵尊を念じ生涯を終われり、肉付鐘の緒を当山の堂に納め置くは享和3年(1803)の春のことなり。」ということでした。境内にはこの髪が小さい祠に奉納されており茶色に変色し土埃にまみれていました。両手で抱えられるくらいのボリュームがあります。25年に行った時も大師堂の隣にあり、同行の御夫婦は「こんなに髪の毛があるのは少し気味が悪い」と言っていました。
澄禅「四国遍路日記」には「坊主は出世無学の僧成れども、世間利発にして富貴第一なり、堂も寺も破損したるを此の僧再興せらるたり也」としています。ここは宿坊もあり、この澄禅の時とは違い、お遍路を大切に扱ってくださいます。夕方には、本堂の巨大な延命地蔵様の前で勤行できます。私は二十数年前ここの先住庄野琳城師に高野山で伝法灌頂を受けておりなんともいえず懐かしく、いつもここでは同宿のお遍路の皆さん方の去ったあと夕闇のなか再度本堂に御参りし、一人でゆっくりお経をあげることにしています。
22年春太龍寺から歩いてきた四度目の巡拝の時は「あるき遍路の僧侶の方からは納経料は頂きません」といわれた上に、特別な部屋に通されました。申し訳ないので祈願料を払い先祖代々佛果増進の祈祷をお願いしました。泊めていただくのも4回目でしたがいつきてもなにかほっとするところです。特にご本尊様の巨大なお地蔵様がなんともいえずお優しい懐かしさを覚えるお顔なのです。


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