福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

自他の差別について

2013-12-04 | 法話
最近、自他の差別についての文章を多く目にし、なにか一皮むけた気がしています。
紹介します。

1、最初は以前ブログに出した朝比奈宗源老師の「覚悟はよいか」の記事です、「覚悟はよいか」「俺はそれまで『俺』にとらわれていた。「俺」しか見えなかった。それが俺をいやおうなしにとりまいてくださる仏心というものを見たのだ。それは自分を無にしてはじめて見えたのだな。自分が空しゅうなったのだな。・・・・無始無終ということは、俺にとらわれていると永久にわかりっこない。俺には生まれたという始めが在り、死という終わりがある。その俺が死んでも天地は生き生きと生きているだろう。山川草木すべて自然のままにあるだろう。それが「仏心」なんだなあ。仏心とはすべてを包んだもの、其の中に我は生き、我は死ぬが一体なるが故に生も超え、死をも超えることができる。俺は其の中に生きていたんではなく、すべてのなかに俺がいたのだ。すべてのものが俺であり、そういう俺がすべてのものだった。・・」

2、つぎは「掌の中の無限」の「われわれはみな星屑でできている。われわれは野獣の兄弟、野の花のいとこであり、・・例えば千四百三十一年、ジャンヌ・ダルクの火焙りのときの煙で散った何百万の原子核、紀元前のユリウス・カエサル最後の息に由来するいくつかの分子をわれわれは今も吸っているのです。」という記事です。


3、宮沢賢治は「農民芸術論」で「自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する・・」といいました。

4、那須 政隆師「《即身成仏義》の解説」に「三妄執のうちの「麁妄執」というのは、自他の差別を存する迷心(人執品の惑)、・・・無縁の大悲とは一切衆生は皆悉く無相平等の一心法界を体とすると観じておこす同体大悲のこと、無相平等の一心法界の境地には自他の対立がないから縁ずるものと縁じられるものとがないことを無縁の大悲という。・・・三密加持の境地は「私」というものがない処、これを早く覚ってもらいたい。・・・因も生滅の流れの過程であり、縁も果も同じく過程であるのだから密教では念念刻々絶対の真実であり、人生の営みの一歩一歩がすべてである。修行についてみると修行そのものが「さとり」である。 」とあります。

5、松長有慶師は「理趣経講讃」のなかで「清浄とは自他の差別のなくなったことである」という趣旨のことをおっしゃっておられます。(理趣経には「妙適清淨句是菩薩位。欲箭清淨句是菩薩位。觸清淨句是菩薩位。愛縛清淨句是菩薩位。一切自在主清淨句是菩
薩位。見清淨句是菩薩位。適悦清淨句是菩薩位。愛清淨句是菩薩位。慢清淨句是菩薩位。莊嚴清淨句是菩薩位。意滋澤清淨句是菩薩位。光明清淨句是菩薩位。身樂清淨句是菩薩位。色清淨句是菩薩位。聲清淨句是菩薩位。香清淨句是菩薩位。味清淨句是菩薩位。何以故一切法自性清淨故」という有名な十七清淨句があります。)

6、お大師様の「高野建立の初めの結界の時の啓白文」に「それ形あり、心あるものは必ず佛性を具す。仏性法性法界に遍じて不二なり。・・自身他身は一如と共んじて平等なり。これを覚るものは常に五智の台に遊び、これに迷うものは毎に三界の泥に沈む。」とあります。「われわれ衆生は本来宇宙の真理と一体のものである。自他一如が分からぬ者は永遠に迷うのだ」との趣旨です。

7、また同じく「即身成仏義」には、「彼の身即ち是の身、此の身即ち是れ彼の身、仏身即ち是衆生の身、衆生の身即ち是佛身なり。不同にして同なり。不異にして異なり。」とあります。「他人の体はそのまま自分の体であり、自分はそのまま他人である。そして我々は自分も他人も一体でそのまま仏である。」との趣旨です。

8、これもまた大師の「般若心経秘鍵」には「色空本より不二なり。事理元より来た同なり。」とおっしゃっり、「性霊集巻八」では「色を孕むものは空なり。空を呑むものは仏なり。仏の三密はいずれのところにか遍せざらん。・・」と述べられています。つまり、見える世界と見えない真理の世界は一体であり、見える世界はみえない真理の世界に包摂されており、そしてその真理の世界は仏の身口意の三密が遍満している世界であるということでしょうか。「自分」とか「個」などというものはもっと根本的なものに包まれていたのです。





コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« T.Kさんからお便りを頂きまし... | トップ | Tさんからお便りをいただきま... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

法話」カテゴリの最新記事