福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

今現在無数の人々が地獄の苦悩にのたうち廻っています

2021-07-05 | 法話

今現在無数の人々が地獄の苦悩にのたうち廻っています

 

この世は地獄かもしれません。今現在無数の人々が地獄の苦悩にのたうち廻っています。大災害の被災者の方々、事件事故の被害者の方々、幼子をおいて病苦に侵される親、最近の家族間の不和、また戦争やテロで無数の無辜の民が犠牲になる世界を見ているとこの世は地獄の真っただ中と思えます。さらに生存競争で他の生命を奪わなければ生きていけない地球上の生命体のありかたそのものを考えてもこの世は救いようのない地獄です。

仏典でも聖書でもこの世は苦であると繰り返し説いています。最近でも「大河の一滴(五木寛之)」では「『地獄は一定』という「歎異抄」の中に出てくる有名な言葉(「いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」)を、死んだらまちがいなく地獄へ落ちるこの身、という読みとりかたは私はしたくない。「一定」とは、いま、たしかにここにある現実のことと読む。 」といい、芥川龍之介は、「侏儒の言葉」で、「人生が無法則に思えることが地獄よりも地獄的である」と言っています。「・・・人生は地獄よりも地獄的である。(お経では)地獄の与える苦しみは一定の法則を破ったことはない。たとえば餓鬼道の苦しみは目前の飯を食おうとすれば飯の上に火の燃えるたぐいである。しかし(現実の)人生の与える苦しみは不幸にもそれほど単純ではない。目前の飯を食おうとすれば、火の燃えることもあると同時に、又存外楽楽と食い得ることもあるのである。のみならず楽楽と食い得た後さえ、腸加太児(ちょうカタル)の起ることもあると同時に、又存外楽楽と消化し得ることもあるのである。こう云う無法則の世界に順応するのは何びとにも容易に出来るものではない。・・」とあります。

しかし、こういう人たちが言うように、この世が「地獄だ」といくら現状分析をしてみても苦悩にのたうちまわっている当事者の事態は一向に改善しません。現状分析でなく、今の瞬間ものたうち回っている当事者達はどうすれば救われるか、ということが一番喫緊の課題です。福聚講も「地獄に落ちて苦しんでいる我々当事者はどうすれば救われるか」をテーマに開設してきたのです。結論は今までブログで具体例を多く出してきたように関係者は必死で「『衆生無辺誓願度』と拝む」「善行を積む」という事しかない気がします。拝み込んで善行を積んでも結果として思ったようにならなくても長い目で見ればそれはノーベル賞学者山中教授の説いているように「人間万事塞翁が馬」であり、旧約聖書「コヘレトの言葉」にいうように「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある」のであり、萩本 欽一さんの云うように「ダメなときほど運はたまる」のであり、千日回峰行者酒井雄哉大阿闍梨のおっしゃるように「人生にムダなことなどひとつもない」のです。長い目で見れば必ず「あの時があればこその今の幸せだ」と思える日が来ます。振り返ってみれば自分の人生もその繰り返しです。

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