福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

2018-08-04 | 先祖供養
先ほど10年前の印度仏跡巡拝のビデオが出てきて懐かしく見ました。未明の霊鷲山で尊敬するa先生に引率されて観音経や般若心経をあげた後ゴミ拾いをしましているところが映っています。ブッダガヤでは金剛宝座で前後讃をあげているところなど非常にありがたく懐かしく思い出しました。あっという間の10年だった気がします。つい先ほどのように生生しく思い出します。時間とは不思議です。しかしこうして昔を懐かしむなどというのは全く下の下でした。
鈴木大拙「時の流れ」に「独尊者は「時」の流れに順はぬ、「時」の中に居ない。「時」は却つて彼の跡を逐ふのである。彼あるが故に「時」がある。彼の動くあとに「時」がのこるのである。彼には固より「時」をのこす意図も何もない、彼ほど現実の具体者はない。抽象せられた「時」なるものは彼を何ともすることが出来ぬ。彼の後へにくつついてまはつて居る。彼に追ひつかんといくらあせつても、彼はいつも「時」よりも一歩前進して居る。彼は「時」を使ふが、「時」は彼を使ひ得ぬ。昔趙州禅師は「諸人は十二時に使はれて居るが自分は十二時を使つて居る」と云つたが(趙州録「僧 趙州に問う、十二時中 如何んが用心せん? 州云く、汝は十二時に使わ    れ、老僧は十二時を使い得たり。汝 那箇の時をか問う?」)その通りである。趙州は独尊者であつた。これが臨済の、「随処に主となる」(「随処作主 立処皆真」(臨濟録))である。別に何かのはからひがあつて、主人公となると云ふのではない。「自然法爾」底なのである。人間的に「主」とか「客」とか云ふが、独尊者の方からはそんなものはない。孤行独往である。それを人間――「時」――が跡から跡からと逐ひまはる。而してそれを「歴史」と云つて、それに一所懸命にくひ下つて居る。彼等は「時」の流れに溺れるものである。」
「正法眼蔵・有時」では「いはゆる有時は、時すでにこれ有なり。有はみな時なり。丈六金身これ時なり。時なるがゆえに、時の荘厳光明あり。いまの十二時に習学すべし。三頭八臂これ時なり。時なるがゆえに、いまの十二時に一如なるべし。十二時の長遠短促、いまだ度量せずといへども、これを十二時といふ。…われを排列しおきて尽界とせり。この尽界の頭頭物物を時時なりと所見すべし。・・このゆえに同時発心あり、同心発時あり、および、修行成道も、かくのごとし。・・有時みな尽時なり。有草有象ともに時なり。時時の時に尽有尽界あるなり。・・いわゆる山をのぼり河をわたりし時にわれありき。われに時あるべし。われすでにあり、時さるべからず。」
これらを拝読するたびに自分は時間に使われている存在とひしひしと思わされます。
大日経住心品には、「所謂三時を越えたる如来の日、 加持の故に、 身語意平等句の法門なり」 ともあります。真理の世界には時間はない、そしては衆生も真理と一体であるということでしょうか。いたずらに時の流れの感傷になど浸っている場合ではない、主体的に動け、ということはわかります。
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